ハンス・ローベルト・ヤウス「否定性と同一化-美的経験の理論への試み」(1974)[2/3]
[1967年のコンスタンツ大学の教授就任講演を元にした論考「挑発としての文学史」に始まるヤウスの「受容美学」は、1972年の『美的経験のささやかな弁明』でその問題系を大きく転換させた。「挑発としての文学史」が、ある芸術作品(古典作品)が発表当時どのように受容され、また後の時代にどのように受容されたかを扱う受容の地平論・伝承論であったのに対し、『美的経験のささやかな弁明』は「受容」という現象にさらに立ち入って、そもそも「受容」はどのような作用関係のもとで行われているのかを、美的経験における「享受」を軸に概念史的に分析する。フランスではスタロバンスキーによって紹介されたこの美的経験論はさらに増補され、本稿「否定性と同一化」(1974)としてまとめられた。そしてこの長大な論考は1977年に『美的経験と文学的解釈学』(82年に改定統合版が公刊)として著作の形をとる。
「否定性と同一化」と『美的経験と文学的解釈学』にはおよそ3年の期間があり、当然、その間にさらなる調査や考察がなされたことだろう。それはとりわけ、ポイエーシス・アイステーシス・カタルシスの概念史研究が後者において大幅に増強されたことに見出せる。訳注26で指摘した以外にも、たとえばアイステーシスに関わる節では、ギリシャ的アイステーシスの例として『イリアス』と『オデュセウス』が、中世におけるアイステーシスとして聖書の寓意解釈問題が取り上げられ、またペトラルカ、近代の風景画、ルソーにおけるアイステーシスのあり方などが論じられているし、カタルシスに関する節では、モンテーニュにおけるカタルシス論や、ブレヒトにおける反アリストテレス的なカタルシス論などがあらたに論じられている。]
6.ポイエーシス:美的経験の制作的側面 「組み立てることと知ること」
近世における美的経験の解放はプロセスとして説明され、そのプロセスにおいて芸術家と受容者の美的実践は、世俗の伝統から継承しパラダイムとなっている、コスモスや(神に創造された)自然やイデアへの束縛を捨て去り、構成的で「制作する能力」として自らを理解する(41)。ヴァレリーの美学理論は一八九四年にレオナルド・ダ・ヴィンチにかんする論考によって世に出たが、彼はこのプロセスを二重の側面において示している。すなわち、[第一に]芸術的実践と科学的実践とを統一させた〈組み立てるconstruire〉という認識機能を有する制作的な美的経験であり、この統一はとりわけレオナルドに代表されるものであったが、後の時代に〈芸術と科学arts et sciences〉とが分裂されたことで一面化されてしまった。[第二に]概念による認識(知性によって見ることvoir par l’intellect)の伝統的優位に対して、芸術という媒体によって刷新された知覚(目で見ることvoir par les yeux)を復権させる受容的な美的経験がある。レオナルドの「方法」のうちでヴァレリーを魅了し、彼が〈認識の企てと芸術の操作entreprises de la connaissance et les opérations de l’art〉との同根性として説明しようとしたものは、組み立ての「想像的論理」であり、〈知を能力の下に置くfaire dépendre le savoir du pouvoir〉という原理から導かれる組み立ての実践である(42)。レオナルドとは普遍的精神をもった創造的活動の典型であり、認識の古代的な把握と近代的な把握の変わり目を代表する人物である。それはこの〈組み立てること〉が前提としている知が、あらかじめ存在する真理をふりかえってこれを鑑賞する以上のものであり、能力や検証行為に依存する認識であって、結果的に概念把握することと制作することとを一つにするものだからである。じっさいヴァレリーがレオナルドに認めたものは制作する能力という概念にかかわっており、ユルゲン・ミッテルシュトラスはアリストテレス的な古い区別に準拠しつつこの概念を導入し、ベーコン以来の近世において進歩を発見したことが「あらたな学」の範例的な性格だと特徴づけている(43)。「あらたな学」によって切り拓かれた視座から見ることで、制作する能力はカントのもとで理論的理性と実践的理性とを媒介する機能、すなわち感覚の客体としての自然と超感性的なものとしての自由を主体のうちで媒介する機能を獲得する(44)。
後にヴァレリーは美的経験の理論的要求の正当化を、『エウパリノスもしくは建築家』(1921)というタイトルのソクラテス的対話篇に取り入れた。この作品は建築芸術へのもっとも美しき忠誠の一つであるだけでなく、プラトンによって規定づけられた伝統的な美の対象への記憶されるべき拒絶でもある。ヴァレリーのソクラテスはこの現代の「死の対話篇」[*24]において哲学者としての自らの歴史的役割を自分で撤回するにまでいたっている。ソクラテスはもしもう一度人生をやり直せるのなら、哲学者の観照的な認識よりも建築家の制作的な仕事を贔屓にするだろう。ソクラテスは、「ソクラテス的」芸術が〈認識することconnaître〉つまり概念的認識ではなく、〈組み立てること〉つまり美の制作に端を発するという洞察にいたるのにあまりに遅すぎた。〈組み立てる〉という活動が〈認識すること〉に抜きん出ているのは、芸術家の活動が自分自身の認識を伴う行為であることによる。〈組み立てる〉ないし制作する能力の最高形式は絵画や彫刻や文芸といったミメーシスの芸術ではなく、むしろ建築や音楽であり[*25]、両者ともパラダイムによってコスモスやイデアや自然に拘束されることから完全に解放されたところで自らの作品を産出することができる。エウパリノスが建てた神殿でソクラテスが学んだのは、〈芸術作品の理念はあらかじめ存在する型ではなく、その制作においてはじめて明白なものとなる規則に他ならない〉(45)ということであった。美の制作に伴う認識はプラトン的な[イデアの]再認識ではなく、実現せざるものに向けて〈組み立て〉ないし作ってゆくさいに発見される産出の規則である。そのように創造される芸術の美は、ミメーシスと一緒に永遠性という自らの性格を放棄する。完成された形式ないし内容と形式との適合として鑑賞者に現れるものは、芸術家にとって、果てしない課題に対する一つの解決可能性にすぎない。それゆえ鑑賞者もまた静観しつつ直観するというプラトンの理想にそのまましたがって美を受け取るのではなく、自らにおいて作品を呼び起こす運動に入ってゆき、そこで所与に対する自らの自由に気づくべきである(46)。
ここで粗描したヴァレリーの立場はセザンヌの理論・実践とのアナロジーを示している。クルト・バットによると、組み立てconstructionは現実化réalisationという創造上のプロセスにとってのキーワードであり、やはりミメーシスに基づく絵画と対立関係にあるという。「彼[セザンヌ]はそのように見られた自然から出発し、組み立てへ、つまり像の建築へとたどり着き、そこでモデル(またしても日常的な了解における自然)において暗示、示唆としてのみ知覚可能なものを発展させた」(47)。バットは、建築的なものと音楽的なものへの傾向が『サント・ヴィクトワール山』や『水浴する人たち』のようなセザンヌの重要作品にとってどれくらい導きとなっているかを解釈によって示してみせた。セザンヌの芸術全体の根本的関心事、すなわち「世界の個々の事物を互いにびくともしないほど結びついたものとして描き出す」(48)という関心事は、建築的ないし音楽的な風景とその風景の行為集団において成就しているという。セザンヌの後期作品において建築的なものや音楽的なものがますます露骨に現われてくることは、われわれの文脈でいうなら、そもそもミメーシスに基づく芸術[=絵画]を手段としてミメーシスの作用を克服することと理解できるだろう。そして美の有限性というヴァレリーのテーゼは、たとえば『カルタ遊びをする人たち』の五つのバージョンのようにセザンヌが同一主題を目立って何度もとり扱うさいにその対応関係を有することになるが、もしそうしたくり返しの取り扱いを「完成された形式」への段階的な接近として規定しようとするなら、(マルラメやヴァレリーが一つの詩の主題を何度もとり扱ったことがそうなるように)これを確実に誤って評価してしまうだろう[*26]。
7.アイステーシス:美的経験の受容的側面;知っていることよりも多くのものを見ること
ではアイステーシスないし美の知覚へと向かうことにしよう。アイステーシスに関し一八世紀の美的経験の解放プロセスは、感覚による認識(感覚的コギト)と合理的認識とを対置させ、(哲学の学科として美学を確立したバウムガルテンの定式化にしたがい)論理の地平に対抗する固有の権利を美の地平のために要求するようになった。美の知覚の正当化は一九世紀後半に芸術家の理論と実践においてふたたび取り上げられ、今回それは実証主義のイデオロギーとその通俗化に当たるものや、第一回万国博覧会で登場した「工業芸術」(Art industriel)と自然主義に対する抵抗としてなされた。こうした美的経験の時代を特徴づけている画期的な表われどうしの関連はいまだ芸術史や美学によって叙述されていない。この関連に属するものとして、文学の領域ではフロベールの〈叙述の美学〉から〈知覚の美学〉への歩みがあり、この〈知覚の美学〉はフロベールが絶対的な見方(物事をみる絶対的な仕方manière absolue de voir les choses)として自らの文体を新規定したことに端を発する。絵画の領域では、フランスの印象派によって「世界の脱概念化」と眼を非反省的な視覚の器官に戻し変える事態となり(49)、一八八〇年代にはコンラート・フィードラーによって純粋視覚性として改造された芸術理論が登場し、彼の芸術理論はアドルフ・ヒルデブラント[1847-1921, ドイツの彫刻家]、アロイス・リーグル[1858-1905, オーストリアの芸術史家]、ハインリッヒ・ヴルフリン[1864-1945, スイスの芸術理論家]、リヒャルト・ハーマン[1879-1961, ドイツの芸術史家]から現代の美学の議論にいたるまでアクチュアルなものであり続けている(50)。フィードラーとほぼ同時期にヴァレリーのダ・ヴィンチ論が登場し、日常の知覚という期待の紋切り型や哲学者たちの概念仮説に対し芸術によって刷新された視覚をもち出した。最後にヴィクトル・シクロフスキー[1893-1984, 言語学者、ロシア・フォルマリストの中心人物]とロシア・フォルマリストらによって展開された、主観的知覚の自律化によって成立した主観と客観とのよそよそしさを止揚する「手法としての芸術」の理論が登場し、これはシクロフスキーがトルストイに戻りながら解説した理論で(51)、異化の手法としてベルトルト・ブレヒトを経て現代のドラマツルギーにまで無視できない影響を及ぼしている理論である。ここでは[美的経験の時代を特徴づけている画期的な表われどうしの]この関連を汲み尽くすことはできず、むしろ可能なのは、この時代と同時期に芸術と文学の美学理論によって展開された根本思想を際立たせ、視覚の復権を超えて芸術に、失われたもしくは否認された認識機能を取り戻してやることである。
一八七六年と一八八七年に書かれた〈純粋な視覚性としての芸術〉というフィードラーの理論は、「人間は概念だけでなく、直観においても世界に対し精神的に支配することができるようになる」(52)という確信に基づいている。ここでいう直観とは、あらゆる予備知識や「頭に浮ぶイメージ」や「芸術理念」から自由になった視覚のことを意味しており、それは芸術家においてつねにすでに表現の始まりであって「見えるものをかたちづくる活動」(53)である。プラトン主義やそれによる認識と芸術家の行為との分断に明白に対抗して定式化された自律的視覚の原則は、自然の模倣(ミメーシス)やすでに知られたことの再認識(アナムネーシス)を排除し、もはや美ないし感情による伝達に訴えることもない。このように理解された美の知覚は、純粋な視覚性へと解放された世界の現出のうちで事物をわれわれに見せるに当たり、世界の脱概念化からのみ発現すべきである。
ヴァレリーはこうしたこととは独立に、一八九四年のダ・ヴィンチ論において美の知覚の認識機能を学習プロセスとして記している。われわれの知覚は慣習化によって、つまり固定化した日常の習慣的なものによって鈍感になってしまい、われわれはもはや自らが期待するものだけを見ているにすぎないほどだという。
色ある空間の代わりに、彼ら[知恵分別で物事を見る大方の人々]は概念の穿鑿をする。突っ立っている白っぽい立方体は、それにいくつか窓ガラスの照りかえす孔でもあいておれば、すぐにもそれは家である。イエだ!抽象した性質概念をいくつか合わせた複合の観念である(54)。
これに対し絵画がわれわれに教えてくれるのは、〈われわれは自分がみているものをまだ本当に見てはいない〉ということである。それゆえ美の知覚は直観の特別な能力を要求しているのでなく、芸術を仲介とすることでわれわれの視覚をそれがあらかじめ定位するもの(言語使用がこれを慣習として固定化してしまった)から自由にすることを要求する。習慣は言葉によって事物化し、われわれの知覚の周りに柵を立ててしまったが、そうした習慣としてヴァレリーが挙げる事例は、風景(美しき風景les beux sites)である。人は自分自身の目で見るよりも辞典という眼鏡で物を知覚するのが好きで、所与の残りほとんどの眺めをそれによって遮ってしまうために、美しい風景や自然という概念領域はわれわれの態度に非常に大きな力を及ぼしてきたという。それゆえヴァレリーにおいてもフィードラーにおいても「純粋な視覚」という原理は否定作用によってより多種多様なものとなる。無自覚的な意味の網によって知覚される慣習的な世界は否定され、概念から浄化された世界の視覚性に立ち戻されねばならず、そうすることで名前とレッテルの背後に物がふたたび現われ、美の知覚に対し、可能性のうちにあって期待されていないかもしくはただ忘れられているだけの意味の組み尽くせない諸側面において物が姿を現わすようになる。
ヴァレリーにとって純粋な視覚という原理はとりわけ自然の概念と対立する。われわれは詩人や哲学者に導かれながら、まるで記憶の及ばないほど太古の自然の眺めを我慢できないかのように、残忍さ、好意、経済のような人間を中心とした概念を自然に反映させてこれをみている。
緑あふれる広大無辺の野のひろがりや、人間界と相対する地水火風の四大の業や、やがてはわが身を蔽う変化することのない大塊のビジョン(55)。
ヴァレリーの批判は、かつてボードレールによって徹底的になされた自然を美的に再評価する伝統のうちにある。ここで彼の批判は〈われわれを取り囲んでいる自然を視覚しつつ認識するのに適した立ち位置は、任意の片隅でしかありえず(存在するもののどこか片隅 un coin quelque de ce qui est)[*27]、それはもはや自然の合目的性という幻想を人間に抱かせることはない〉と要請することで頂点に達する。「どこか片隅」という文句は〈ある気質を通じて見られる自然の片隅coin de la nature vu à travers un tempérament〉[*28]という有名なゾラの定式にも見出されるが、ただしここで綱領的な自然主義は、「任意性」という表現のうちに暗示される、ロマン主義の人間中心的な自然概念への論争をふたたび覆い隠してしまう。理論的に要請された任意性に対応するのは、主題に対する無関心という反自然主義的な実践であり、これに対してはマルラメ以来の詩や同時代の絵画から容易に平行関係が指摘されよう(56)。
ヴァレリーの美学理論はさらに、鑑賞されることと産出すること、観点と表現との分かちがたさというフィードラーの第二の根本思想を白日の下に晒す。まずこのことは「芸術家の精神的活動は結果をもつのではなく、それ自体が結果なのだ」というフィードラーの命題に当てはまり、またこれと相関する「芸術家の活動には終わりがない」、「どのような達成も彼(芸術家)にまだ達成されていないものを垣間見させる」という命題にも当てはまる(57)。この二つの命題はヴァレリー美学の中心部分を思い起こさせる。最初のダ・ヴィンチ論[「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説」]はフィードラーを超えて、〈産出的な視覚という原理から鑑賞者にとって何が帰結しえるか〉という問題を論じている。絵画を美的に知覚しようとする者、つまり見ながらあらたに認識しようとする者は、性急な同一化もしくは再認識への傾向に抵抗し、そうした傾向に代わって、〈いかにして最初はわけのわからない色模様から鑑賞者にとってだんだん意味と共に像現実の一対象ein Gegenstand der Bildwirklichkeitが構成されるのか〉について自覚せねばならない。
ある絵画を判断するもっとも確実な方法は、最初はそこになにものをも認知せず、限定された範囲内にある色の模様が同時に存在することで強要してくる一連の推測を一歩一歩進めてゆき、そして比喩から比喩へ、仮定から仮定へと上昇してゆき、最後にはあらかじめもっていたとは限らない主題の理解に――ときとしては単なる快の意識に、到達することに存する(58)。
ここで芸術史家は、〈ヴァレリーによる像の知覚の説明はひょっとするとセザンヌの色模様にかんする論争の一つの解決案を含んでいないか〉と問わねばなるまい。ヴァレリーの要請をセザンヌ絵画の鑑賞に応用するなら、半覚醒の視覚が見た状態の再現としてセザンヌの色模様を説明したり、完成された組み立てを目指す意図の一つとして説明したりすることはできない。セザンヌの色模様はむしろ、事物の習慣的な相貌を捨て去って絵画においてあらたに組み立てられる世界のプロセスに参加し(それは鑑賞者の感覚や活発な知覚のうちで世界を「完成させる」と述べているわけではない)、セザンヌが企図した文脈の枠組みにおいてそうした「現われるものが物となることDingwerdung des Erschenenden」[リルケ]の可能性に気づくよう鑑賞者に指示するものとして理解されねばならないだろう。そうすれば、クルト・バットがセザンヌの芸術の本質について説明したように、現実化réalisationないし「現われるものが物となること」は鑑賞者の受容的な活動だけでなく、共に産出する活動としてさえも要求され含まれることになるだろう。
8.アイステーシスの認知的機能からコスモロジー的機能への歩み
芸術理論が純粋な視覚性としてわれわれに開示した一九世紀末の詩と絵画における平行的な出来事はアイステーシスの歴史的問題系により広範な視座を開いてくれる。脱概念的な視覚の原理は、〈あらかじめ道行きが決まっている知の眼鏡から知覚を自由にし、物の質感Dinghaftigkeitと意味充実を対象に復活させる批判的な機能〉のもとにとどまり続ける必要はない。再獲得された美の知覚の認識機能、すなわち〈知っている以上のものを見ることde voir plus de choses qu’on n’en sait〉(59)は、(バットがセザンヌに即して示した通り)失われた物の質感と一緒に、われわれが知ることのなくなった物の連関つまり「世界の連関体Zumammenbestehen」を現実化のプロセスにおいて同時にはっきりさせる(60)。そのさい、芸術の認知的機能がふたたびコスモロジー的機能に移行してゆく入り口が得られる。しかしこの場合、「コスモロジー的」ということで自然模倣や宇宙形態や世界観といった古典的な意味でのミメーシスに復帰することが意味されているのではけっしてない。さきの「現われるものが物となること」(リルケはセザンヌの現実化という概念をこう訳したわけだが[*29])とは、あらかじめ与えられている全体性の模造ないし表現ではなく、世界の連関が現出することであり、この世界の連関はよそよそしくなった日常の現実に直面して習慣的な物の自然への対抗措置としてはじめて獲得されねばならず、ありうべき全体として主観性の眼を通じまたこの眼に対してのみ発見され得るものである(61)。
絵画から引き出されるこうした帰結に対応するものが、詩の理論と実践のうちに見出される。すなわちそれは綱領的な論考であるヴィクトル・シクロフスキーの『手法としての芸術』(1916)であり、この論考によって彼は美の知覚を、自動化され幾何学化されたわれわれの日常経験の世界に対抗するその知覚の機能によって正当化しようとしたのだった。すでにトルストイは生活世界のプロセスに対し良心を呼び起こそうとしていたが(「自動化は事物、衣服、家具、女性、戦争の恐怖を食い尽くす」)、このプロセスはいまや芸術の知覚プロセスの助けを求めているという。
「ひどく複雑化した生活が多くの人々のもとで無意識に営まれているとすれば、かつてそんな生活はいわば存在しなかった」。まさに生活の感覚を取り戻し、事物を感じ取り、石を石となすために、芸術と呼ばれるものが存在する。芸術の目標は、再認識としてでなく視覚として対象の感覚を伝達することである。つまり芸術の手法は事物を「よそよそしくさせる」手法であり、困難にされた形式の手法である…。(62)
ここからプラトン主義美学の伝統をふりかえってみるなら、すべてのミメーシスとアナムネーシスの逆転が完成しているのがはっきりわかる。日常経験の事物は順化によってひどく歪められ、もはや「コピー」である自分の方からは「原像」を示すことができないほどなので、芸術はもはやミメーシスではあり得ない。この歪みの根底はプラトン的な認識の源泉、つまり再-認識となっている。「幾度となく知覚された事物は再-認識によって知覚されはじめる。対象はわれわれの目の前にあり、それについて知っているが、それを見ていない」(ibid)。石をふたたび石となし、対象の感覚を取り戻す認識は、再認識によって獲得されるのではなく、再認識に反対してのみ獲得され得る。プラトン的アナムネーシスのイデア性は、欠陥ある日常の知覚と既視感とを対立させる。対象を単に再認識するのでなく見るべきであるなら、「困難にされた知覚の手法」ないし「よそよそしくさせるもの」としての芸術が求められる。そのようなものとして美の知覚は、プラトン主義の地平におけるアイステーシスからは剥奪された認識機能を要求することができる。美の知覚によってわれわれは事物を「あらたに」見ると述べられるなら、そうした知覚のあらたな尊厳はまだ手の届くものとして説明されていない。美の知覚の尊厳はむしろ、よそよそしくさせる手法がわれわれに対象を「あたかもはじめて見るかのように、また出来事をそれがはじめて生起するかのように」(p.17)説明することに基づいている。私にとって「はじめて」であるものは他人にとって「あらたなもの」である必要はない。その点で自動化から自由になった美の知覚は、たんなる革新(以前とは違うふうに何かを見ること)と同意義ではない。美の知覚はこれまで隠されたり否認されたり抑圧されたりしたものを発見したり証明したりする視覚を含んでいる。このように再認識の[ために]道具化されてしまった経験への批判は、もはやプラトン主義的な原像ではなく内在的な「はじめて」に関わる〈よそよそしくさせる手法〉を介することで、美による再-認識の復権にいたることができる。
ところでそのさい、否定性と同一化、つまり美の知覚の探求的能力とアイステーシスのコスモロジー的機能とがいかに一個の芸術作品において範例的に結びついているかは、『失われた時を求めて』で説明されるべきだろう。すでに最初期の読者の一人であるライナー・マリア・リルケはプルーストの一連の作品のうちに、後のあらゆる解釈者に対し固有の説明を要求することになるもの、すなわちプルーストが「ほとんど凌駕し得ないくらいの厳密さを有しながら、まったく見極めきれないものをいかにいたるところで許容し棚上げしているか」(63)という問題を際立たせ、これを賞賛した。クルティウス[*30]はこの不可思議を文体の厳密な能力に認めており、この文体は隠喩法や直喩や文章のリズムのような慣習的な修辞的手段を「認識の精密道具」につくり変えることで、芸術をふたたび知性的認識の地位にまで高めたという(64)。しかしそのさい決定的なことは、〈あたらしい類の視覚として『失われた時を求めて』の読者を魅了する知覚可能なものの予期せぬ叙述がなされたのは、あらゆるミメーシスの伝統に逆らい、プラトン主義化する美学に対しアナムネーシスの認識原理を逆転させる手法をプルーストが用いたことによる〉ということである。この手法によって堕落した日常の知覚は、目の前の現実そのものへの極端な懐疑にまでいたる。
創造する信仰心が私には枯渇しているにせよ、現実が記憶のうちでしか形成されないにせよ、きょうはじめて私に見せられた花は本物の花であるとは思われない(65)。
何がしばしばプルーストを認識論的な不可知論と思わせてしまうのか、われわれの文脈でいうなら、それは日常世界の認識connaissanceの欠陥を再認識reconnaissanceというあらたな美的経験によって克服しようとする試みとして理解される。われわれが直接に知覚するものは、認識から逃れたままである。しかし目的と習慣に埋もれ、「無関心さの誤謬」(66)に委ねられている現実は、芸術という媒体における想起を通過した後に意識に対し開示され得る。プルーストの手法において純粋視覚の批判的機能は想起に移転されていると同時に、観察する悟性やこの悟性にしたがう記憶(意志的な記憶mémoire volontaire)の専制から逃れた意図されざる経験内容に真理発見の能力が結びつけられているという限定によって先鋭化されてもいる(67)。このように美的経験は知覚の背後にあるものを探る能力を想起のうちに発見し、この想起という時間的経過のうちで「現われるものが物となること」を白日の下におく可能性を芸術にもたらす。
プルーストの手法はあらたな美的経験のパラダイムとして現代の散文のうちにほとんどその門下をつくらなかったが、それはとりわけベケット世代の作家たちが物語りに反対する立場をとり、(物語りにとってもパラダイムとなった)想起というプルーストの詩作法の能力を見誤っているからでもある。ヌーヴォー・ロマン[*31]の手法は[プルーストではなく]むしろフロベールの知覚の美学が有していた批判的機能をさらに発展させ、ますます重要となった物語機能を解体することで、知覚された世界と知覚する主体との断絶をアポリアにまで高めるあり方をとる。前もって意味を設定する統覚の統一としての寓話を解体するフロベールの手法は、もはや物語り手のうちに集中しない知覚によって馴染みのない現実の認識にいたる。すなわち、「体験された話題」という遠近法によって、経験が言語表現上のクリシェに依存していることが読者に気づかれ、また生起が現象化することで、歴史的経過の目的論という仮象やそうした世界の因果的透明性という仮象が気づかれ、それによって実証主義的な世界了解の明証性への信頼が読者から奪われるのである。フロベールが第二の自然として固まってしまい型通りとなった、彼の作品に登場するいつもの登場人物の知覚と対置する事物の対照的な中性性は、ロブ=グリエ[*32]の小説のうちにその構造を規定するような仕方で舞い戻っている。フロベールは無関心な美のうちにある「物のポエジー」とやがて幻滅することになる人間の目的や願望とを異質なものとして対立させたが、ロブ=グリエはフロベールがその「物のポエジー」という新名称にまで高めたものを、『嫉妬』に出てくるまるで愚痴のようにくり返されるプランテーションの記述において、擬似数学的な事物の知覚の極端な例にまで事物化しており、読者はそうした事物の知覚において完全に不慣れで、退屈の限界線を越えてしまう知覚の禁欲を余儀なくされる。フランツ・コッペが示したように、これによって文学における事物化の手法は、「その道具的な目的を命令する道具的な言語の身振りを行使すること」として規定される批判的機能をふたたび失うことになる。「唯物論的」な科学主義は、目的を免除された道具性をそれ自身の救済の虚構にまで様式化する。「「世界」の言語的な区分けをもっぱら幾何学的ないし算術的な計量の知覚や数の知覚の分節化傾向にまで美的に切り詰めてしまうことは、意識の「物質化」によって実存的な狼狽を追い払うこととして機能している。それは、いわゆる西洋的な(すなわち真正に経験主義的な)涅槃を教え込むことによって実存的な狼狽を追い払うことである」(68)。
すでに古典となったロブ=グリエの小説がただ「否定表現によってex negativo」のみ予感させる美的経験のコスモロジー的機能を、プルーストは自らの美の理論の別な側面によって、すなわち今日ではしばしば誤解を受けている〈記憶のポエジーpoésie de la mémoire〉によって獲得した。プルーストにとって想起は知性的認識の精密な道具にとどまらない。彼にとって想起は本来的で、最後に残された美の根源領域である。このことは一見すると、肩代わりされたプラトン主義と見間違えられるくらいよく似ているように見える。それは、クルティウスがベルゴットの死[*33]にかんする有名な箇所の解釈において自らの画期的な試論を最高点に到達させ、形而上学的なもの、つまりプラトン的な精神性へと突出することをあらゆる不協和音の解決として、またこの芸術の道徳として賞賛したからでもある(69)。[しかし]そのさい、プルーストは『失われた時を求めて』においてラスキン起源のプラトン主義に舞い戻っているわけではなく、そうしたプラトン主義の克服については彼のラスキン研究[*34]が証言している(70)。『失われた時を求めて』において再-認識は経験に内在するよう指示し続け、この経験への内在は既視感を要求し、当初の失われた知覚と後の再-認識との生きられた時間的隔たりを要求する。〈見出された時〉が超越的な故郷や超時間的な存在を暗示しながらも、じっさいには現世における来世を見せかけとしてのみ暗示しているのはそのためであり、ここでは想起によって知覚可能となり芸術によって伝達可能となる、物語る私の世界が暗示されている。プルーストの芸術をつつむアウラは想起それ自体のプロセスにおいてかたちづくられる不滅のものであり、これがプラトンの無時間的な美という空虚化した場を占めている。
ヴァルター・ベンヤミンははやくも一九二九年にアウラと想起との関連を、ボードレールとプルーストの両者にとって親和性のある立場に即して推論していている。文明化された大衆の堕落した生活のうちで萎縮してしまった経験に直面するなかで、『悪の華』における想起と『失われた時を求めて』において刷新された想起はもともとあったアウラの凋落への抵抗に動員された。プルーストの作品は、失われたアウラを想起によってふたたび事物に返却する試みであり、自らの意志によらぬものとしての想起には若返らせる力が認められるという。しかしこの英雄的な努力をなすには経験を時間的存在の偶然に委ねるという代償を支払わねばならない以上、ベンヤミンにとっても「最終意図の達成」、つまり「ふたたび見出された時」という構成上の閉じられたかたちは問題あるものと映った(71)。それゆえ『失われた時を求めて』の美的解決は、主観性を救済するための絶望的な私的行事にすぎないのではないか。「失われた時の探求」はけっきょくのところやはり寓話ないし(もっと悪い場合には)事例豊富な表現力を備えた歴史物語であることをわからせることなのだから、否定性を欠いたこの「探求」は、「小説の形式は物語を要求しているにもかかわらず、もはや物語られることはない」(72)とアドルノが一九五四年に逆説によって言い表したわれわれの文学状況の高みにはもはやないのではないか。
じっさい時流に乗った散文の前衛的尺度をただベケット流の否定性のパラダイムだけで規定する者、自らがものを生み出す存在であることをたえず知っていてそのことを指摘する物語りを要請する者、つまり小説を純粋な言葉遊びにしまた物語機能の背景を探って持続的に反省しこれを最後に残された「歴史の道徳」とするような物語りを要請する者、こうした者は〈プルーストの要求は物語る主体と対象の世界との同一化をなおも得ようとする書き方に舞い戻るものだ〉とみなすに違いない。しかしながらプルーストは、自分がいかなる場所にも立たずにものを書くわけではなく、またリアリズムのクリシェにしたがって「公爵夫人は五時ごろ外出した」という文をけっして書いたわけではないにせよ、自分の小説作品がたんに考え出されたにすぎないものなどいささかも含んでいないと最後まで確信していた。〈同時代の小説は、自らに不可欠のリアリズムの遺産に忠実であり続けるために表現の嘘に対抗する党派を組まねばならず、美的隔たりをとり払うことであらゆる普遍化から手を引かなければならず、またこの「疎外された世界の第二の疎外」を回復してやらねばならない〉というあらたな要求がプルーストの経験のうちにすでに実現されているのをみてとったのは、まさにアドルノでもあった。この要求のおかげで『失われた時を求めて』はパラダイムとなったわけだが、それはプルーストが論評と行為とを解き難く結び合わせることによって美的隔たりを消去させるという理由からだけではない(73)。プルーストの小説は〈失われた時を求める〉という体裁においても、物語ることによって生じた逆説を真正に解消してみせる。プルーストの叙述法が〈表現の嘘〉から逃れているのは、否定性の特殊な形式によっているからである。対象の世界や事実的な生活の歴史のどんなエレメントも、直接的ないし客観的な所与に照らされて記述されたり物語られたりすることは許されない。自然主義の事物化された環境や、記憶の過去の実体化に反して、既存の現実の事物や出来事が小説の現実に入ってこられるのはそれらの伝達を保証する形式においてのみであり、想起された世界がそこに入ってこられるのは独自に表現された想起の時間プロセスにおいてのみであり、また評論する反省がそうした世界に入ってこられるのは自らの自己同一性を探し求め想起する自我の普遍化が挫折する場合においてのみである。このようにして叙述法の逆説が生じ、この逆説において(W・ベンヤミンの忘れることのできない定式化によれば)人物の行為や自己同一性はすべて〈想起という連続体の裏面〉を形成し、読者はそれらを〈絨毯の裏柄〉から推論しなければならないのである(74)。
プルーストが最後になってようやく現われる隠された構成の姿においてこの否定性の形式をふたたび受け止め、失われた時を偶然探し求める行為から再度見出された時という記念碑的建築物(大聖堂のイメージ!)を成立させるなら、想起の詩学というこのクライマックスをなす解決は、成就された自己同一性探求という安らぎの締めくくりとそれによってふたたび生じる美的隔たりによってはけっして購われない。それは、『失われた時を求めて』の主体とこの主体と共にある読者が〈つねに無益なまま「明日から書こう」と思い始める、想起された私の偶然的でけっして見通すことのできない途は、じっさいのところすでに、その天命vocatioという彼には隠された歴史物語であり、それゆえに探求それ自体はたんに〈いま〉書かれればよいだけの芸術作品にほかならない〉ということを事後になってようやく知ることができるからである。この〈いま〉、つまり想起された私と書く主体との期待すべき同一化が、小説の終末点としての想起された時の最後で登場するのではなく、〈明日書こうdemain j’écrirai〉 [という決意]のうちに示されているということは、たんなる仕掛以上のものである。それはこのやり方では、〈ゲルマントの方〉という回顧的な知は、偶然性のうちに見失われた主体にとって、探し求められた自らの過去との同一化を間接的なかたちでしか取り戻せないからである。無意識的想起souvenir involontaireの内に閃光のように煌く、現在の私と過去の私との同一性ではなく(というのもこの同一性は偶然という否定性からの贈り物であるから)、書き手に課せられ、書き手にのみ達成可能な同一化こそ、この作品の構成上の結末の姿なのである。美的経験に端を発する知は、〈失われた時は自らの始まりから遠ざかって以来、芸術作品において確保されるだけでなく、美のうちでも感覚可能となり、そうした美は想起によってのみ呼び覚まされるがゆえに、(これは幸福の約束promesse du bonheurとしての芸術の命題をプルーストが逆転させたものだが)楽園を喪失した時にはじめて美はその楽園に転がり込んでくる〉というものである(75)。その一方で、最初の読解の地平における美的隔たりを未決定のままにしている読者は、回顧的でありつつも失われた時を偶然想起する寓話に照らされることで、知らぬ間にその寓話から湧き上がってきてふたたび見出される世界の全体を知覚することができる。なるほど世界からすれば、自らが未来の幸福の地平を否定することによってのみ、世界は過ぎ去ったものを救済することができる。だがプルーストによるコスモロジー的機能の制限は、彼の「想起のポエジー」、すなわち〈他者の目で宇宙を見ることde voir l’univers avec les yeux d’autre〉(76)が有するコミュニケーション能力をも同時に基礎づけている。それは、見たところ万人に馴染みのあるようにおもわれる唯一の世界が他人の目にはいかに別様に現われ得るかをわれわれに見せてくれる能力であり、この世界を代替不可能にする美的経験の認識である。
これまでの考察で判明したことは、〈一九世紀中頃以降の芸術にとって制作的で受容的な美的経験は認識機能の再獲得に関わっていた〉ということである。これは「美的意識の抽象化」に対してガダマーが行った批判(77)への反論となりうるものであり、ガダマーの批判は、なるほどドイツにおいてワイマールの新人文主義から生じた「美的形象」の歴史的形態には当てはまるだろうが、本稿で粗描された[美に関するプラトン主義とは]逆向きのプロセスを視野に収めるものではない。かくして私の次のテーゼはこうである。この逆向きのプロセスにおいて美的経験は、ますます道具化する生活世界に対抗しつつアイステーシスの平面で、芸術史においてこれまで自らに立ててこられなかった課題を引き受けた。その課題とは、消費者社会の萎縮した経験や隷属的な言葉に対し、美的知覚の言語批判的で創造的な機能を対置することであり、また社会的役割や科学的世界観が複数存在するなかで、他者の目で世界を経験することによって共通の地平を確保することであって、もはや消えうせてしまったコスモロジー的全体にとって代わった芸術は、そうした共通の地平を何よりもましてはっきりとしたものにし続けることができる[*35]。
9.カタルシス:美的経験のコミュニケーション能力
存在論的な芸術理論や否定性の美学によって誤解された美的経験の能力を発見する私の試みの第三の、そして最後となる歩みは、そのコミュニケーション的機能に当てられる。美学理論の伝統と言葉の歴史をみるさいに、制作的な機能と受容的な機能がポイエーシスとアイステーシスの概念のもとで歴史的な明証性をもって把握されるのなら、美的経験のコミュニケーション的機能はアリストテレスのカタルシス概念にそのまましたがうわけにはいかない。〈観客は英雄の立場になって考え、そうした同一化によって行為の倫理的ないし社会的規範を継承する〉という経験が説明されるべきであるなら、アリストテレスのカタルシス理解はモダンな解釈によって、ここではレッシングに代表される道徳的な解釈によって仲介されるべきである。こうした広い意味でのカタルシスは、美的経験が有するコミュニケーションのカテゴリーとして観客と英雄との同一化の条件と、その主観的作用とコミュニケーション的作用の条件、つまり想像上の運命に感じられる快による心情の解放と〈人間の行為と苦悩〉の範例への洞察の両方を含むことができる。
ジークフリート・J・シュミットのアクチュアルな美学理論において、同一化は「受容者の素朴さのしるし」もしくは「不十分な芸術消費の表われ」として批判されているが、そのように立論することは、はじめから反省の隔たりに限定され、「消費者の役割と享受する者の役割との乖離」をそれだけで正統な「美感性Ästhetizität」の入り口の条件にまでそのまま高める美的経験の概念から出発している(78)。すでに言及したように、同じくアドルノも鑑賞者と客体との間に隔たりをおく美的経験と、表現された人物と同一化してしまう無教養とを対立させ、またアリストテレスのカタルシスの教説に対し〈カタルシスの教説は「文化産業によってけっきょくのところ支配され管理されている」原理の後押しをしてきた〉(S.354, 405頁 / S.514)と苦言を呈している。アドルノの『美の理論』で言われている洗練化の原理は、アドルノによればカタルシスから導かれ、たんなる「代償的満足」としてけっきょく支配者の利益を現状是認せざるをえないものであり、同様に同一化を求めるがゆえに自己保存や快原則といった実践的目的の虜となり続けている美的態度もすべて支配者の利益を現状是認せざるを得ない[*36]。
しかしながらアドルノはそのカタルシスの批判において、〈悲劇が観客に及ぼす影響についてのアリストテレスの説明は、アドルノがモダンで自律的となった芸術にのみ認めているように思われる美的経験の特殊な能力をすでに前提にしている〉点を見誤っている。つまりアドルノは、[アリストテレスにおける]美的経験が「頑強な自己保存の虜」を突破することができ、それゆえに「自我がもはや自らの利益、もっぱらその再生産に幸福を感じることがないような意識状態のモデル」(S.515)になりえることを見誤っているのである。カタルシス概念でもって説明される経験はまさに鑑賞者において美的な隔たりを前提としているのであって、より正確に言うなら鑑賞者の生活実践の直接的な利益を前もって否定することを前提としており、鑑賞者はカタルシスによる心情の解放を要求するまえに、英雄の範型的な運命との同一化においてこの生活実践の直接的な利益を拭い去らねばならない。カタルシスの古典的なモデルが含んでいる美的経験の第一次的な能力は、美や悲劇的なものや喜劇的なものへの満足の共通の地盤を構成し、想像的なものによって鑑賞者を客体の世界から/の外へ解放する。
それゆえ美的経験は、アドルノが考えているように、「作品の意図の理解」によってようやく始まるものではない(S.515)。解釈学的にいうなら、ここでは美的経験の第一の層と第二の層とが区別されねばならない。作品のあらゆる解釈がそうであるように、鑑賞者が判断しながらふりかえるのが第一の美的な知覚であるなら、意図の理解がなされるのは美的経験の第二の反省的な層においてである。この美的経験の第一の前反省的な層は、行為する人物や描かれた状況に感情的に同一化する準備のできている想像的意識がコミュニケーションするさいの枠組みである。
ジークフリート・J・シュミットは、美的経験があらゆる感情的な同一化から浄化されているという点にさらに踏み込みながら、コミュニケーションのカテゴリーのもとで美的なものをあらたに規定しようとする。芸術作品ないし「テクスト」(シュミットにとっては同じ意味合いのものである)の「美感性」は一定の割合で未規定性や多義性(「多機能性」)を含んでいるのだから、その経験のプロセスは受容者に「作品の方から高まってくる美的な反省」(S.50)に向かうよう指示せざるをえないという。「十分に受容する受容者は、意味や現実を構成し産出する自らの自由に気づく」(S.50)。それゆえ「意義、制度、「現実」の構成性と変容可能性に対する批判的で解放的な意識」は、まじめな存在としてのみ理解される受容者に対して与えられる。もしそうならなんと美しいことか! そもそもどうすればそうした「自己を確認する創造的な自発性と反省性」という孤立性から美的コミュニケーションという間主観的な領域にふたたびいたるようになるのかが経験されるのなら、シラーの美的教育のプログラムとほとんど遜色ないこの理想的な要求に喜んで応じ、それによって求められる感情的な禁欲もむしろ引き受けられよう。シュミットの美学理論は美感性をコミュニケーションのプロセスと説明しようとしているにもかかわらず、受容者の解放された意識をすでに前提にしてしまっているが、じっさい受容者の意識は美的経験のコミュニケーション的で合意形成的なプロセスによってはじめて解放されることになるのではないか。
それゆえ[シュミットの美学理論が]首尾一貫したものになるとすれば、それはE・ヴィヴァス[1901-1993, アメリカの哲学者]、J・C・ランサム[1888-1974, ニュー・クリティシズムの提導者]、R・ポズナー[1939-, アメリカの法律家]らに引き続き、ここで美的なものを満足するさいの根拠が何であるのかの論争的問題が解決済みとみなされる場合だけなのだが、そのさいこの論争的問題の解決は、美的満足が「第二のコード」の解読、つまり美的に構造化されたテクストの解読によって生じるために、「知覚と解釈の経過それ自体を経験可能にする」(S.52)反省的な構えを前提にしてしまっている。しかしいまや容易に洞察できるのは、手法の発見ないし第二のコードの解読それ自体がとくに美的なものである必要はまったくなく、たとえば観察された経過や再構成された出来事に対し、規則連関の仮説や解明的な問いの観点が獲得されるのなら、むしろそうした発見や読解は理論形成的な活動のうちに組み入れられるのが常であるということである。なぜなら、シュミットの場合でも美的に反省するという満足は、〈彼が「受容の隔たり」と呼び、美的なテクストによって伝達される「客体世界からの/の外への自由」(S.52)として規定する構え〉によってはじめて美的になるからである。しかし美的満足は(期待されているように)客体世界の強制を廃棄するこの自由から生じるのではなく、むしろ受容者の意識に立ちのぼり、反省の対象とされる美的テクストの多義性だけに負っている。「美的満足は受容の隔たりによって条件づけられている。意味や能力の潜在力/層とだけ感情的に同一化することは、美的経験や美的満足を否定する」(S.52)。
文献学者と芸術識者たちの秘教的なサークルではお馴染みの洗練された満足の正統性は、シュミットにとって争点ではない。むしろ争点とされるべきは、〈あらゆる美的満足の前提とされるべき受容の隔たりが、テクストの美的多義性を認識することではじめて導き出される〉ということである。「客体世界からの/の外への自由」である美的経験は、「美的満足の出現空間Vorkommensraum」といういくぶん謎めいた言い方でシュミットが名づけるものによってすでに与えられている。受容する意識が自らの受容経験そのものをふたたび主題化し反省するよりも前にまっさきに示されるのは「目的合理的な行為の条件や消費の条件から除外された出現空間」(S.53)においてであるが、この出現空間に対し、伝統的な美学理論は想像的なものというより簡素な概念を用意している。想像的なものは美の知覚の第一次的な平面で、さきの特別に美的な「客体世界からの/の外への自由」を伝達している。したがって多様な価値をもつ美的対象にとっての第二の平面、つまり美的反省の平面においてはじめて、鑑賞者は受容の隔たりから理解の別様な可能性をなんども分節化することができるのである。美的経験によってなされる第一次的な平面での「恍惚とした存在形式entrückte Existenzform」への解放は、感情的な同一化と矛盾することはなく、むしろ想像的意識がコミュニケーションするさいの枠組みとしてこの同一化を前提としている。「美感性」が文化産業や思考の道具化への抵抗力として求められる状況下で、それがモダンな芸術の最近の段階を特徴づけるだけでなく、美の経験のプロセスにおいても美的なものを発見しこれをコミュニケーションのカテゴリーのもとで把握すべきであるなら、その分析が美的反省の平面に限定され続けることは許されない。それゆえ私の次のテーゼはこう述べる。美的経験はテクスト経験や自己経験の閉じた輪のうちに吸収されるものではなく、ある異化経験をも含んでおり、この異化経験は驚嘆、動揺、感動、共に泣き共に笑うといった同一化の第一次的な平面でなされ、範例的なものを経て道徳的な同一化に移行することによって実践的な態度を前もって導くことができる。そのさい美的経験の根本規定としての否定性は保持されたままだが、それはカタルシスの感情的な同一化がつねにすでに生活実践の関心や巻き添えの否定を前提にしているからである。芸術は同一化から分離された美的反省においてではなく、まさにそうした同一化において行為の規範を伝達するのであって、しかもそれは法規則の命法と、社会制度によって気づかれずに強制的に社会化されこととの間に人間的自由の余地を留保しうるやり方でなされるのである[*37]。
もし美的経験のコミュニケーション的機能を歴史的に探究するなら、その探求は現在の芸術経験を反省するのと同様に、〈カタルシスを祭事への参加から分離することに始まり、規範形成的な同一化のさまざまな段階やあり方を経由してコミュニケーション的同一化の拒否にまでいたるこの機能の解放のプロセス〉に従わねばならないだろう。この解放のプロセスに寄り添う芸術理論的反省は、何にもましてアリストテレス受容の歴史において把握されるべきであろう。ルネサンス期のプラトン主義やドイツ観念論の美学のように、触発された鑑賞者への作用よりも芸術作品の尊厳に美学理論がいっそう強く導かれている場合、この反省は隠されたままであり、また自律的な芸術の立場(同様にその敵対者である唯物論の正統主義も)が、芸術作品の受容のされ方への問いやその主観的経験や公共的な意義の「具体化」への問いを心理主義やたんなる趣味判断の社会学として片づけるよう強いられている場合も、反省はやはり隠されたままである。もし美的経験によって伝達されるコミュニケーション的な同一化の型を体系的に探求するなら、その探求はカタルシスの根本規定と根本的両義性[*38]を歴史学的な議論から受け継ぐだけでなく、さまざまな時代や芸術ジャンルにおいて豊かに展開されたアリストテレス的な「英雄」の類型論をも取り入れることができよう。
「カタルシス」に関するアリストテレスの教説からすでに導かれるのは、〈法規則の命法や制度の強制に抵抗する芸術の手本によって倫理的規範や社会的規範を伝達することがどうして隔たることのメリットをもたらし、さらにそのメリットによってなにがしかの自由の余地をもたらすのか〉という疑問である。美的な態度においてコミュニケーション的経験ないし規範の内面化は二重の解放によって導かれ可能になる。一方で悲劇の英雄との感情的同一化は、観客を自らの実践的関心や自身が触発されることによる巻き添えから解放する。観客が自らの日常世界の現実的関心をどれだけ否定し、悲劇の行動に対してどれだけ「美的な構え」を取ることができたかに応じて、憐れみと恐れ、つまり観客と英雄との同一化の条件が作動する。しかしその一方で、そうした仕方で英雄の立場に置き換わる観客は、より純粋な触発、つまり悲劇によって惹き起こされた触発によってふたたび純化されることになるのだが、それは悲劇がもたらす動揺を通じて自らの心情の〈望ましい落ち着き〉にいたるからである(79)。美的経験によるこうした解放が行われる場合、その対象の想像的身分には見極めがたい役割が与えられる。
すでにプラトンのミメーシス概念が想像の能力(表象力[φαντασία])を要請し、それによってコピー(似姿[ομοιωμα])のコピーを可能にしたように、アリストテレスのカタルシス概念も真なる対象もしくはもっともらしい対象の虚構を前提にしており、目指される「浄化」はこれらの対象に即してなされねばならない。S・H・ブッチャー[1850-1910, イギリスの古典学者]に引き続いて最近ではJ・スタロバンスキーが論じたように、美的経験と想像的なものとがつながることによって心情の解放が惹き起こされる。「というのは、想像的なものは〈われわれの情念を揺さぶり、われわれの身体の内奥で沸き起こるリアリティ〉をもった能力を保持する一方で、リアルなものとして呈示されない出来事も保持しているために、生じた感情が純粋に(「純粋な損失」として)消費されるようになり、このことから浄化つまりカタルシスの効果が生じる」(80)。プラトンにしたがって芸術は見かけの真似[μίμησις φαντάσματος][*39]としてたんに感覚的現出の偽りの像を、つまりコピーのコピーを生み出しえるにすぎないために堕落したのだとすれば、逆にこうした存在論的脆弱さはアリストテレスのカタルシスからすれば、美的経験の優位、つまり美的経験に固有の無関心の直観を基礎づけているように思われる。まさに悲劇の想像上の対象によって、もしくは生の実践的目的から距離を置く行動によって観客が解放されるのは、英雄と同一化する観客の感情が日常よりも偏ることなく沸き起こり、より純粋に消耗するからである。
それゆえ実践的な暮らしへのアンチテーゼとしてのカタルシスは、英雄や彼によって体現される行動規範と観客との同一化とけっして矛盾することはない。むしろカタルシスはそうした美的同一化の型を、想像的意識がコミュニケーションするさいの枠組みとして前提にしている。コミュニケーションを行うための枠組みである鑑賞者と英雄との感情的同一化はこのような仕方で態度の型を伝承するか、あらたに形づくるか、慣れ親しんだ態度の規範を問いに付すか、そうした規範を打破することができる。そのさいカタルシスのこうした社会的機能は、とりわけ考慮すべき側面を有している。カタルシス的な同一化によって観賞者は、自らの心情を孤独のうちに解放することですでに純粋に個人的な満足を見出すかもしれないし、たんなる珍しいもの見たさのうちに硬直化してしまうかもしれない。「悲劇的な対象に感じられる満足」によって解放された観賞者は、こうした同一化を経由して行動の範例を習得することができる。だが観賞者が「英雄」の所行にナイーヴな仕方で驚いているだけならば、同一化の異化経験を阻止することもできるし、倫理的に中立化することもできる。
10.キリスト教美学の反対審級としての憐れみ
カタルシスを経由して可能となる美的経験の根本的両義性とは次のようなものである。すなわちカタルシスによる美的経験は生活世界の偏見を打破することができるが、範例的な行為と観客とを道徳的な仕方で自由に同一化させると同時に、美的な心構えに硬直化するか、もしくは最終的には操作された集団的態度において感情的な同一化に引き込まれてしまうのであり、こうしたことは解放するカタルシスが想像的なものの伝達によって購われていることの代価と見なされる。そのためにこの根本的両義性は美的経験の歴史においても幾度となくあらたに、キリスト教倫理もしくは実践理性の名のもとで戦わされた芸術のコミュニケーション的作用に対する論争のつけこむ隙となった。美的同一化とコミュニケーション的実践との関係を問うに当たって、キリスト教文学と芸術のあらたな導入はとくに重要性をもつ。というのは、キリスト教教会とその教説の権威は、それが生活実践を占めた程度に応じて、詩人の欺瞞性に対するプラトンの批判を引き継ぐだけにとどまらなかったからである。教会の権威は、キリスト教固有の詩の正統性に対し美的経験の余地をあらたに確保する議論を次第に発展させていった。そうした議論では想像的なものに対して範例が、カタルシスによる浄化に対しては実行に移す憐れみが、模倣において感じられる美的満足に対しては倣うNachfolgeという呼びかけの原則がそれぞれ対置された。
美的同一化から道徳的同一化への移行を明確にするこうしたカテゴリーを論及するに当たって想起されるのは、アリストテレス受容の転換期、つまりレッシングによるコルネイユの美学理論への批判にマックス・コメレルが捧げた比類ない解釈である(81)。彼の解釈によると、フランスとドイツにおける古典主義の両代表によるカタルシス解釈において、「憐れみのあり方がアリストテレス以来の歴史のうちでいかに変化していったのか」(S.212)が白日の下に晒されるという。あらゆる歴史的変化をかいくぐって同一であるのはただ「想像力による憐れみへの関与」だけであって、「憐れみとその対象はいつも直観によって身近なものとされねばならない」(S.213)。これに対しアリストテレスと(キリスト教的な生活実践の長き時代の後に現われた)ルネッサンス以来のその解釈者において、観客の心情を悲劇によって揺さぶる憐れみは根本的に異なる兆しの下にある。「キリスト教の憐れみは裁くことをせず、生者のどんな苦悩も自らの事柄とみなすようわれわれに強い、また強いるべきである創造性にその根拠をもつ」(S.213)。「そもそも人間感情の心構えとして理解され、因習文化によって高められ実行に移されるべきもの」(S.202)という、キリスト教によって規定づけられた近代の[憐れみの]捉え方からすると、〈心情を虚構のケースによってはじめて惹き起こした上で、その心情を類似療法的な治療のうちで回復し、自らの自由へと連れ戻すことになる触発としての憐れみ〉というアリストテレスのイメージは不条理を孕んでいる。「人はなるほど心の苦しみにから浄化されるが、同情Mitgefühlによっては浄化されることはない」(S.204)。このことから導かれた悲劇の快の道徳的再解釈は、コルネイユの場合とレッシングの場合とでは異なる目標をもっている。「恐れ」というさいにコルネイユは〈観客自身にかかわってくる触発〉という定義で始めており、この触発は英雄や殉教者たちの完璧な苦悩への驚嘆を経て、彼らと同じ美徳をもてるよう熱心に見習うところにまで精錬されることになる。これとは逆にレッシングは、[私を]異質な私と関係づけつつ自分自身のこととして考えるSichhineindenken触発としての「憐れみ」から出発し、過ちを起こすこともある平均レベルの英雄との同一化を経て人間的状況を理解するようになり、人倫的な決断に呼びかける。コルネイユとレッシングの両者から、美的同一化の諸段階に関する問いにとって基本的な区分が生じてくる。
驚嘆は創造する触発の隔たりであり、憐れみは止揚する触発の隔たりである。というのは、私はもはや自分の可能性のうちにはないもの、私のあり方を超えているものを驚嘆するからだ(S.209)。
ジョージ・H・ミードと共に憐れみの触発を〈社会的であることを自覚した姿勢〉として理解し、助けを求める個人の姿勢が自分自身の自己同一性において呼び起こされることをこの姿勢自体が要請するとき、憐れみのキリスト教美学の射程はもっと明確になる。社会心理学的に説明される憐れみは、ある社会的状況において他人の役割に就くことを前提としていて、憐れむ者はこの状況に対し、当の関係者ならば明示的に反応しまたそうしなければならないような仕方で暗示的に反応する(82)。ミードの理論はルソーの人間学に基づいて基礎づけられたが、そのルソーの人間学によれば自然な人間homme naturelにとっては〈ただ一つの自然な美徳〉(同類が苦しむのをみることへの生得的な嫌悪une répugnance innée à voir souffrir son semblable)[*40]だけが必要とされるという。その美徳とは憐れみpititéであり、類の相互保存を気づかうことにより自己愛amour de soi-mêmeと均衡を保ち、歴史的な経過のうちで発展してきたあらゆる社会的な徳vertus socialesの根であって、ルソーにとってはこの憐れみの概念があるために自然の社交性sociabilité naturelleの仮説は不必要なものとなる(83)。
キリスト教の詩のあらたな導入には、隔たりをとって驚愕することと罪深い〈目の欲〉cncupiscentia oculorum(アウグスティヌス『告白』X, Chp.35)[*41]との間の論争がつきまとった。異教・古代の出自をもつ同時代の世俗文学は、想像上の題材や英雄の所行によって読者をその享楽に導き、気づかぬうちに無為と罪に誘い込むものとされたが(84)、そうした異教的な世俗文学に対し宗教詩は、自らが扱う対象の歴史的真実に基づいて、享受的な態度を求めるだけにとどまらない要求を掲げる。宗教詩の聴衆に期待されているのは、自らが同情compassioによって揺り動かされることでキリストに倣った行為を行うようにさせることである。受難劇の観客に求められる心構えは、英雄や殉教者たちの完全性を驚嘆のうちに仰ぎ見たり、距離をとってそうした完全性を反省したりするのではなく、むしろ「同情に満ちた気持ちcœurs pleins de compassion」である(84a)。「キリストの苦悩の道のあらゆる個別的状況を際立たせることを通じて読者は熟慮(省察meditatio, 観照contemplatio)に誘われ、それによって憐れみ(同情compassio)やさらには倣い(模倣imitatio)にまでいたることになる」(85)。
そのさい、心情を奮い立たせることや憐れみという道徳的同一化(キリストの模倣imitatio Christi)によって鑑賞者の美的・観照的な隔たりを止揚することは、キリスト教の詩の内部であっても危険に晒されることであり、教父たちは異教の詩が有するそうした危険を非難したのだった。神聖な行為、聖書に出てくる行為もしくは聖人の行為の表現repraesentatioは、〈ありありと描かれた事象の経過がただその感覚的な現象においてのみ受け取られてしまい、内面化されたり指示したり促したりする関係のうちで理解されない〉というあらゆる具象化につきまとう危険を含んでいる。宗教劇もその教義的な意図からして、〈具象化された事象の経過を再認識して得られる喜び〉が〈模倣されたものに感じられる快〉へとすっかり変わってしまっては、もはや平然としてはいられなかった。鑑賞者は示された道徳感覚sensus moralisや要請された習慣の変革conversio morumに従わずに(86)、自らのたんなる珍しいもの見たさを満足させるか自己満足的な感動に堕してしまった。もっとひどい場合には(ライナー・ヴァルニングが発見したように)、宗教劇を観るキリスト教徒の観客がアルカイックな劇の儀式の集団的同一性に引き込まれてしまい、そうした劇の儀式によって異端的・二元論的な民族信仰性が唯名論的な神や一神教的な教義に閾下で抵抗することもあった(87)。信仰の真理を直観化する美的ないし修辞的な手段の利用と、旧約聖書における似姿の禁止がすでに暗示していた美的同一化の危険との分裂は幾度となく教会の権威の関心事となってきた。〈感覚の認識機能〉と〈表象能力に及ぼされるその力〉への、説教論にとってまっさきに重要な問いに教会権威がどういった立場をとるかは、美的同一化の問題に直接関わっており、[これに関しては]粗描によって回顧してみる価値があるだろう。
一方で、〈信仰の真実も理性の根拠づけによるより感覚による方がいっそう説得的に伝達されうるのだから、キリスト教の信徒教授は直観化という修辞的・美的な手段を利用するべきである〉(さらに、一般の人々は理性よりも表現によってより揺り動かされるのだから、あたかも目やその他の感覚に対するようにあらゆるものを信徒に対して表現してやることが適切であるlaicis autem oportet quasi ad oculum et sensibilitatem omnia demonstrare simplices enim melius inducuntur repraesentaionibus quam rationibus)ということが説教師にとっての教育のトポスとなる(88)。このようにして宗教的絵画は、〈目の前にあるように描かれた(あたかも現前するかのようにそれを現わしめるquasi presenti geri videatur)行為は、耳によって受容されあらためて記憶を呼び覚まされる場合よりも精神をよりいっそう突き動かす〉という、宗教劇に対しても通用する議論で正当化される(89)。この議論はアリストテレスの伝統[*42]にうまく関連するものであり、その伝統によれば他の感覚器官のなかでも目に対して知覚認識するさいの優位を認めている(90)。他方で、この〈目〉に対してはアウグスティヌスにまで遡る伝統[*43]が立ちはだかっており、その伝統は、耳は直接に洞察にまで達し(われわれは自らの耳で聞くことによって知るようになるのだから、耳は理解のために与えられたのだaures quidem ponuntur pro intellectu, quoniam auribus audiendo intelligimus)、信仰も聴かれたことに基づいていることから(信仰は聴くことからやってくるfides ex auditu est)(91)、耳をもっとも高度な器官としてひいきする。アウグスティヌスは目による誘惑について、共感的な同一化の裏面を、すなわち[自らが]見たものによって魅了され縛られる意識を解説してみせたのだった。
その一事例として有名なのが、アリピウス[*44]がいかにして自らの意志に反し剣闘士の見世物に同席し、嫌悪感を抱きながら目を閉じるものの、群衆の荒々しい叫び声に接して「好奇心に打ち負かされて」目を開き、いかにしていまや目をそらすことができず血を求めることに心奪われたかにかんするエピソードである。
かれは、競技場の血を見るやいなや、残忍の杯を飲みつくし、目を背けずにそれを凝視し、凶暴を飲みほしながら、そのことに気づかなかった(『告白』第六巻第八章)。
憐れむ観客がひどく傷を負った剣闘士に寄せる同情的な同一化は、好奇心(目の欲concupiscentia oculorum)によって残忍な欲望の集団的同一性に堕してしまう。生死を賭けた「劇」の異常な登場人物は、美的な心構えによって観客の道徳的自由をも打ち砕く(「するとアリピウスは、自らが見ようと思った剣闘士が体に受けた傷よりももっと重い傷を心に受けた」)。演劇への熱中を批判するなかでアウグスティヌスは、アリピウスとは別の同情的同一化の堕落形式を誤った堪能の仕方として説明しているが、それは演劇への熱中が想像上の痛みを自己満足的な仕方で自閉的に堪能しているからである。
しかしながら、架空の舞台で演ぜられることがらのあわれみというのはいったいどんなものであろうか。聴衆は人を助けるために呼ばれるのではなく、ただ悲しむために招かれるのであって、人は深く悲しめば悲しむほど、それらの姿を演じる役者をますます贔屓にするからである(『告白』第三巻第二章)。
真の同情compassioとともにキリスト教の詩は〈美的に客体化されたものを共感しながら享受する態度(「痛みへの快」)〉を打破しようとするが、この真なる同情は模倣imitatioへの準備として示されねばならない。
[続稿]
(41)私はここでJ・ミッテルシュトラスの『近世と啓蒙Neizeit und Aufklärung』, Berlin/New York 1970にしたがうが(とくに§10.2の「近世における進歩の発見-理論的確実性と制作する能力」)、彼はヴァレリーと美的経験の理論に関する共通セミナー(彼の本質的な主題提起はこのセミナーに負うている)で〈制作する能力〉の概念をカントを参照しながらさらに発展させた。
(42)プレイヤード版全集第1巻(Paris 1960), p.1192-96, 1201, 1252-3. [翻訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』、山田九朗訳、岩波文庫、1977年。「世の大方の人は眼をもって見るよりも知恵分別でものを見る場合が多い。色ある空間の変わりに、概念の穿鑿をする。(中略)自分の網膜によるよりも言葉で知覚し、対象に近づくことも十分にせず、物を見る楽しみ苦しみもぼんやりとしか分らないところから、〈見どころ〉なるものを発明したのはこの人たちである」(翻訳28頁)。]
(43) Op. cit., p.349.「理論的能力が真理命題の定立に基づき、実践的能力がより善いかより悪いかで行為を判断することに基づくのに対し、制作する能力は作られるもの一般を挙げてみせる」。
(44)『判断力批判』序論p.IX. [該当箇所に「制作する能力」に類する言葉は見当たらず、次のような記述があるだけである。「そうではなくて[実践的諸指令の総括が哲学の実践的部門を構成するのは]、これらの指令の原理がつねに感性的に条件づけられている自然概念からまったく借用されておらず、したがって自由概念だけが形式的法則によって識別可能にする超感性的なものに基づいているのであり、それゆえ、これらの指令は道徳的=実践的である」(翻訳18頁)。]
[*25]建築することが自己認識を伴うことをエウパリノスは次のようにパイドロスに対し語り聞かせている。パイドロス:「『パイドロスよ、私は自分の芸術について思索し、自分の芸術を実践すればするほど、考えかつ行動すればするほど、建築家として苦しみまた楽しむほど、いよいよ確実な喜びを明瞭さをもって、自分自身であることを痛感するのだ。/ 私は、私の長い期待のなかに迷いこむ。私は私自身に与える驚きによってまた自分に帰る。そして私はこのように相次ぐ私の沈黙の段階を経て、私自身の建設へと進んでいくのだ。そして私は、私の願いと私の力との実に正確な一致に近づいて行くのだ。私に与えられた生存を、一種の人工的作品にしてしまったと思われるほど正確な一致に。/ 建築することを続けたあげく』と彼は微笑しながら私[パイドロス]に言いました――『私は自分自身を建築したような気がするのだ』と」(『エウパリノスもしくは建築家』伊吹武彦訳、筑摩書房、1973年、19頁)。
また建築と音楽は〈音楽としての建築〉と〈建築としての音楽〉というふうに相互の隠喩化によって称揚される。ソクラテス:「私は各芸術を近づけたり区別したりする。列柱の奏でる歌を聞いたり、澄み切った空に旋律のたたずまいを想像したいのだ。この空想は、一方に音楽と建築とを、もう一方には他の芸術を置くように、いともたやすく私を導いて行く。親愛なパイドロスよ、絵画というものは、額や壁のように表面をだけしか蔽わない。そしてその表面で、物体や人物を仮装するのだ。彫像術は同じように、われわれの視野のごく一部をしか決して装飾しないものだ。ところが、周囲と結合された殿堂、あるいはまたこの殿堂の内部は、われわれにとっては、そのなかでわれわれが生きる一種の完全な偉大さを形成する……。ここに至ってわれわれは、人間の作品中に存在し、そこに動き、生きるのだ!」(翻訳32頁)。音楽も関しては次の通り。ソクラテス:「では君は、ある荘厳な祭典に出席したり、饗宴に加わっており、合奏が広間を音とまぼろしに充たすとき、こういうことを感じたおぼえはないのか。最初にあった空間が、理解不能な変化する空間によって置き換えられたように、というよりも、時間そのものが君を八方から取り囲んでいるようには思われはしなかったか。君は移動する建物のなかに、たえず新たにされ、それ自身の中に再建される建物のなかに生きていたのではないか。拡がりの魂ともいうべき魂の、さまざまな変容のためにもっぱら捧げられた建物」(翻訳33頁)。
(45)これ以降のところで、私はH・ブルーメンベルクの解釈にしたがう。H. BLUMENBERG, op. cit., p.290sq.
(46)ブルーメンベルクにしたがうと、これによって美的-受容的主体は「対象そのものや対象に関する契機ではなく、対象を経由するか対象に即しながら虚構の世界によって自らの制限されない存在、所与に対する自由を」享受する(op. cit., p.323)。
[*26]ヴァレリーのポイエーシス論の美学史的意義が指摘されるにとどまる本節に対し、『美的経験と文学的解釈学』ではアリストテレス、中世における創造概念、ヴィーコ、ドイツ観念論とマルクス主義や、ポップ・デモンストレーションに代表される戦後の前衛芸術運動までをも射程に収めるポイエーシスの概念史的議論が展開されており、ヴァレリーとセザンヌとの「対応関係」についてはもはや語られなくなる。なおマックス・イムダールはヤウスのヴァレリー解釈に依拠しつつ、セザンヌの側からこの「対応関係」について指摘している。「セザンヌの絵画は…、ヴァレリーの建築的なものないし音楽的なもの…の定義にも接近する。(中略)セザンヌの絵画における建築的なものは、建築の際立ったところに対する模倣的関係において考えられているのでなく、また自然そのものに対する模倣的関係において考えられているのでもなく、それはむしろ、[既存の意味やイメージを]表示化しようとするあらゆる動機を断念したそのつどの絵画的な操作の呈示や首尾一貫性のうちに存する」。Max Imdahl, »Kunstgeschichtliche Bemerkungen zur ästhetischen Erfahrung«, in: Gottfried Boehm hrsg., Max Imdahl Gesammelte Schriften Bd.3 Reflexion, Theorie, Methode, Frankfurt 1996, S.290.
(49)イムダールに基づく。M. IMDAHL, Die Rolle der Farbe in der neueren französischen Malerei – Abstraktion und Konkretion, in Poetik und Hermeneutik II, p.195.
(50)このことに関しては以下を参照。M IMDAHL, Marées, Fiedler, Hildebrand, Riegl, Cézanne, in Literatur und Gesellschaft, Bonn 1963, p.142-195.
(51)以下に基づく。J. STRIEDTER, Poetik und Hermeneutik II, p.263 / 288.
(52) Schriften zur Kunst, 2 Bde., ed. G. BOEHM, München 1971 (Theorie und Geschichte der Literatur und der Schönen Künste, 16) I 44 ; 1. 加えて注50で挙げたイムダールの文献も参照(p.153)。
(53) Ib., p.326. 加えて以下も参照。K. BADT, Kunsttheoretische Versuche, Köln 1968, p.126.
(55) Ib., p.1167. [翻訳31頁]
[*27]概念ばかりに頼って物を認識する傾向に対し、ヴァレリーがとったのは次のような態度であった。「そこで真の分析にいたる道は、これとは反対の天分を用いることである。この天分はいわゆる〈自然〉のなかで鍛錬されるものと言うわけにはいかない。この〈自然〉という言葉は、経験のありとあらゆる可能性を含んでさも一般に共通のもののように見えながら、人によってまったく別々である。(中略)それゆえ物を見、またよく見ることのできる人間の位置は、存在するものの任意の片隅にそもそも据えられねばならない」(翻訳31頁、訳文を一部変更)。
[*28]『私のサロン』(1866)[翻訳『ゾラ・セレクション(9)美術論集』三浦篤編、三浦篤・藤原貞朗訳、藤原書店、2010年]に出てくるゾラ独自の芸術規定で、正確には「芸術作品は、ある気質を通じて見られる自然の片隅である」。ゾラの「小説の二つの定義」(1866)によると、古代の神話は非現実的な人間の生活を描いたが、現代の小説は地上の片隅に生きる現実の人間を表現せねばならない。
(56)本稿で提起された広範な芸術史的側面のすべてがそうだが、ここに関しても私は、マックス・イムダールが〈第13回ドイツ芸術史家の日〉での私の講演原稿に寄稿してくれた「芸術史的注記」にしたがう。以下参照。 JAUSS, Kleine Apologie der ästhetischen Erfahrung, Konstanz 1972 (Konstanzer Universitätsreden, 59), p.52-72. [このイムダール論文は訳注26で挙げた「美的経験に関する芸術史的注記」のことである。なお同論文でイムダールは、本論後半で論じられるヤウスの「同一化」のカテゴリーを絵画史の側から例証している。]
(57) FIEDLER, op. cit., I, p.57-59.
(59) Valéry op. cit., I, p.1165/ 67. [この文句は訳注27の引用文の上段に付された、後年のヴァレリー自身による書き込みである。]
(60) K. BADT, op. cit., p.170sq.「セザンヌの労苦は、現実から(そうした現実が彼の眼に現れたように)表現のためのあらゆる手段を引き出すことに向けられ、その手段は彼に連関を、つまり世界の連関体を判然とさせる選ばれた事物を絵画において甦らせるのに不可欠のものであった」。
[*29]リルケは1907年にパリの展覧会でセザンヌの絵画に接し、後に「セザンヌ体験」と言われるほど強い影響を受ける。この体験によってリルケは、内面的な深さを有し堅牢で永続的な統一体として自然を描くべくセザンヌが導入した「現実化」という手法のうちに、自らの詩作の進むべき核心を発見した。もともとパリ時代のリルケは「物」を、たんなる物理的事物としてではなく、生き生きとした秩序ある世界を表わす永続する堅固な存在として理解していたが、そうした「物」がセザンヌの絵画のうちに決定的なかたちで作品化されていることをリルケは見出したのだった。
(61)注56のM・イムダールの文献を参照 (p.66)。
(62) Kunst als Verhahren, in: Texte der russischen Formalisten I, ed. J. STRIEDTER, München 1969, p.15 (引用文の第一文目はシクロフスキーによる、トルストイの日記の引用である。)
(63) 1922年12月23日付のアレクザンダー・ホーエンローエ皇子への手紙。
[*30]エルンスト・ローベルト・クルティウス(1856-1956)はドイツのロマンス文学研究者。『ヨーロッパ文学とラテン中世』、『ヨーロッパ文学評論集』などの著作で知られる。
(64) Marcel Proust (1935), Frankfurt p.65, 16sq.
(65) A la recherché du temps perdu, Paris (Gallimard) 1949, t.I, 248. 〈現前するものの本質自体に存するいかんともしがたい欠陥imperfection incurable dans l’essence même du présent〉はすでにプルーストの処女作である『快楽と日々』(1896)の主要テーマである。これに関しては以下を参照。JAUSS, Proust auf der Suche nach seiner Konzeption des Romans, in: Romanische Forschungen 66 (1955) p.255-291, 特にp.267.
(66) M. WALSER, Leseerfahrungen mit Marcel Proust, in: Erfahrungen und Leseerfahrungen, edition suhrkamp 109, Frankfurt 1965, p.139.
(67) Ib., p.136sqq.
[*31]第二次大戦後のフランスにおける実験的な小説作品を総称する呼称。それらの作品には、プロットの一貫性や心理描写などの伝統的な物語的手法を排し、読者に自由な読解を許す構造などの特徴がみられる。アラン・ロブ=グリエ、クロード・シモン、ナタリー・サロート、ミシェル・ビュトールらが代表的な作家とされ、広くはサミュエル・ベケット、マルグリット・デュラスも含まれる。1960年代にはテル・ケル派がこの運動を継承したが、70年代以降は衰退。なおベケットとヌーヴォー・ロマンの関係について、『美敵経験と文学的解釈学』には次のような指摘がある。「ベケットは、「表現の嘘」やまだ見抜かれていない言語操作の欺瞞の虜とならずに社会的生活と個人的生活を物語りの目的論的形式でもって把握可能とする作家の能力に疑念を抱き、これを究極のアポリアにまで追いやったが、そうしたベケットの疑念は以降、学派を形成し、D・ヴェラースホーフが示したように、とりわけヌーヴォー・ロマンとテル・ケル派の散文を特徴づけた」(S.157)。
[*32]アラン・ロブ=グリエ(1922-2008)は、ヌーヴォー・ロマンの理論的提導者。『消しゴム』(1953)、『嫉妬』(1957)、『迷路のなかで』(1959)などの小説作品を発表するほか、アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』(1960)ではシナリオを担当し、また自身も映画作品の監督を行っている。
(68) F. Koppe, Literarische Versachlichung bei Voltaire, Flaubert, Robbe-Grillet – Versuch eines poeto- logischen Beitrags zur Empirismus-Kritik, Diss. Konstanz 1971, p.4, 218.
[*33]ベルゴットとはM・プルースト『失われた時を求めて』に登場する、主人公が幼少の頃からあこがれた大作家のこと。ベルゴットの死は同作第五篇「囚われの女」の1エピソードとして語られるが、彼の死について語り手は次のような感想を述べている。「彼[ベルゴット]はこと切れていた。永遠に死んでしまったのか。だれがそう断言できよう。たしかに交霊実験にせよ宗教の教義にせよ、魂の不滅を証明してはくれない。ただ言えるのは、この人世においてはあたかも前世で重い義務を負わされて生まれてきたかのように、いっさいが起こるということだ。この地上での人生の条件のなかには、善をなせ、心こまやかであれといった義務、他人に礼儀正しくあれといった義務さえ人に感じさせるような理由は何ひとつなく、また神を信じない芸術家にとってみれば、永久に知られることのない一人の画家、わずかにフェルメールという名で確認されているにすぎない一人の画家がじつに巧妙かつ精緻に黄色い小さな壁を描きあげたように、何度も繰り返してひとつのものを描くべく義務づけられていると感じる理由は何もない――たとえその絵が賞賛をかちえても、ウジに蝕まれてゆく自分の肉体にとってはどうでもよいことだろう。このような義務はいずれも現世で報いられるものではなく、この世界とはかけ離れた世界、善意や心づかいや犠牲に基礎をおく別の世界に属しているように見える。人はその世界から出てこの地上に生まれ、おそらくはやがてその世界に引き返して未知の掟に支配されながらふたたび生きることになるだろう」(鈴木道彦訳)。
(69) Op. cit., p.128sq.
[*34]ジョン・ラスキン(1819-1900)はイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家。ラスキンは夭折した自らの恋人との交霊のために心霊研究を行っている。また若きプルーストはラスキンの研究と著作のフランス語訳を行っており、その影響は『失われた時を求めて』にも及んでいる。
(70)これに関しては以下を参照。In: Romanische Forschungen 66 (1955) p.272-291.
(71) 1929年の「プルーストのイメージについて」(Schriften, Bd.2-I, p.310-324)とさらに1939年の「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(Schriften, Bd.1-II, p.603-654)。[前者翻訳『ベンヤミン・コレクション2』久保哲司訳、ちくま学芸文庫 1996年。後者翻訳『ベンヤミン・コレクション1』円子修平訳、ちくま学芸文庫 1995年。この段落での引用はおもに「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」からのものである。当該箇所でベンヤミンは、自分のかけがえのない過去を思い出せるかどうか(無意識的記憶が呼び覚まされるかどうか)はまったくの偶然によるとするプルーストについて次のように述べている。「プルーストに従えば、個々人が自分自身についてひとつの像を獲得しうるか、自分の経験をわがものにしうるかどうかは、偶然に委ねられている。この事柄で偶然に左右されるというのは、決して自明のことではない。人間の内的な関心事は元来、このようなどうしようもなく私的な性格をもってはいない。それがそういう性格をもつようになるのは、その人間の外的な関心事が彼の経験に同化される機会が減少してのちのことである」(翻訳424頁)。]
(72) Standort des Erzählers im zeitgenössischen Roman, in: Noten zur Literatur I, Frankfurt 1958, p.61.
(73) Adorno, op. cit., p.69. また以下も参照。Kleine Proust-Kommentare, in: Noten zur Literatur II, Frankfurt 1961, p.97.
(74)「プルーストのイメージについて」, op. cit., p.312. [「そしてさらに別の意味でも、ここで[テクストの]織り方を厳しく規定しているのは、追想Erinnerungである。つまり、テクストを統一するものは、追想という純粋行為それ自体だけなのだ。著者その人でもなければ、いわんや筋などではない。それどころか、筋の間歇[しばしば途切れること]は、追想の連続体の裏面、絨毯の裏側の模様にすぎない、とすら言える」(翻訳417頁)。]
(75)「そうなのだ、思い出は忘却のために現在の時間との間にいかなる絆を結ぶことも、いかなる鎖の輪を投げることもできず、その場所、その日付にとどまり、谷間のくぼみや峰の頂にあって他から遠く離れたまま、孤立を保っていたのである。それでもそうした思い出が、不意に新しい空気をわれわれに呼吸させることがある。それはまさしくこの空気がかつてわれわれの呼吸したものだからだ。これは詩人たちが楽園を満たそうと空しい努力を払ったあのいっそう純粋な空気、すでにかつて一度呼吸されたものであればこそはじめてすべてを一新するあの深い感覚を与えうる空気なのである。というのも、本当の楽園とは失われた楽園にほかならないからだ」(t. XV, 12)。再想起と、介入された雰囲気atmosphère interposée(ここから「想起のポエジー」がはじめて成立する)としての時間経験と、美的隔たり(プルーストの「小説の小説」はその止揚を範型的に説明している)との連関については、本稿では独自に論じることができないので、以下を参照。JAUSS, Zeit und Erinnerung in M. Prousts >A la recherche du temps perdu<, Heidelberg ²1970, bes. Kap. V.
(76)「唯一の真の旅、唯一の若返りの源泉は新しい国に赴くことではなく、これまでとは別の目をもつこと、他人の目、それも多くの他人の目で宇宙を見ること、彼らの各々が見、彼らの各々がそれであるところのいくつもの宇宙を見ることなのだ」(t. XII, 69)。
(77) Wahrheit und Methode (1990), S.94. [ガダマーは同箇所で〈純粋に美的なもの〉や〈知覚の経験主義〉を前提とした美的体験へのアプローチを批判し、次のような結論にいたる。「われわれにとって問題なのは、芸術の経験をそれが経験として理解されるようなかたちで見ることである。芸術の経験を、美的教養の所有物へと改竄して、固有の真理要求をもっている芸術経験を無力化するようなことがあってはならない。芸術の経験から引き出される解釈学的な帰結はきわめて広範にわたっており、そのことをわれわれはこれから見てゆきたいが、要するに芸術の言葉との出会いはすべて完結されない出来事との出会いであり、それ自体がこの出来事の一部分なのである。そしてまさにこのことこそ、美的意識に対抗し、また美的意識が真理問題を無力化することに対抗するために認められなければならないのである」(翻訳140頁)。ガダマーは芸術作品において開示される真理を強調するが、ヤウスは美的経験において獲得されるのは(美に関するプラトン主義に陥りかねない)真理ではなく、あくまで「認識機能」(アイステーシス)であることを強調する。]
[*35]このテーゼはほぼ同じ表現で『美的経験と文学的解釈学』にも見出せる(S.165)。
(78) Ästhetizität: Philosophische Beiträge zu einer Theorie des Ästhetischen, München 1971, p.76 / 77, vgl. 90; 以下、本文中にページ数を引用する。
[*37]『美的経験と文学的解釈学』になるとこのカタルシスに関する主張は「テーゼ」としては登場しない。概念定義の基本方針はそのままに、同書でのカタルシス論は次のように説明される。「悲劇のような芸術が有する精神教育的効果、すなわち想像上の〈英雄の運命〉に感じられる快による心情の解放は、〈人間の行為や苦悩〉の範例への洞察を伝達する。文学における手本を受容者がより高度な仕方で懐胎できるのは、カタルシス的な快の高度な複合性からその力を得ているからである。それゆえ美的同一化は、理想化された態度の型を受動的に引き受けることと同義ではない。美的同一化がなされるのは、美的に解放された観賞者と実在しない客体との間の揺れ動きHin- und Her-Bewegungにおいてであり、美的に享受する主体はそうした非実在の客体において、驚嘆、感嘆、動揺、憐れみ、感動、共に泣き共に笑うこと、異化や反省といった心構えの段階全体を受け入れ、その人格的世界の手本が示す提案を自らのものとするが、たんに珍しいものを見たいと思う誘惑に屈してしまうか、自由のきかない猿真似に堕してしまうこともある」(S.167)。
[*38]「根本的両義性」については次節冒頭で論じられる。なお、カタルシスの否定的側面に関して『美的経験と文学的解釈学』には次のような表現もある。「だが私のカタルシスの規定は、ある可能性を孕んでいる。それは美的に享受する態度が有する揺らぎ状態を一面化させ、隔たりを欠いた客体の享受かもしくは感傷的な自己享受に陥ってしまう可能であるが、さらにこれによってカタルシス的経験がイデオロギーによって独占されたり、既存の消費活動に堕したりする危険性もあり、結果的にカタルシス本来がもつコミュニケーション的機能を喪失する可能性がある」(S.166)。
(79) M. KOMMERELL, Lessing und Aristoteles. Untersuchung über die Theorie der Tragödie, Frankfurt/M. 1870, p.201.「個々人の素質や傾向とは無関係に人間には原理的に共感し恐れる心構えが前提にされており、この心構えはるより高度な仕事をなすために望ましい落ち着きを危くする」。
(80) J. STAROBINSKI, Jalons pour une histoire du concept d’imagination, in; L’œil vivant II : La relation critique, Paris 1970, p.179. これに関連することはすでに以下で述べられている。S. H. BUTCHER, Aristotle’s Theory of Poetry and Fine Art, ²1907, p.127.「現実の感情や、生の肯定的な欲求はいつもそれ自体のうちに不安の要素を抱えている。経験世界におけるそうした不安とは異質の事柄と形式とが結合することで、魔力的な効果が練成される。日常現実の重圧は取り除かれ、美的な感情が独立した現実として解き放たれる」。
[*39]「見かけの真似」という表現は、プラトンの『国家』における有名な「絵画の二段階模倣説」の箇所に登場する。「いったい絵画とは、ひとつひとつの対象についてどちらを目ざすものなのだろうか? 実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか?(中略)してみると、真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになるし、またそれがすべてのものを作り上げることができるというのも、どうやら、そこに理由があるようだ。つまり、それぞれの対象のほんのわずかの部分にしか、それも見かけの影像にしか、ふれなくてもよいからなのだ」(藤沢令夫訳、598B)。
(81)コメレルの前掲書からの引用は以下、本文にページ数を挿入する。
[*40]『人間不平等起原論』における「憐れみ」概念の有名な規定。「ホッブズが少しも気づかなかったもうひとつの原理がある。それは、或る種の状況において、人間の自尊心の激しさをやわらげ、あるいはこの自尊心の発生以前では自己保存の欲求をやわらげるために、人間に与えられた原理であって、それによって人間は同胞の苦しむのを見ることを嫌う生得の感情から、自己の幸福に対する熱情を緩和するのである。私は人間の美徳をどんなに極端に批判するものでも認めざるをえなかった、ただひとつの自然的な美徳を容認するからといって、なんら矛盾を犯す恐れがあるとは思わない。私は哀れみの情のことを言っているのであるが、それはわれわれのように、弱くていろんな不幸に陥りやすい存在にはふさわしい素質である。それは人間が用いるあらゆる反省に先立つものであるだけにいっそう普遍的なまたそれだけ人間にとって有益な徳であり、そして時には禽獣でさえもそのいちじるしい徴候を示すほど自然的な徳である」(本田喜代治・平岡昇 訳、岩波文庫 1972年、71頁)。「だから、憐れみが一つの自然的感情であることは確実であり、それは各個人における自己愛の活動を調節し、種全体の相互保存に協力する。他人が苦しんでいるのを見てわれわれが、なんの反省もなく助けにゆくのは、この憐れみのためである」(翻訳74頁)。
(83) Ed. Garnier, Du contrat social etc., Paris 1960, p.58sq. [『人間不平等起原論』には次のような記述がある。「…人々をその相互の欲求によって接近させ、彼らに言葉の使用を容易ならしめるための配慮を、自然がほとんど行わなかったということから考えて、自然がいかに彼らの社交性を準備することが少なかったか、そして彼らがそういう絆を打ち立てるために行ったあらゆることに、自然がいかに寄与するところが少なかったかを、少なくとも知ることができる」(翻訳67頁)。]
[*41]「目の欲」とは新約聖書「ヨハネ第一の手紙」に出てくる表現。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(2-16)。アウグスティヌスはこの「目の欲」を『告白』第10巻第35章で「好奇心」の源泉として次のように説明している。「…肉において享楽を求めるのではなく、肉を通じて経験を得ようとするむなしい好奇の欲望が魂のうちにあるのであるが、感覚のうち、認識に対して主要な地位を占めるのは目であるから、それは神の御言によって「目の欲」といわれる」(服部英次郎訳、岩波文庫 2006年、70頁)。なおこのアウグスティヌスによる「好奇心」の分析は、ハイデガーの『存在と時間』における「好奇心」の分析(§36)でも参照されている。
(84) [これに関する]まとまった証言としては、ソールズベリのヨハネス[1115/20-1180, 12世紀ルネッサンスの代表的な神学者]の『ポリクラティクス』[1159]第1巻における芸術の力と虚栄への批判がある。「われわれの時代は、落ちぶれ似たような愚行を犯し、耳と心を虚栄に売り渡しているだけでなく、目と耳を楽しませることで無為の愉悦に浸っている。自分自身の放蕩欲をかき立て、いたるところで悪徳への誘因を探し求めているat nostra etas prolapsa ad fabulas et quaevis inania non modo aures et cor prostituit vanitati, sed oculorum et aurium voluptate suam mulcet desidiam, luxuriam ascendit, conquirens undique fomenta vitiorum」(引用は以下から。R. R. BEZZOLA, Les origins et la formation de la literature courtoise en occident, vol.III, Parsi 1967, p.29)。また以下も参照。GRLMA VI 1, 164.
(84a) [アルヌール・]グレバンの『受難の聖史劇』[1452](ed. JODOGNE, Bruxelle 1965, vv. 19906sq.)にあるprologus super tertia die passionisが具体例として引き合いに出されねばなるまい。
主題を継続するにあたり Pour continuer la matiere
それが同情に満ちた心にとって qui est prouffitable et entiere
有益で完全なものであるには a cueurs plans de compassion,
その主題はあの方法で laquelle traicte par maniere
偉大な計画の受難を扱う la haute passion planiere
われわれを救済してくれたあの方法で qui fit nostre redempcion (etc.)
(85) K. RUH, Zur Theologie des mittelalterlischen Passiontraktats, in: Theologische Zeitschrift 6 (1950) 20.
(86)これに関しては以下を参照。W. SCHMEJA, Der >sensus moralis< im Abamspiel, Liz.-Arbeit Konstanz, 1972 (Ms), S.7ff., 37. 習慣の変革は道徳的説明moralis explanatioないし比喩表現による説明の目標であり、そうした比喩表現は方法の修繕や実践的な教育にふさわしい道徳的説明であるtropologia quae est moralis explanatio ad emendationem vitae et institutionem pertinens actualem (Raban, PL CXII, 331)。
(87) R. WARNING, Funktion und Struktur: Die Ambivalenzen des geistlichen Spiels, München 1974.
(88) Jacob von Vitry, Sermones in epistolas; Thomas von Aquin, Expositio in 1 Tim. 4. 2. この典拠と注89と注91における詳細な典拠にかんし、私はW・シュメーヤ(op, cit., p.7sq.)に負う。
(89) W. Durandus, Rationale divinorum officiorum I. 3.
[*42]アリストテレスにおける「目の優位」については、その『形而上学』の冒頭部がもっとも有名であろう。「すべての人間は、生まれつき、知ること[見ること]を欲する。その証拠としては感官知覚[感覚]への愛好があげられる。……しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれ[すなわち視覚]である。……その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最も欲われわれに物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである」(出隆訳、岩波文庫、980a)。
(90)中世の伝統はアリストテレスの論考『感覚と感覚されるものについて』から出発している。以下を参照。W.-D. LANGE, El fraile trobador, Köln 1971 (Analecta Romanica, 28), p.86.
[*43]アウグスティヌスは『告白』(X, Chap.33)のなかで、教会の唱歌や詩篇の詠唱における感覚的な美に耽溺する危険を察知しながらも、聴覚のもつ意義を次のように肯定している。「……わたしが信仰を回復して間もないころ、教会の唱歌に注いだ涙を想起し、いまでもなおそれらが澄んだ声ともっともふさわしい調子で歌われるのを聞くさい、その歌い声によってではなく、歌われる事柄そのものによって動かされるのを思うとき、私はここにふたたびこの制度の大きな効用を認めるのである。このように私は快楽の危険と健全の経験との間を動揺している。もちろん決定的な意見を述べるわけではないが、どちらかというと教会における詠唱の習慣を是認したいと思う。それは耳を楽しませることによって、精神の薄弱なものにも経験の情を起こさせるためである」(翻訳下巻, 65頁)。
(91) Bruno Carthusianus, PL CLII, 805. 「信仰は聴くことからやってくる」というアウグスティヌス的なトポスはおそらく『神の国』の第17巻16章にまで遡る。[「信仰は聴くことからやってくる」という文句そのものは『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(10-17)に出てくるが、アウグスティヌスはこの文句を用いつつ『神の国』の該当箇所で次のように述べている。「それゆえに、キリストがその身体において現存しておられた時にはご存知のなかった異邦人たちの民は、それにもかかわらず、キリストが彼らに伝えられた時、キリストを信じたのであった。それで、彼らについて、「彼らは私のことを耳にすると、私に従いました」といわれているのも正当なことであって、それというのは、「信仰は聞くことからくる」ゆえである」(『神の国』(四)、服部英次郎・藤本雄三訳、岩波文庫 1986年、322-323頁)。]