un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

アンドレア・ケルン、ルート・ゾンデレッガー(編)『誤れる対立 哲学的美学に対する同時代のさまざまな立場』(2002)目次と序論

 [Andrea Kern und Ruth Sonderegger (hrsg.), Falsche Gegensätze. Zeitgenössische Positionen zur philosophischen Ästhetik (Frankfurt a.M.:Suhrkamp 2002) の目次と序論。若手女性研究者らが真・善・美の関係規定という哲学的美学の中心問題に正面から取り組んだ重要論文集。「共通感覚」やカント、F・シュレーゲル以来の「遊動Spiel」概念に着目しながら芸術と真理・実践との関係を考えてゆこうとするあらたな論調が見出せる。]

 

 

     『誤れる対立 哲学的美学に対する同時代のさまざまな立場』

        アンドレア・ケルン、ルート・ゾンデレッガー(編)

 

                  目次

A・ケルン、R・ゾンデレッガー:序論

第一部 芸術と哲学

1.クリストフ・メンケ「真理、働き、自己反省:美学の成立とその弁証法のために」

2.イエンス・クーレンカンプ「形而上学と美学:カントを例に」

3.アンドレア・ケルン「美学的な共通感覚と哲学的な共通感覚」

4.ブリギッテ・ヒルマー「哲学の鏡としての芸術」

第二部 芸術と真理

5.アルブレヒト・ヴェルマー「音楽的芸術作品」

6.ヘント・デ・ヴリース「絶対的な誤り。モーリス・ブランショ『私の死の瞬間』における〈詩〉と〈真実〉」

7.ルート・ゾンデレッガー「いかにして芸術は(も)真理と戯れるか」

第三部 芸術と生

8.スタンリー・カヴェル「オテロと他者の挑発」

9.ビルギット・レッキ「〈技芸-形而上学〉と美的エートス。美学と倫理についてのフリードリッヒ・ニーチェ

10.マーサ・C・ヌスバウム「物語的感情:ベケットの愛の系譜学」

11.マルティン・ゼール「美学への一歩」

 

 

序論

  哲学的美学が哲学の内部で特別な身分を有しているのは、一八世紀後半に比較的遅れて基礎づけられたからだけではない。それが尋常ではない位置を占めているのは、とりわけその当初から論争があったことにも基づいており、美学は理論的領域と実践的領域において哲学の伝統的な二部門と関係しているために、哲学一般と関係している。

  その際、二つの美学理解がそれぞれ真っ向から対立している。一方の理解によると、哲学的美学の課題は――理論的哲学と実践的哲学と同様に――、その経験の自律的形式を解明することであり、美の概念を表現化するそうした経験を解明することである。この伝統のうちでの美の概念は、実践的経験が特徴づける善の概念や、理論的経験が特徴づける真の概念と同様に、還元不可能な根本概念である*1。この理解によれば、美の概念を自律的な経験形式と特徴づけることで、この経験は世界の理論的な経験と実践的な経験にとって構成的である先の真と善の概念とは何の関係もないことになる。理論的な経験にとって規定的な真の概念と、実践的な経験を導く善の概念は、美的経験にとっては何の役割も果たしていないのである。この二つの概念は美的経験によれば、むしろ美的経験の「他律化」となり*2、結局は真正な美的経験の理念を消失させてしまうことになる。したがってこの美学理解による哲学的美学は、世界の理論的な経験と実践的な経験と並ぶ関係をもつことのない経験を明らかにしようとする。芸術は真理と関わるのでもなく、善と関わるのでもない。ただ美とだけ関わるのである。われわれが美を美的に経験するものとして見るのは、われわれの世界理解にとって規定的な真や善に定位する代わりに美に定位する場合だけである。

  こうした美学理解に対して幾度も定式化されている強力な批判は、この理解が二重に周辺化されてしまっている、というものである。美的経験がわれわれの日常の世界理解と何の関係もないというイメージは、美的経験からわれわれの生に対する真摯な意義を奪っているのみならず、美学からも哲学に対する意義を奪っている。それは、こうした理解によるなら、美的経験がわれわれの生に対してもっている意義は、どのみち、日常の軽減化、気晴らし、破壊といった意義でしかあり得ないいからである*3。またまさにこうした場合、周辺的な意義しかもたない経験を解明しようとする美学が、どうして哲学のうちで重要な役割を果たすことになるのかが理解できなくなる。

 第二の美学理解によれば、理論的経験と実践的経験との間にはあるまったく別の関係が存在する。哲学的美学は、世界の日常的な経験に還元不可能な自律的な経験を記述するのではなく、むしろ美的経験はわれわれがそこで日常的に真や善を認識しようとする経験の最高の形態となる、とその根本思想は論じるのである。つまりわれわれの日常的な世界理解を構成するのとちょうど同じ概念が、美的経験にとって主導的となる。したがってわれわれはそうした経験をする際に、理論的な認識や実践的な認識とはまったく別の何かに基づいているのではない。美的経験は、これらの認識のうちでも際立った仕方で遂行されていることによって特徴づけられる。美的に経験する際のわれわれは世界を日常とは別様に経験しているのではなく、日常経験とは逆の高められた世界経験をしている。もっといえばそれは、世界がそのつど特定の関心や目的に還元されずに美的に経験するわれわれと出くわすのは、われわれが日常的に考察するような場合でなく、可能的な関心や目的が完全に充実され多様化する場合だからである。美的経験のこうした理解から導かれるのは〈美学は哲学のうちで最高の座を占める〉ということである。シェリングがさまざまな帰結において記しているように、美学は「哲学の最高のオルガノンであり証拠」なのである*4。それはこの場合、美学が反省するのは、理論的哲学と実践的哲学とが捉えようとする経験の最高形態だからである。

  この二つの美学理解の間の論争は美学の歴史の始まりから刻み込まれており、もはやこれ以上対立することはない二つの選択肢をめぐる論争である。そのうちの一つでは、美的経験は自律的な経験、すなわちわれわれの日常的な世界理解には還元不可能なものである。そこでは美的経験はわれわれの日常生活にとってせいぜい余白の意義しかもたず、哲学的美学は理論と実践という哲学の二つの伝統的な領域にとって関係のない学科となってしまう。しかしこれとは別の選択肢では、美的経験はわれわれの日常性にとって最高の意義をもつ。それはこの経験がまさにわれわれを真や善にもっとも近づける経験であるからである。だがこの場合、美的経験と日常経験との間には何の構造的差異も存在しなくなり、美学は理論的哲学と実践哲学と並ぶ第三の学科ではなく、むしろ唯一の真なる哲学となってしまう。

  本書に収録した諸論考を部門分け意図は、この二つの美学理解の間で戦わされた論争が、誤れる二者択一をめぐる論争であるという洞察に基づいている。すなわちこの論争を支えている前提を、本書の諸論考は問題ありとするのである。その前提とは〈美的経験を自律的とする理念と、この経験をわれわれの日常生活にとって意義あるものとする理念とは互いに排除し合う〉というものである。本書の著者たちは、美学の自律というそのような理解は誤解である、という考えをまとめている。彼らの共通の目的は、〈美学の自律というこの誤った理解を批判することで美的経験へのある視座を可能にし、この視座によって美的経験が習慣的、日常的経験とどう関係づけられれば自律的になるかを示す〉ということのうちにある。以下の論考で提案され議論される美的経験と非美的経験との間の中心的な関係規定は、反省の関係規定、アポリアの関係規定、遊動Spielの関係規定である。本書の共通の根本思想は〈美的経験は日常経験と異なり還元不可能なものである〉というものだが、それは、美的経験が日常経験と並ぶ関係をもたないからでも、これと関わらないからでもなく、まさに美的経験が――反省的、遊動的、アポリア的な仕方で――日常経験と関わるからである。われわれは美的経験をすることで――日常のように――世界と関わるだけでなく、〈世界を日常的に経験すること〉ともつねに関わっている。この日常経験への関わり方Bezogenseinがその形式に基づいて、美的経験を日常経験から区別する。つまり、美的経験が日常経験からそのように区別されるのは、美的経験がそもそも日常経験と関係しているからなのである。日常経験とのこのような関わり方は、同時に美的経験を哲学とも結びつける。それは、哲学においてまさにわれわれが関係するのは、美的経験において(もっぱらではないにせよ)われわれが関係するもの、すなわち世界に対するわれわれの態度だからである。

  本書の著者たちがそのテクストにおいてさまざまな方法論を用いつつ美学をこのように規定することで得られる共通の帰結は、美学をめぐる議論をこれまで導いてきたあの二者択一の彼岸にある哲学においてなされる美学の身分の新規定である。哲学的美学は、哲学内の余白的学科でもなければ、唯一の真なる哲学でもない。むしろ示されているのは、理論的哲学と実践的哲学が一方にあり美学が他方にあって、両者が相互に関係づけられる場合にのみ有意味となるということである。つまり美学はこのように規定されることで、自らがもたらすあらたな対象のぶんだけ哲学の領域を拡張する哲学的学科として基礎づけられるだけでなく(その際、哲学は理論的かつ実践的に世界と関係しつつなおも美的経験を反省する)、美学はまったく特別な対象によっても基礎づけられる。すなわち美学は、それ自体すでに哲学的な性格を有しているがだからといって哲学ではないような対象によって基礎づけられているのである。

  美的経験のそうした哲学的次元はこの場合に把握可能になり、これによって美的経験は哲学と区別されつつこれと対立しながら還元不可能なままであり続けているわけだが、このことは、美的経験とわれわれの日常における理論的かつ実践的な仕方での世界連関との関係の仕方(本書の諸論考はこれをさまざまに議論している)をどのようにそのつどさらに正確に規定するかにかかっている。とはいえ、美的経験の根本的に哲学的な次元への洞察は個々の場合での関係の仕方がどのように規定されようともそれとは独立に次のことを含意している。すなわち、理論的かつ実践的哲学の部門を同時に含まないような美学は存在しないのみならず、逆に美学によって啓蒙されなければ適切な理論的哲学も実践的哲学も存在し得ない、ということである。そしてまさに美学の対象のこうした哲学的次元こそが、美学を哲学の内部で他と並ぶ学科にするだけでなく、同時に哲学が顕著な仕方で関係するような美学にもするのである。それは、適切に理解された美学は自らの対象を反省する際に(美的経験自体が哲学的特徴を有しているために)、自らの対象と哲学との関係についてと同時に、哲学そのものについても反省せざるを得ないからである。

 

 本書は三部に区分され、芸術がとる特定の関係をそのつどテーマとしている。すなわち芸術と哲学の関係、真理との関係、倫理的生との関係である。

 本書第一部の諸論考で問題となるのは、美的経験の哲学的性格をその基底的な次元で規定することである。これに関しクリストフ・メンケは、AGバウムガルテンの美学の根本モティーフをなぞる。そのテーゼは〈美の経験が特権的な仕方でわれわれの認識の本質を哲学的に洞察させるために、美学は認識理論の訂正者として成立する〉と論ずる。美の経験を分析すれば、経験そのものが何であるかがわかる。これは美の経験それ自体が認識的な経験ではなく、本質的に自己反省的経験であるためにそう言えるのである。

 これとは逆に、イエンス・クーレンカンプによれば、美学は哲学において分裂した構成をとっている。哲学的美学の企図はカントやヘーゲルが典型的に行ない、その枠組みは事実上芸術の経験を越えた何ものかについて語ってしまっているが、こうしたものが芸術経験にとって普遍的かつ解明的な意義をもってしまっているために、クーレンカンプによれば、この哲学的美学は形而上学的認識理論や道徳哲学を前提にしなければ遂行可能にはならない。

  これとは逆にアンドレア・ケルンとブリギッテ・ヒルマーの寄稿論文は以下のことを示そうとする。すなわち、まさに古典的な美学においても美的経験の哲学的次元の基礎は、それがある規定的な形而上学的内実を持っていることにではなく、自己反省的な性格をもっていることにこそある、ということである。カント美学において美的経験の重要性は、以下の点にあるとケルンのテーゼは論じている。すなわち、〈われわれは美的経験においても世界と根底的に関係する哲学と同様に反省するのだが、それは哲学と異なり概念的分析という媒体においてではなく、遊動的な経験において反省する〉という点にカント美学における美的経験の重要性があるというのである。したがって美学的言表も哲学的言表も、範例的な妥当性をもって世界との関係の仕方をまとめるのである。これら二つの言表においてわれわれは共通感覚(この共通感覚に外れないように模範的な仕方で判断しているとわれわれは仮定している)の理念に訴える。ブリギッテ・ヒルマーが指摘するのは、カント以降、ロマン主義の伝統は美的なるもののこうした自己反省的な規定からいかなる帰結を引き出したのかである。彼女のテーゼが論ずるに、芸術はロマン主義者にとって単なる恣意的な対象などではない。彼らの哲学は芸術の構造を、理論的経験や実践的経験と同様に解明しようとするのではない。むしろ芸術と哲学との関係は複雑な鏡像関係である。芸術は哲学の際立った対象であり、芸術というこの対象のうちに哲学は自分自身を反省する。

 

 本書の第二部は芸術と真理の関係の問いに捧げられている。アルブレヒト・ヴェルマーはその論の中で作品概念の解明を試み、音楽の芸術作品という特殊な次元を超えた普遍性のうちでこの作品概念にアプローチしている。ヴェルマーが(音楽的)芸術作品の作品性格を規定するのは、[音楽作品と]非文献的なテクストとの近さと遠さを測ることによって、すなわち真理連関が解釈学的な理解対象[文献としてのテクスト]にとって構成的であるのと同じように、この真理連関と[音楽]作品との関係を測ることによってである。ヘント・デ・ヴリースとルート・ゾンデレッガーの解釈は、この設問にそのまま結びついている。両者が問題とするのは、真理連関が芸術作品にとっても構成的であるなら、芸術作品の真理連関はわれわれが日常的に真理に定位して生を遂行することとどのように関係しているのかを問うことである。ヘント・デ・ヴリースは、モーリス・ブランショの物語を読解することで、芸術の真理と真理の役割との間の関係が、われわれの非美学的な判断実践においてアポリアとして捉えられてしまっているという理念を擁護する。文学は文学の真理連関と日常の真理連関との間の区別を糧としているが、こうした区別は文学によっても同時に問題にされているのだ。ルート・ゾンデレガーは、日常的な真理連関と芸術作品の真理連関との間の関係を遊動として論じている。たしかに芸術は、われわれのいわば認識的で実践的な生活実践が定位する真理を素材として用いているが、真理と遊動することによってこれを誤用することもできる。だがまさにこのようなリスクのある遊動としてこそ、芸術は、われわれの日常的な生活実践において最終的に問題となることを確証したり、そうした文脈で真理とは一体何であるのかを問うたりすることにとって極めて重要となるのである。つまり、芸術において要となるのは、われわれの生活の有意味なことを破壊したり肯定したりする遊動なのである。

 

 本書の第三部は、芸術とわれわれとの倫理的な生との関係をめぐるものである。スタンリー・カヴェルによれば、シェークスピアの悲劇『オテロ』は、他の主体の感情や考えをわれわれがどのようにそのつど疑いなく知ることができるかについての問いを懐疑的に発露させている。カヴェルにとってこの作品が際立った仕方で具現化しているのは、他者に対するわれわれの態度の懐疑的な理解が有する悲劇の論理であり、もっといえばそれは、この作品がそうした懐疑的な理解の源泉をも同時に反省しているからである。オテロという人物に懐疑主義的疑いが現わるのは、われわれの有限性に備わる誤解の結果としてであるが、悲劇そのものの目においてもやはりわれわれの有限性の一側面である誤解の結果としてそれは現われる。オテロはデスデモナを疑うが、それはオテロが彼女の事をほとんど何も知らないからではなく、オテロが彼女の我慢ならないところを知っているからである。

 ニーチェとつなげながらビルギット・レッキが擁護するテーゼは、〈芸術の倫理的重要性は、われわれが芸術によって自らの倫理的生や、他者との関係や、自分たち自身との関係について[を越えた]何かを知るということのうちにのみあるわけではない〉というものである。むしろ芸術は、それが形作られたものであるためにわれわれの生全体を形態化してゆく際の手本となる、もしくは少なくともかつてはそうであったはずなのである。〈それは自らの生を美的かつ「適切に」理解する者に対してあらたな自由の次元が開示されるからだ〉とレッキは論じる。

  マーサ・ヌスバウムによれば、有限性という制約の下で、とりわけ道徳哲学は一人称の状況を記述することに向けられ、このことは特に道徳哲学の本質を表わしているという。有限性を真剣に受け止める哲学が用いる記述は、複雑で歴史的に多様な感情の役割を世界開示の認知的能力として説明する。ヌスバウムによれば、感情は本質的に物語的構造を有しているから、文学はわれわれが際立った仕方で感情の構造を研究することのできる場所である。そのさいヌスバウムが指摘するポイントの一つは、彼女がベケットの小説三部作の読解でこの文学理解を展開し、情念的で言語的で知覚的な巻き込まれの世界の凌駕、つまり有限性の凌駕を問題にしようとしていることである。

  マルティン・ゼールは、彼によれば無数に存在するという美学への道筋のうち特定の一つだけを宣伝するのではない。とりわけ彼のテクストは美的知覚の強力な擁護者であり、こうした知覚がなければ人間の生活形式は決定的なことを欠くことになってしまうだろう。ゼールは美的経験を現在と関連する遊動として規定しており、この遊動はわれわれが日常的に固定化している任意の対象が[美的経験のうちに]現われることによって生じる。そのことから彼は、もしわれわれが「過ぎ去る生の現在にとっての意味」を獲得しようとするなら美的経験は遡行不可能なものであると帰結する。

 

 本書への寄稿論文――これに先立ち、哲学における美学の位置に関する会議が一九九九年にベルリン自由大学で開催された――は、内容的にもそれぞれ同一のものでもなく、同時に方法論的にも多様な仕方で提示さるような仕方で選ばれている。著者たちは自らの立場を実にさまざまな仕方で獲得している。たとえば、古典的な美学をあらたに読解することによって、文学史をあらたに叙述することによって、文学テクストを読解することによって、同時代の美学と議論することによって、もしくは特定の芸術形式の概念分析的考察によって、といった具合にである。本書の重大な関心事がこれらのやり方で明からにするのは、美学をめぐる同時代の議論の内部にある方法論の多様性を越えたところには或る強力な共通見解が存在するということであり、その共通見解とは〈芸術はわれわれの生のあらゆる領域と、つまり倫理的な認識と同様に理論的な認識とも関係している〉というものである。それゆえ哲学的美学もまた本質的に対象とのこうした関係をもたねばならないことになる。

 



*1美と善の概念は、これ以降、極めて広く捉えられた形式的な意味で、特定の経験領域を判断する次元と関係づけられる規範的な概念と理解される。そうすると善というキーワードでは、権利の問題と同様に正しい生の問いを判断することが問題となる。美というキーワードでは、自然美や芸術美がこれと同様に問題となるが、もっといえば調和美学の仮決定がここでの美の概念とまったく結びつけられないという形式的な意味においてそうなのである。

*2 R.Bubner, “Über einige Bedingungen gegenwärtiger Ästhetik”, in: Neue Hefte für Philosophie, Hefte 5(1973), S.38-73. [ブプナー『美的経験』法政大学出版、2009 31]

*3およそオドー・マルクヴァルトが「補償」(Kompensation)という概念で美的経験のそうした周辺化を批判する一方で、テオドール・Wアドルノはこれを徹底的に批判している。Vgl. O. Marquard, ”Kompensation. Überlegungen zu einer Verlaufsfigur geschichtlicher Prozesse”, in: K-G.Faber/Chr. Meier(hg), Historische Prozesse, München, 1978, 同様に”Kunst als Kompensation ihres Endes”, in: W.Oelmüller(hg), Kolequium Kunst und Philosophie, Bd.1, Paderborn, 1981. Th.W.Adorno, Ästhetische Theorie Frankfurt am Main, 1973(1.Aufl. 1970), とりわけ「芸術、社会、美学」と「社会」の節を参照。同様に”Rede über Lyrik und Gesellschaft”, in: ders, Noten zur Literatur, Frankfurt am Main, 1981(1. Aufl. 1974), S.48-68.

*4 F.W.J.Schelling, System des transzendentalen Idealisums, in: ders, Schriften von 1799-1801, Darmstadt, 1975, S.627.

 

 

                 [出版社の紹介文]

 美学は独自の哲学上の学科として自らを基礎づけて以来、一貫してある対立に刻印されて いる。それは美学は理論哲学と実践哲学とどのような関係にあるのかという問いをめぐる論争である。本書の集められた諸論考はさまざまな仕方で共通の根本思想を追求するのだが、そうすることで理論・実践哲学と哲学的美学とはそれぞれ相互に有意味な仕方で関連づけられる。というのは、美的経験が他と並ぶ比較的広範な哲学対象の一つなどではないからである。むしろ美的経験はそれ自体、哲学に還元されることのない哲学的次元を有している。

  アンドレア・ケルンはポツダム大学の哲学研究所で研究助手。彼女はズーアカンプ社から『美しき快 カント以降の美的経験の理論』(2000)を公刊している。

  ルート・ゾンデレッガーはアムステルダム大学の哲学研究所で助教授。彼女はズーアカンプ社から『遊動の美学のために 解釈学、脱構築、芸術の固有意味(2000)を公刊している。