un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

リュディガー・ブプナー「美的経験と美術館のあらたな役割」(2003)

[以下は Rüdiger Bubner, »Ästhetische Erfahrung und die neue Rolle der Museen«, in: Joachim Küpper und Christoph Menke, hrsg. Dimensionen ästhetischer Erfahrung, (Frankfurt a,M.:Suhrkamp 2003.) の試訳。拙訳のブプナー『美的経験』(法政大学出版)に付録としていれておけばよかったと後悔。凝縮された言葉遣いで難解な論述だが、美的経験につきまとう主観主義を払拭しその社会性を回復させる手段としての美術館の役割が、共通感覚の問題と共に語られている。]

 

 

         美的経験と美術館のあらたな役割

 

1.

  おそらく覚醒している同時代人なら誰でもパリのルーヴルをイメージできる。同様のことは、二〇〇〇年に初めて開設されたロンドンのテート・モダン美術館についても推測されてよい。そこで私としては、イギリスの首都を互いに競合するメトロポリスの頂点に格上げするこの新しい芸術施設に対してわずかばかりの注記をなしておこうと思う。周知のとおり一〇年来、ベルリンはくり返し[ロンドンと] 競い争っている。

  テート・モダンは一九世紀に立てられたテート・ギャラリーのいわば実質的移転であり、テート・ギャラリーはたとえばプレ印象派の画家ウィリアム・ターナーのようなその当時のモダンな芸術家に敬意を払っていた。テート・モダンもオルセーも産業―廃虚を芸術のための鑑賞空間に変えていることから、明らかにオルセー駅の美術館はテート・モダンの手本となっている。オルセー駅はずいぶん長い間使われていない駅であった。テート・モダンは戦後の発電所で、見苦しくなったテムズ川南岸に位置し、オルセー同様、使用されていなかった。それゆえわれわれは、産業時代のシンボルが美術館化される過程でモデルネの美学によるその占領の様子をみるのである。芸術と生の融合というロマン主義者のかつての夢は、認識できるかたちでさらなる現実化の歩みを始めた。すでに一〇〇年以上続いているとはいえ、われわれが時代錯誤的に「モデルネ」と呼ぶ運動全体は、移り変わりながら芸術と生とを統合するアスペクトの下にいつもあった。

  これを受けて、テート・モダンはそのエントランスホール[かつて発電機が置かれた「タービン・ホール」]において壮大な大聖堂ないし高尚な雰囲気をもつ公の収集施設のように現われ、ここに集団の自己表現を流行や身ぶりのうちに探し出す若者でおもに賑わっている。古典的な美術館が特定の市民階級の形成の場であったなら、社会的・民主的な前衛はここテート・モダンでも演出されている。このことはさらに進んで逆説的な仕方でイギリス的出来事の付属物となる事態になっており、その展示品はたとえばルーブルトラファルガー広場のナショナル・ギャラリーで展示されている、伝承によって聖化された作品を呈示していない。インスタレーション、アサンブラージュ[立体物を寄せ集める制作方法]、素材堆積、空間制作などを含む諸作品は、あらたなテート・ギャラリーにおいてたとえば「風景、事物、環境」や「静物、オブジェ、日常」や「裸体、アクション、身体」のような収集テーマごとに整理されている。これらのテーマはそのつどのアクチュアリティにしたがって入れ替えられるので、諸作品はいずれあらたな配置に編入されるだろう。いずれにせよ、エポックや流派による現用の芸術史の区分はもはや肯定されない。いいかえれば、美術館は全体として芸術作品へと姿を変えている。芸術作品という言い方を避けねばならないなら、美的な全体ショーの演出になっていると言ってもいい。

  古典的な美学は、アリストテレスがその第一人者となって形成し学派を形成しながらヨーロッパで発展させていった作品思想で営まれている。アリストテレスが言うように、テクネーの目標はエルゴンを形成することであり、古代において芸術は医学や修辞学などと同様に技芸のもとでその姿をあらわす。高等な手工業者としての芸術家は自らの能力をもちいて他者に承認されるものを創造する。芸術家の名声はここに基づき、その社会的に特別な役割はここに端を発している。ルネッサンスの板絵に典型的にみられるように、「なされた仕事opus fecit」という公の銘文が芸術家の名前を添えて見出される。古典的な作品思想はかくも広範に行き渡っている。

  作品思想は近世において天才概念と結びつく。ちなみにこの伝統は古代の技術理解とは区別されてこれとはまったく別の源泉に由来する。[ここで]キリスト教的創造理論の世俗化が引き合いに出されねばならない。その枠組みでは神的な作品職人が仮定されていて、そうした作品職人はいつでも教えたり習ったりできなければならない技術的な手法に広く熟達している。しばしば天才は「もう一人の神alter deus」として、すなわち芸術的なミクロコスモスの創造能力、小世界の創造能力がぜひとも認められるべき第二の神として言い表される。

  この第二の神に対応するのが、ミュージアム、すなわちミューズの神殿である。このミュージアムが成立したのは、ルネッサンスバロック以来、宮廷やパトロンの後援を受けた華美な展示の〈驚異の部屋Wunderkammer〉や〈珍品収集室Raritätenkabinett〉からである。後に市民階級はこれらを誰もが利用できる教養施設にまで格上げした。ドイツの美術館景観では、さまざまなところでこうした部屋の区分が今日まで見ることができる。王朝の遺産はミュンヘンやベルリンのコレクションで知ることができる。市民の自己意識を示しているのは、ケルンやフランクフルトやハンブルクでのコレクションである。作品概念とその展開に関する文献や、これに並行する美術館文化や芸術イデオロギーについての文献はすでに存在し、教えるところも多い。私としてはここでそれらをことさらに取り上げることはしない。

 

 

2.

  一九世紀末からのいわゆる「現代modern」芸術の成立に対して目に浮かぶのは、そうした芸術が当時の美術館運営に反対する根本的な論争にその根をもっているということである。アカデミズムの軽視は「独立派」の創始と共に始まる。分離派の人たちは自らを逸脱者と名乗っている。アヴァンギャルドは支配的な流派に対抗するサークルや緩い友人グループのうちで結束するようになる。いまや度重なるあけっぴろげな醜聞と同様にボヘミアンの態度のような風潮が日々の糧となる。芸術の自律は、まるで美術館の制度や悪事からアプリオリに身を守ることによってのみ意気揚揚とできるかのように映る。なるほど〈抵抗の形式はあらゆる革命に固有なものであって、以前の切れ目もまた同じように[さらに以前の切れ目と]競い合って登場したのだ〉という見解を人は持ち出すかもしれない。

  とはいえ、一八世紀においてディドロが記した短期間のうちにフランスのサロンから生じた美術館的なものの強化は、[美術館が]一九世紀中頃に市民のミューズ神殿となることで完全に達成された[芸術]育成の戦いにまで至り、モデルネの徹底的な解放のインパクトにとっての原理的な前提となる。アヴァンギャルドは様式流派のはやり廃りのうちでかつての優位を手放すことなく、より新しいものによっていったんは時代遅れのものとなる。新と旧のそうしたリズムはいつもあった。アヴァンギャルドは芸術の最終的な解放を自分自身に約束する。そしてこのことはあらゆる規則と慣習の廃棄を含んでいる。[アヴァンギャルドにおいて]社会的な義務と制約は[自らとは]異質の目標規定を意味するにすぎない。王や貴族や主導的階層をたたえる賛歌においてその支配が祝福されるように、もはや神々の称賛が歌われることはほとんどなくなる。

  このようにアヴァンギャルドは、自らに沿わぬ目的のために芸術を採用することすべてを非難する。パンテオン、古代の彫像、ゴシックの大聖堂、ヴェネツィアの自画像、オランダの海洋画などが、〈それらとまったく矛盾するような、芸術性を疎外した純粋な相貌をもつビーダーマイヤー調の家族を描いた室内画〉に見えるかどうか問われねばならない。このようにかつての時代の文化人がまだ意識していなかった仕方で、芸術になしえることを経験することは実際けっしてできない。今において初めて美的経験の時が開かれるように[芸術は経験されるのである]

  こうしたアヴァンギャルドの信念をみてみると、崇拝され大切にされた諸作品の場から若者の心を動かす役者たちの踊り場へという冒頭で粗述した美術館の変容がたしかに引き立てば引き立つほど、それは驚くべきものとなる。人がまさに大勢で行動を起こそうとし、程度の差こそあれこれを無言で芸術現象として表明するところでは、作品はもはや作品ではない。そうした作品は、挑発やショック、混乱させるビデオ・インスタレーション、際限なくくり返されるテレビの味気なさとして、つまりは足元に投げられるが、目の高さでは見つからない文明のゴミとして現われる。芸術は内実を密告し、水準を取り戻した。芸術は要請と同時に却下の見通しえない無数のサインに突然変異する。美術館は啓蒙された人々のもとでこのように同意された行事を行う礼拝所となる。そのかたわら、上で述べたテート・モダンで注意を惹いたのは、常設巡回展のホールは観衆を比較的強烈に引きつけていた一方、マーク・ロスコ[1903-70, アメリカの抽象表現主義の画家]の陰鬱で暗色系の絵画を展示する薄暗くされた瞑想のための礼拝堂は著しく空いていることだった。

 

 

3.

  さしあたり読者としては、筆者はいつになったら美的経験という予告された主題に至るのかと問うことだろう。というのも、美的経験の根本に美術館の催し物だけがあるわけではないからだ。読者には、いまここで、もっといえばこの注記の後で美的経験について語ると答えておこう。あまりまとまっていないわずかばかりの私の観察が際立たせた、古典的な作品概念の解体の歴史は、モデルネ全体につきまとうあるジレンマへとわれわれを導く。それは事柄と反省の間にある美的経験のジレンマである。つまり芸術家によって制作された産物としての作品が目の前に現われる限りは(そのさい技巧的側面と天才的側面は同一とみなされるかもしれない)、芸術活動のおかげで作品が存在すると言われるような何ものかが世界のうちに存在することになる。

  とはいえ、客体に結びつけられる作品把握と決別し、芸術的想像力を主観のうちで拡大させ、相互作用を制限しないようにするなら、われわれはもはや作品に面と向かうことはない。専門家の観客に気に入られ批評家によって手ほどきされた在来の芸術評価は崩れ去る。われわれは突如、謎に満ちた事物と対面し、それ以外の自然の事物や技巧の産物と対比されるこの事物が特別な地位にあるのは、ただ芸術的な決定にのみよっている。

  第一次大戦時代以来、革命的で今日では範例的とされているマルセル・デュシャンのレディ・メイドにおいて、われわれは自転車の前輪部や瓶立てのフレームや男性用トイレの公衆便器のようなありふれた製品と出会う。これらはデュシャンの作例であった。そうして写真や漫画、映画のアイドルや娯楽道具、トマトスープの詰まった缶、洗剤の容器、広告ポスター、ゴミ箱、食べ残し、紙の切れ端、石の山、建材、消化ホースといった大衆文化のあらゆる既製品が陸続と登場する。ウォーホールとポップ・アート、ボイス[ヨーゼフ・ボイス1921-86 独特の素材を用いた立体作品で知られるドイツの芸術家]と物質の神秘主義、数字絵や文字絵を用いる作者たち、ジョージ・シーガル[1924-2000アメリカの彫刻家。人体石膏作品で有名]やデュアン・ハンソン[1925-96アメリカの彫刻家]のような石膏やプラスティックによる等身像制作者、そしてペーパー・マッシェ[成形用パルプによる立体紙細工]を用いたり、蝋を用いたりする驚嘆すべき無数の素人制作者たちは、このデュシャンのブレイク・スルーという基礎の遺産である。

  その使用コンテクストから外れるか距離をとるかする単純な物の芸術は、作品制作の無効化という主要な帰結を現わしている。物は物そのものであり、様式化された変更を伴わずに現われる。とはいえそれらの物は美術館に存在し、それらを展示するという芸術上の決断のおかげで実在している。それゆえ石の山や建築用タイルは野ざらしの建材の一部ではなく、人為的な調整を添加されたものである。このように[これらの物は]商品世界の合図を伴い、スーパーマーケットやメディアや規格製品からとられた模造を伴っている。アメリカのスター広告以外の何ものも示していないジャズパー・ジョーンズ[1930- ポップ・アートの先駆者]の初期の絵画を見たとき、「これは旗かそれとも絵画か」がその当時に人口に膾炙した問いであった。

 

 

4.

  こうしたモデルネの芸術製品の計画された玉虫色は、不可避的にある反省結果をもたらす。君が思い違いをするのか、それとも対象が欺くのか。これらは石やスープの缶なのか、それとも全体がインスタレーション化されているのか。それがもし何も語らないなら、それをどう解釈すればよいのか。場合によっては他人から提供される芸術家の説明で十分なのか、アイロニカルに屈折したその説明や、文化批評を担った説明や、自分自身を解説する作者の視座であっさり誤解してしまうような芸術家の説明で十分なのか。もしくは、意図的であろうと構造的であろうと、惑わされてまさに制作者の意図からなされる解釈学的な理解の手ほどきに入り込むのか。[しかし]セザンヌからクレーを経てブルース・ナウマン[1941- アメリカの芸術家]やデイヴィド・ホックニー[1937- アメリカの芸術家。ポップ・アートにも参加]にいたるインタビューや書簡や日記から芸術家美学をいつものようにはめ込んでも、隙間は実際のところ埋まらない。芸術生産が物の相存在における解説抜きの展示に差し戻されるところでは、受容者の反省エネルギーはぐんぐん上昇し、受容者は何のきっかけも与えられないために、対象要件とうまく折り合おうとするが、いかなる解釈も信用しなくなる。

  それは、物があるがままにあり、それとして示されているところでは、解釈されるべきものが何もないからである。しかし物が芸術の後光と共に呈示されると、その分だけ物は人為的な効果の推測がはねつけられているかのように神経質な反省を惹き起こす。現代modern芸術の現われにおけるあらゆる直観を超えた説明要求、いわば現代芸術に内在する反省衝動は、モデルネとの関わる際の解釈上の基本装備になっている。こうしたことはもうすでにわれわれの了解事項であるどころか、フリードリッヒ・シュレーゲルの芸術理論が二〇世紀になって体験した遅い立身出世にも関連している。

  初期のロマン主義者であるシュレーゲルはすでに一八〇〇年頃に、古典的作品operaとは異なりある集中的な反省作業を惹き起こす芸術作品が、目標にいたることのない道を開拓すると強調している。モダンな作品(シュレーゲルはこれをロマン的と呼ぶ)はむしろ、美的に経験する個々の主体を超えて、歴史的に優勢になり伝播してゆく受容共同体に参加するよう命じる傾向を働かせる。

 そう主張するシュレーゲルの引用はこうである。

    私はイロニーの赴くまま、そこから〈時代は傾向の時代だ〉と説明する。これらすべての傾向が私自身によって適切かつ最終的にもたらされるという見解を私が抱くかどうか、もしくはそうされるのはむしろ私の兄[アウグスト・ヴィルヘルム]によってか、ティーク[ルートヴィッヒ・ティーク1773-1853 ドイツの作家]によってか、それ以外なら私の派閥のうちの一人によってか、ようやくわれわれの息子のうちの一人によってか、叔父もしくは大叔父、二七代目の叔父によってか、もっとも若い時にか、それとも誰もなしえないか。このことは、この問いを真正に本来的なものとする読者の智慧に委ねられている(1)

   以上が初期ロマン主義者の終末論的な解釈学である。誤りがあるとすればそれは、ここで言及される主観の受容共同体になんらかの任務をもたせている点である。たとえばそれは、あたかも慣習と共に現存する社会形態に抗議しなければならないかのごとく、混乱と無理解をもたらす芸術衝動から既成のものすべてに対する危機的な意識を漉し出す任務である。より先鋭に言うなら、部分的に克服された枠組みに対しこの任務は、資本主義やいまだ解放されていない人類や卑屈な根性や不寛容や常軌逸脱に対して抵抗するべきであるかのように語るのである。たしかにあらゆることに抵抗することで芸術は失われた意味を取り戻すが、反省はその真正な柔軟性を奪われる。

 芸術が平和に貢献するようになるところではキッチュがその頂点に達するが、ソビエトでは[このキッチュに対し]いつも禍々しい記憶が喧伝された。このことはもはや次第に人の耳目を惹かないようになる。つまり、モデルネの原則に沿って作品の確実性から距離をとった芸術を美的な基礎から考え、信じ、実践することを必ずしも推奨する必要はない。むしろわれわれにはひたすら美的経験が残されているだけである。各人は別々に各々の仕方で経験する。後の世代と同様、異なる社会集団や文化の方もあらたに始まってゆくだろう。これに対し、はっきりとした任務をもつ芸術はプロパガンダの条件を満たす。もし[共産主義の国々でそうだったように]古典主義者を崇拝する市民のアカデミズムがいまや恥を意味し嘲笑の的となるなら、国の任務に唯々諾々とする画家や詩人を徴集しようという人事活動はとりわけ嫌悪すべきものになろう。ドイツでは結局、東西再統一後にこのことについてじっくり考えるきっかけがあった。

 

 

5.

  たしかに、現代芸術においてなんらかの任務が内容に関わる仕方で判読されることはないが、現代芸術は自由なコミュニケーションの媒体を創り出している。おそらく各人は自分にはそのつどなされる経験しか残されていないと感じるが、その経験を生き抜く際の個別に強調された仕方は、この生き抜きを集団の要件に仕立てる枠組みのうちで遂行されている。主観主義は、それまでのミューズの神殿から規則も強制もない社会交渉の場へと構造変換される際の直接のパートナーに出会う。冒頭で記されたように、美的経験の壮大な演出化Inszenierungとしての美術館がここで引き受けるあらたな役割は、まさにこの提案と一致する。作品は収集されることを要求し、それを宝とすることは古いタイプの美術館のすることであった。「イベント」という流行表現が根づいた〈生起の場〉としてのあらたなタイプの美術館は、芸術の大聖堂に起こる生起の分だけ、もっといえばこれから先まったく別の仕方で空間を創出する分だけ、作品を中心から周辺へと移動させる。効力をもち、存続していて、保存されるに値する作品を欠いた保管場所は、奉仕の機能から自己目的へと変わってゆく。「イベント」としての美術館は、大衆という巡礼者が巡礼するに値する本来の芸術作品である(2)

 こう論ずることができるのなら、カントが自らの美学のうちで照らし出した古い問いに答えが出されるだろう。つまり、カントの『判断力批判』はその才気に富んだ段落において「センスス・コムーニス」、すなわち共通感覚についての教説を扱っている。彼の根源から発せられる言葉はより多くの意義を伴っている。センスス・コムーニスは、視覚、聴覚、味覚といったわれわれのさまざまな感覚をコミュニケーション的な世界把握へと統合する。[その意味で]まさに共通感覚は明らかに社会的な構成要素も持っている。共通感覚は、ある具体的な社会で各人が関与し関心あるものを示している。

 センスス・コムーニスは一八世紀にシャッフツベリらによって知られるようになった、伝統を保証する教説だが、カントはこれを体系上の謎の解明のために用いている。謎とは以下のようなものだ。美的経験は「趣味判断」において論じられるべきものであることからわかるように、全ヨーロッパに拡がったプラトン主義がルネッサンスにわたって広く調停してきた美の理論の客観的基礎をもはやまったく保持していない。われわれは何かを「美」と呼ぶとき、実際、主観における認識力の調和した状態について判断している。古代のオーソドックスな制作美学では芸術家が美の決定的な理念を起動させるが、そうした制作美学は主観における作用を研究する受容美学に屈することになる。そうした作用は、美的経験によって惹き起こされる自由な反省として上記のように記されたのだった。

 しかしもし作品という意味での対象や美という意味での理念が集団的な体験経過の中心になっていないなら、何が多くの個々人が任意になす美的経験の複数性をまとめ上げているのか。カントにとって趣味判断は、世界の客観的な事象についての情報を与える代わりに、世界に対する主観の態度全体についての未規定な資料を与えるにすぎない。とはいえ、私が何かをまさに美的なものとして気に入るという状況は孤立と孤独をもたらしかねないだろう。間主観的なコミュニケーションを免除された美術館への訪問者たちと、調和を伝える作品との対話だけが重要になってくるように思われる。私は芸術に直面する際、自分の私的な感情という孤島にいわば着陸する。

 古典古代の芸術が中世末まで存続させていた儀礼との根源的な連関が解体してしまった後、美学の王国では主観的な価値判断の統治が始まる。明らかにカントは、美的経験において持ち出されるセンスス・コムーニスによって、判断を交換したり意見を収束させたりすることが可能になり、そのつど自分自身のために美的経験をなす者たちすべての間に文化共同体を最終的に形成できると推測している。それゆえわれわれは作品の前にのみ立っているのではなく、理論によって基礎づけられたのでも実践によって強制されたのでもない共通の世界解釈へと無理なく統合されている。この世界解釈は主観の自発による教養の文化的開花として成立する。

 

 

6.

 公共性と対話というこの比較的新しい分析はすべて、センスス・コムーニスというカントによる教説劇を深刻に受け取らねばならない。それにもかからわらず、啓蒙主義時代に広く美学に伝わった社会性は実際、かつて芸術を取り囲んでいたが世俗化や合理主義の犠牲となった儀礼による生の統一のための脆弱な代替物を提供している。もしわれわれが趣味判断について議論するなら、いったい何がわれわれを統合する空間となるのか。美術館は国民高等学校でもなければ、ディベート場でもない。それゆえ美的経験の固有性は、国制res publicaをめぐる決定的な教育や討議論争を開示しはしない。

 他方で、ニーチェがどれほど多くのさまざまな後継者を見出そうと、彼がデュオニソスのしるしやリヒャルト・ヴァーグナーの音楽に目を向けてすでに呼び出そうとした儀礼的なものの再体験の試みは、例外なくすべて疑念の残る労苦である。歴史的に過ぎ去ってしまったものに対し、力をこめてアピールすることで計画どおりに、また意図的にふたたび活力を与えることはできないのだから、儀礼を元の姿に戻すことはできない。

 しかしおそらく、現代芸術は客体化された作品を強く断念することによって同時に主観の孤立を引き受けた。主観はそのつど自分自身のために美的経験をなす代わりに、芸術の名において始められ絶えず上昇してゆくものとして把握される企業経営の一部になる。こうした企業経営に属するのは、上で述べたような現代の美術館だけではない。[たとえば]屋外の大コンサート、一般の人が歩行可能で知らず知らずのうちに建築の役に立っている彫刻、祭、パレード、経済的なものと精神的なものとの間で揺れる芸術メッセ、その他の現象などがここで思い起こされるだろう。長年の間、数年間隔でくり返し開催されているカッセル市でのドクメンタはこの機能を範例的に示している。このことは最近証明されたことである(3)

 結論をつけずに締めくくろう。モデルネにおいて対話と反省との間にある美的経験は、作品に導かれる芸術理解の後継役を引き受けた。それはこれまでのところからも明らかであり、以前から了承されていることである。そうした美的経験から、社会交渉のどのような新形式が生じてくるかを明確に見定めるのはほとんど不可能であろう。カントや現在のコミュニケーション論者たちは、主観的な芸術判断を基盤に相互作用を成立させる啓蒙された公共性をイメージしている。儀礼的なものにノスタルジーを感じる者たちは、ギリシャや中世の都市のような政治共同体を一つにまとめ、フランス革命の活動家にはまだ想像可能であった祭儀や祝祭といったものの復活を美的なもののしるしのうちに待望している。パルテノンやドームはまぎれもなく同一化の象徴となっている。都市間の国際競争におけるイメージ商法と関連する傾向がここでも見てとれる。[夜間でも文化施設]入場自由にし無料バスを出しているミュンヘン市や国際都市ベルリンの「美術館の長い夜」*は、実際に試してみる価値があるように思われる。

 私は、〈どんな会社の創立記念日に対してもサンスーシ宮殿は開かれているべきだ〉という怪しげな格率にしたがって、尊敬すべきミューズ神殿が生の熱狂の活動場へと突然変異すべきだと述べているのではない。日常の諸規範を集団で突破することはつねに例外にとどまり、そうした例外では、日中働いている人は通りに掛かっていて美を感じさせる祝日の垂れ幕のうちに自らの現実の世界連関を点検し拡大させる。にもかかわらず、歴史家や文献学者や、単に思慮深い者(おそらくわれわれの多く)にとって、モデルネにいたるまでの古典的な作品との対立は回避不可能であり続ける。こうした活動は活発なまま続いているのであって、ついさっき活況になったのではけっしてない。われわれはすべてその成果から利益を得ている。

 とはいえ幅広い芸術愛好家の層や、かつて言われたようなディレッタントや広い意味で[芸術に]関心ある者にとって、現代芸術は何ものにも依存しない集団的自己了解の公開討論場を開く。それは、あらゆるグループの要求充足に切り詰められた政策や、個別の専門領域へと消え去ってしまう学者の専門批評が今日、ほとんど共通感覚に訴えて伝えることがないように思われるからである。しかしわれわれは少なくとも複雑化してゆく世界に匹敵するくらいまで、あらゆるものを統合してゆく理解の許容量を必要としている。

 



(1)F・シュレーゲル『理解できないことについてÜber die Unverständlichkeit』(『文学論集』収録)S.336を参照。

(2)最近のところでは、H・ベルティンク「美術館:感じるのでなく反省する場」(『メルクール』二〇〇二年8月号に収録)を参照。

(3)ドクメンタII」に関しては、二〇〇二年7月2日の『ツァイト』紙を参照。

* [訳者注] ベルリンやその他の都市で開催されているイベント。約170もの美術館や博物館、その他文化学術施設が夜間に一斉にオープンし、ライトアップされ、昼間とはひと味違ったベルリンの街を専用シャトルバスで観光することができる。