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クリストフ・メンケ『人倫における悲劇-ヘーゲル以後の正義と自由』(1996)目次とまえがき

[Christoph Menke, Tragödie im Sittlichen. Gerechtigkeit und Freiheit nach Hegel, Frankfurt/M. 1996, S.9-12.]

 

 

人倫における悲劇

ヘーゲル以後の正義と自由

クリストフ・メンケ

 

 

[出版社の紹介文]

人倫における悲劇」――若きヘーゲルが自らのモデルネの経験を捉えたのはこのイメージにおいてである。この経験は悲劇の経験、すなわち克服できない「運命」の力の経験であり、そうした力と共に主体において、また主体どうしの間に「分裂してゆくことの不気味さ」が生じてくる。モデルネの悲劇的経験は、意志と行為の基礎的で規範的な見地どうしが不可避的・必然的に衝突する経験である。

 そうした経験によって人倫における悲劇としてのモデルネのイメージは、モデルネの哲学的言説を不断の交代劇において規定する二者択一に異議を唱える。つまり運命と悲劇性の彼方にある歴史的世界としての啓蒙主義的で楽観的なモデルネの構想と、人間存在のつねに変わらぬ条件としての英雄的で悲観的な悲劇性と運命の構想との二者択一に異議を唱えるのである。なぜなら人倫における悲劇というイメージはモデルネにおける悲劇性の環帰を診断するが、それはモデルネ悲劇性という歴史的に特殊な形態でなされる環帰であるからである。モデルネは悲劇的に把握されるが、それはモデルネの悲劇性の意味においてである。

 モデルネの悲劇的な経験において、反省と自由という主体の二つの基礎的な見地が衝突する。それは正義に定位する自律的な自己規定の自由と、真正性に定位する個性の自己実現の自由との衝突である。簡単に言うなら、社会的正義への定位と個性自体への定位とが衝突するのである。これら二つの定位の悲劇的な衝突の経験は、どちらか一方が他方に対し優位を主張することができないという、正義と個性との関係を支配している平等の経験である。したがってモデルネの悲劇的経験は、とりわけ実践哲学と政治哲学のカント的伝統がモデルネに認めている正義の優位、正確には正義の優勢と結びついた暴力への批判を同時に定式化する。それはこの正義の優位を要求することで個性を規範化しようとする暴力を悲劇的経験が発見するからである。同時にこのことはモデルネの悲劇的経験の意味を言い表している。すなわちそうした経験は善の包括的な概念を目指していて、この概念において正義と個性はその悲劇的な衝突を通じて自らの平等な正当性をふたたび獲得するのである。

 

 

目次

 

まえがき

 

第一部 悲劇性の概念

 1.世界の葛藤:形而上学以後の悲劇性の概念

  aヘーゲルと悲劇的形而上学の批判

    ヘーゲル 

  b)悲劇的必然性

    存在、情況、世界

  2.美しきもの解体:悲劇性と悲劇

  a)美の運命

    人倫という美しき芸術/美と多性/運命と崇高性

  b)ドラマの反省性

    「内的主観性の欠如」/悲劇という「超越論的文芸」/詩的パフォーマンスと主観的自由

  c)悲劇性の環帰

 

 

第二部 悲劇の読解

 3.人倫性と単独性

  a)エロスからポリスへ

    カオスの無力さ英雄の過ち/悲劇的アイロニーと反省による脱中心化/方法的補説:叙述の反省性/人倫的把握

  b)単独者の正義

    美と同質性とポリスの凋落/私的なものの空間:個人に対する正義/単独者の正義の限界突破

 4.個人:自己実現アイロニー

  a)徳とアイロニー

    ヘーゲルアイロニー概念:「侮辱の言葉」と修辞的文彩/二つの誤った二者択一:アーレントの「活動的生」とヘーゲルの『法哲学要綱』

  b)個性化のプロセス:もう一つの『アンティゴネ』読解

    悲劇と個性化/家から儀礼へ:個々人の登場/儀礼から愛へ:個別の自己/真正性と規制:優位をめぐる闘争

  c自己実現:個性の優位

    演劇(ルソー、ディドロ)/アイロニーと自己規定/個性と自己実現/展望:真正性の三つのモデル

 5.法的状態:公共的正義の変容

  a)悲劇からみた法の系譜学

    二つの視座:現象学と系譜学/悲劇的衝突と法的抽象/補説:二つの誤った絶対化

  b)法の自律

    運命と自己規制/法の遂行

 

 

第三部 モデルネの悲劇性

 6.診断:自由の衝突

  a)法の支配

    強制としての優位:ヘーゲルのカント批判/「定在の果てしない侵犯」/自由の「絶対的闘争」

  (b)五つの場合と要約

    (1)運命/(2)共同体/(3)性格/(4)試み/(5)美的なもの/個性と法:要約

 7.展望:善なるもの

   悲劇性と距離/善の把握/主体の至高性/法と恩寵/財と困窮の彼方に

 

 

 

まえがき

 

 ゲーテエアフルトナポレオンと会合したさいの報告を、ヘーゲルは正当にも自由に再現してこう語っている。「ナポレオンはかつて悲劇の性質についてゲーテと語った際、人間を支配下に置く運命をわれわれがもはやもっていない点で、最近の悲劇は古い悲劇から本質的に区別され、古くなった宿命には政治がとって代わると考えていた。だから悲劇にとっての最近の運命として、すなわち個性が屈服せざるを得ない事情によって振りかざされる抗えない暴力として政治が用いられねばならないという」(XII, 339)(1)。悲劇の経験は「抗えない暴力」に支配された経験である。「古くなった宿命」においてそれは、多神論的な価値秩序や神秩序のうちで人間を逃げ場のない葛藤に引き込んだ暴力である。われわれはもはやそうした運命を知らない。(ナポレオンの診断では楽観的な契機の)「暗き時代」(2)から伝わるこの暴力はもう頓挫している。この運命の暴力にとって代わるのが政治であり、政治はわれわれの生を皆で自己規制し自己規定する。

  しかし政治が「古くなった宿命」にとって代わったことは、政治がそうした宿命を解体したことを意味するだけではない。それはまた、政治がわれわれの運命になったということ、すなわちわれわれの生に対する抗えない暴力となったことをも意味する。運命は自らの力を打ち崩した政治のうちにふたたび戻ってくる。これは弁証法であって、正確に言うなら(政治による)解放の悲劇性である。ヘーゲルはこの悲劇性を「人倫における悲劇」と説明した。そのさい「人倫」とは、美学・共和主義時代の古典主義[一九世紀の新古典主義のことか]が宣言したように、ギリシャのポリスの「芸術作品」である。その凋落、美しき人倫性の解体は、まずローマにおいての支配が行われるようになるときに始まる。以来「世界は悲しみのうちに沈み、世界より心が打ち壊され、精神の自然さは消滅する」(XII, 339)ヘーゲルが説明する〈人倫における悲劇〉とは政治を運命へと具現化Verselbständigungさせることであり、このように具現化されるのは法の支配のせいである。ナポレオンは政治が運命であると断言するとき、自らの政治についての真理、すなわち法の政治を語っている。というのは、政治がもはや人倫の共同体の遂行形態ではなく、さまざまな個人の等しい権利を保障するによって成立するとき、政治的共同性は、個性の具体的な「活発さ」と疎遠なまま対立する法の「抽象的一般性」へと狭められてしまうからである。〈法の支配は人倫における悲劇である〉ということは二つのことを意味している。すなわち、法の支配は人倫性の美しき統一の凋落から生じ、政治的共同性と生き生きとした個性との(悲劇的)分裂のうちに成立しているということである。

  したがって「人倫における悲劇」というヘーゲルの診断の中心には、法とモデルネにおけるその支配へのもう一つの眼差しがあり、それが眼差すのは[人倫]喪失させたとされる外から押し付けられた法であって、この法はモデルネにおけるその支配の生成、とりわけ持続的存立Bestehenと結びつけられている。人倫の喪失は「抗えない暴力」によって個人を苦しませ、(これはヘーゲルが理解したゲーテによるナポレオンの発言の再構成であるが)法の政治は運命としてこの「抗えない暴力」へと具現化されねばならない。法の支配のうちに「悲劇Trauerspiel」ないし人倫における悲劇の上演を認める眼差しは、法の支配と結びついた暴力を発見する眼差しである。

  なんとヘーゲルは古典主義的な共和主義に基礎づけられたあらゆる法批判を市民の政治的脱力化と理解していた。すなわち法の支配において政治的なものが運命として具現化されるという事態が意味するのは、共同体の要件の企画に参加する可能性の喪失、すなわち政治的自由の喪失である。しかしそれと同時にヘーゲルは、政治的に脱力化させるこの「悲劇Tragödie」には伝統的なポリスの人倫性をたんに復活させるにとどまらない解決法があると考えている。アレクサンダー・コジェーヴが記したように、ヘーゲルにとって政治的に統治する「君主」と労働し帝国の庇護を受ける「奴隷」とが対立する「人倫における悲劇」は「異教的」世界の現象である。これに対しキリスト教コジェーヴキリスト教を主と奴隷との宥和、政治的動物と私的なブルジョワとの宥和という政治的人間学として解釈する)によって悲劇は消滅する。「別の表現を用いるなら、キリスト教は異教の悲劇の解決法を見出している。キリストの到来以来、もはや真正な悲劇も、不可避的でまったく逃げ場のない葛藤も存在しなくなるのはそのためである」(3)。市民を政治的に脱力化させるものとして〈人倫における悲劇〉を解釈することは、悲劇の「弁証法的」解体をあらかじめ理解するところに、すなわち[キリスト教によって]主と奴、政治と法、公共的なものと私的なものとが宥和してしまうところに成立する。

  コジェーヴヘーゲルの自己了解を、(「キリスト教的」に規定された)モデルネにおける悲劇の弁証法的克服というテーゼによって的確に説明してみせた。とはいえこの説明は、人倫における悲劇というヘーゲルの診断が分節化する法における暴力の経験を正しく評価していない。ヘーゲルの悲劇の経験は政治的脱力化より深いところにまで届いているために、キリスト教のあらたな弁証法的人間学における「個々人と一般的なものとの総合」(コジェーヴ)よりも広範なものである。それは、悲劇の経験が法の支配のうちで発見する暴力は、市民の政治的脱力化が克服され市民が法の制作者となった場合でも解消することがないからである。それは法の支配が市民に対して(政治的に禁治産宣告することで)及ぼす暴力ではなく、法の支配が市民の可能性を制限し限界づけることによって個人に対し(規範化することで)及ぼす暴力である。ヘーゲルがナポレオンを理解したように、法の政治は個人が屈服せざるを得ない「抗えない暴力」をうみだすということ。このようなかたちで個々人に対し共同体的なものが「悲劇的」に具現化することは個々人の政治的自律を脅かすだけでなく、彼らの個人的自由、すなわち彼らの自己実現の自由をも脅かす。したがって法の支配は政治的自律の要求どうしの葛藤、すなわちコジェーヴによればヘーゲルがすでにその「弁証法的」解決の輪郭を描いていた葛藤に巻き込まれているだけでなく、個々人の自己実現や「真正性Authentizität」などの要求どうしの葛藤にも巻き込まれている。そしてこのモデルネの〈人倫における悲劇〉の葛藤は弁証法的解決を見出していない。それは、(法の制作者としての)政治的に自律した市民が(法の受け手として)自ら暴力を被るという事態は、この暴力を低減させることがないからである。

  本書で私はモデルネの〈人倫における悲劇〉というヘーゲルの診断を、もはや弁証法的に止揚不可能なこの二番目の意味で悲劇的経験を分節化するものとして再構成するだろう。すなわち、法の受け手であり、真正な自己実現の自由をもつ個人に対して振りかざされる法の支配に内在する暴力の経験として再構成しようというのである。こうした解釈において〈人倫における悲劇〉は、法と個性とに分裂したモデルネの構造モデルを定式化する。(本書第三部において)ヘーゲルの悲劇イメージをこのように論じるにあたっては、二つの準備的な歩みが必要となる。第一の歩みは、〈モデルネは「あらたな」時代であり、悲劇に基づく時代である〉というヘーゲルのテーゼと批判的に対決することで踏み出される(第一部)。これに関しまず私は悲劇的なものの一般的概念を規定した上で、ヘーゲルのモデルネの理論における彼固有の確信に反していかに最終的な克服がなされるのかではなく、むしろいかに悲劇性への回帰がなされるのかの概要を記す(第二章)。第二の歩みは、ヘーゲルによる古典的悲劇の読解をなぞりながらこの[悲劇性回帰の]テーゼを詳述する(第二部)。それはヘーゲルが悲劇を、伝統的人倫性を問題化する場としてのみならず、近代的な主体が誕生する場としても読解しているからである。ヘーゲルによる悲劇読解はこの悲劇による主体の構成を二様の分裂として説明する。それは主体の(ポリス的)人倫性からの分裂と主体自身の内部での分裂であり、この二様の分裂は(第四章:真正性に定位しつつ)個々人が自己実現することと(第五章;公共的な正義に定位しつつ)法によって自律化することのうちに現われる。これによって近代的主体性の二つの自由の次元が示され、両者の関係がヘーゲルのモネルネ理論の中核を形成している(第三部)。ヘーゲルはこの関係を、人倫における悲劇という自らの診断のうちで法と個性との衝突の関係と説明している(第六章)。そして彼は「人倫的」善という自らの理論のうちで法と個性の統合の可能性を問うている(第七章)。

  このような歩みの中でモデルネの〈人倫における悲劇〉というヘーゲルの診断を展開するさい、私には二つの事柄が同時に問題となる。それはヘーゲルのテクストの解釈とそれを通じての「悲劇的」経験の分節化である。この結合によってテクストと経験両者に[あらたな関係をもたらす]ある変化が広がる。個人に対して振りかざされる法の内在的暴力を悲劇的に経験することは不明瞭なまま拡大しているが、そうした経験はヘーゲルのテクストの解釈によって描き出され鮮明化されるべきである。他方でたいていの解釈者にとってヘーゲルのテクストは、個性の経験に対してもその規範化に対しても無関心なものとみなされている。それに対し私はヘーゲルのテクストを、(ナポレオンが言及した)「最近の悲劇」とロマン主義の美学におけるこうした経験を同時代の立場から分節化する作業にぐっと近づけてみようと思う。テクストの読解と経験の分節化は多様な仕方でそれぞれ結び合わされる。それは、テクストが経験を分節化しその経験はテクストのうちで読解されるという理由のみならず、テクストの読みにおいてすら存在しないような経験の分節化など存在しないという理由からもそう言われるのある。[経験を分節化する]この読みはただ隠されているだけで、つねに規定的であり続けている。本書ではそうした読みが、(「悲劇的」な)経験を形成、定式化、先鋭化するものとしてつくり出され明確に遂行されることになる。

 テクストの読解と洞察・経験の分節化とのこうした結合が全体として言い表しているのは、当初はコンスタンツで後にとりわけベルリンで行われたアルブレヒト・ヴェルマーの水曜コロキウムで私が学んだものである。マルティン・レーヴ=ベール、ルート・ソンデレッガー、アルブレヒト・ヴェルマーといったこのコロキウムの参加者に対しては定期的にいい刺激となった議論に、ハウケ・ブルンクホルスト、ルッツ・エルリッヒ、アクセル・ホネット、ベアテ・レスラー、マルティン・ゼールに対しては彼らの示唆と異論に、それぞれ感謝したい。

 


(1)ヘーゲルの著作は巻数の指示/ページ数(ローマ数字/アラビア数字)で20巻本の[ズーアカンプ版]『著作集』より引用する。著作集に含まれていない初期の著作やイェーナ講義録は『全集』(ライン・ヴェストファーレン科学アカデミー編集)よりGWの略語で引用する。

(2)「このように彼[ナポレオン]は運命劇に不同意を示した。運命劇は暗き時代に属するものであった。ナポレオンはこう語った、こんにち運命で何をしようというのか?政治こそが運命なのだ、と」(J・W・vゲーテ「ナポレオンとの会談」S.638)。

(3) A. Kojève, Introduction à la lecture de Hegel, S.192 (ここでの引用はドイツ語による抄訳『ヘーゲル-『精神現象学』注解』による) [邦訳『へーゲル読解入門』上妻精・今野雅方訳、国文社 1987年、85].