un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

マックス・イムダール「美的経験についての芸術史的注記」(1972)

[Max Imdahl, »Kunstgeschichtliche Bemerkungen zur ästhetischen Erfahrung«, in: Gottfried Boehm hrsg., Max Imdahl Gesammelte Schriften Bd.3 Reflexion, Theorie, Methode (Frankfurt a.M.:Suhrkamp 1996) の試訳。節の番号づけと見出しは訳者による。]

 

 

 

        美的経験についての芸術史的注記

 マックス・イムダール

 

 

[1.一九世紀後半以降の表示的視覚からの解放]

  造形芸術における美的経験のさまざまな様態を区別しようとするハンス・ローベルト・ヤウスの提案は、芸術学の理論にとって実りあるものであることがわかる。この提案に続くここでの詳述は、まず「受容的な美的経験」の諸様態と「産出的な美的経験」の二様態を取り上げ、さらに一九世紀後半の芸術史にとってとりわけ重要だった、世界を脱概念化しようとする傾向をふりかえる。この傾向によれば、「意味による認識」をあらためて正当化することで生じる概念的認識の優位は問いに付され突破されねばならないという。

  世界を脱概念化しようとする傾向は、慣習化された表示的視覚denotatives Sehenから解放しようとする傾向をも含んでいる。一九世紀の芸術理論においてこの傾向はたとえばジョン・ラスキン[1819-1900, イギリス・ヴィクトリア朝時代の評論家]ジュール・ラフォルグ[1880-87, フランス象徴主義の詩人]コンラート・フィードラー[1841-95]において基礎づけられている。一九世紀の中頃、ラスキンはすでに次のようなテーゼを主張していた。

 

   絵画の技巧的な力全体は、眼の無垢さと呼ばれるようなものをわれわれが復活できるかにかっている。それはつまり、[キャンバス上の]色の平坦なシミを子供のように知覚するたぐいのことであり、それらのシミが何を指しているのか意識することなく知覚すること、いいかえれば突如視力が戻った盲人がそれらを見るような仕方で知覚することである(1)

 

表示的視覚から解放しようとする傾向の一般的な共通点は、造形芸術はただ眼にだけ由来せねばならず、独立してそれ自体だけで作用すべきものを思考に対してではなく視覚に対して決定する(ラフォルグ)(2)ということである。慣習化された表示的視覚から解放しようとする絵画の傾向が二〇世紀初めにおいてどのくらい一般に意識されていたかは、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の以下の文章に明確に示されている。プルーストはその中で当代の傑出した画家であったエルスティールの絵画を評価しながらこう述べていた。

 

   けれども私がそこ[エルスティールのアトリエにある海の絵]に認めることができたのは、一つ一つの絵が描かれたものの一種のメタモルフォーズの中にその魅力を持っており、そのメタモルフォーズは詩において隠喩(メタフォール)と呼ばれるものに似ていることだった。さらに父なる神が物に名前を与えなながらこれを創造したとすれば、エルスティールは物の名前を取り去り、あるいは別の名前を与えることによって、これを再創造しているということを私は認めたのだった。物を指し示す名前は、われわれの真の印象とは無縁な知性の一概念にかならず対応していて、知性はわれわれにこの概念と関係のない一切のものをそうした印象から排除させてしまうのである(3)

 

[一方]バルザックの英雄的画家フレンホーファー[バルザック『知られざる傑作』の主人公]は、スフマート[描写対象の境界を曇ったようにぼかして描く技法]と立体性をどう取り入れるかの問題にまだ囚われていたのだった。

  すでにラフォルグの印象派理論が、表示的視覚から解放しようとする傾向を視覚の生得的な受容メカニズムの絶対化と同一視するのに対し、フィードラーは(ゴットフリート・ベーム[1942-ドイツの芸術史家・哲学者]によって比較的最近ようやく驚くべきほど明解に示されたように)(4)、芸術家の意識を活性化させる純粋に視覚的な形態で、自分自身において有意味となり基本的に非模倣的な創造としての形態の構成を反省している。独立して認識を伝達する視力の活動を芸術の「本来の意味での現われ」をきっかけにして要求することはフィードラーの理論の根本であり、もっと言えば彼はすでにその処女作『造形芸術作品の評価について』(1876)においてこの要求を掲げている。フィードラーは「概念を獲得するための手段としての直観」を鋭く批判していて、〈直観はあらゆる(概念的な)抽象から独立した意義を有しており、抽象的な思考能力と同じくらい直観能力は規則化され自覚化されたその使用を発展させる権利を有し、人間は世界に対する精神的支配を概念においてのみならず直観においても獲得することができる〉ことをむしろ要求している。非具象的な現代芸術に対するフィードラーの理論の範例的な意味づけに対ししばしば正当な仕方で指摘されるのは、「芸術の中身はそれ自体の形態化に他ならない」(5)という見解である。

  ヴァレリーはその対話篇『エウパリノスと建築家』(1924)において、「そのままsans intermédiaires」われわれに関係する創造物としての芸術作品のこうした非模倣的で絶対的な質を、建築と音楽の制作に対し優先的に要求した。

 

[ソクラテスの発言:]というのは、他の芸術や詩が借りてくる可視的な物体、花や木や生物(不死の神々でさえ)は、芸術家によって作品化される場合、依然としてあるがままのものであり、自分の意志を表現するためそれらを使う人の意図の中に、それらの本性、固有の意味を交えずにはおかないからだ。たとえば絵の一箇所を緑色にしたいと思う画家は、そこに一本の木を配する。彼はそのことによって、本来彼が言おうとしたこと以上の何ごとかを言うのだ。彼は木の観念から派生するあらゆる観念を作品につけ加え、十分というところで打ち切るわけにゆかない。彼は色彩を何かの存在と切り離すことができないのだ(6)

 

ヴァレリーのこの文章は、具象絵画の内部でただ傾向としてのみ可能である表示的視覚からの解放を言い表している。フィードラーもこれと同様の仕方で、芸術的な(純粋視覚的に正統な)内容と素材的な(表示可能な)内容との不可避的な複合性として生じる具象絵画の「二義性」を指摘していた(7)。同じようにカンディンスキーの理論によると、非具象的な現代芸術に対立する伝統的な造形芸術は、「純粋芸術的なもの」という構成要素と「具象的なもの」という構成要素とを自らのうちで統合しながら保持していて、そのさいカンディンスキーは非具象絵画によって得られる両者の分裂に「大いなる抽象物」および「大いなる実在物」のイメージを結びつけている(8)。非具象絵画の登場によって、表示的視覚から解放しようとする傾向はようやく表示に拘束されない視覚へと移行することができ、これによって造形に内在する問題系を白日の下に晒すことができる。もちろんヴァレリーの『エウパリノス』は非具象絵画(当時すでに存在していたが)を反省してはいない。

 

 

[2.デッサンのマレースと色彩のセザンヌ ~二つの表示超出的視覚~]

  それゆえ非具象絵画によってはじめて完全に表示に拘束されない視覚が可能になり、一九世紀後半のまだ具象的な絵画に備わる表示的視覚へのあの傾向は〈表示超出的な視覚〉になることができる。ここで言い表されている〈表示を超出してゆく〉ことは、絵画の現象性が表示化可能な現象性としての所与の自然に結びつけられたままであることを含んでいる。一九世紀の絵画において表示超出的な視覚が可能になった最初の原因は歴史画の断念であり、その歴史画は描かれたものの理解のための先行的な指示の枠組として或る特定の(超視覚的な)行為の文脈を前提にしている。一九世紀後半の表示を超えてゆく視覚に到達したもっとも重要な代表者はハンス・フォン・マレース[1837-87 ドイツ人画家。フィードラーの支援を受けた]セザンヌ[1839-1906]である。それはマレースがデッサンを、対してセザンヌが(フランスで支配的だった印象派の運動の枠組において)色彩を描写に優れた媒体として使用しているからである。デッサンと色彩という媒体の原理的相違が芸術理論によってふたたび定義されたのは、〈「合理的」なデッサンがその外部に存立し既存のものとして承認されている何かを投影するのに対し、「感性的」な色彩はそれだけで描写する〉という意味においてである。たとえば一七世紀においてアンリ・テストラン[1616-1695 ルイ十四世の肖像画で有名なフランスの宮廷画家]は次のように区別していた。

 

   考えさせられたのは、タブローの構図に含まれている色彩は、自らのうちに固有の色彩を保持しているタブローの題材によってのみ配色や色調を生み出すことができるのであって、緑色で赤を塗ったり、黄色で青を塗ったりすることはできないということだ。またこのように色彩は主題にがっちり依存しているので、精神にのみ属するデッサンほど高貴に輝くことはない(9)

 

一九世紀にフリードリッヒ・テオドール・フィシャー[1807-87 ドイツの文学研究者]は、「彫刻がその形態を変えて絵画のうちにふたたび現われる」ための手段を「輪郭Contur」としてのデッサンのうちにみる一方、これに対して色彩はたんなる事物の仮象を平面の上に置く描写手法を可能にするとみていた。そのさいフィシャーは触覚的視覚の様態をデッサンに分類するのに対し、本来的視覚の様態を色彩に分類している(10)。このようにデッサンと色彩が原理的に分化していけばいくほど、一九世紀後半の絵画の状況にとっていっそう重要になったのは、表示超出的な視覚的連関の暴露が絵画によって色彩の媒体においてのみならず、デッサンの媒体においても目指されていたことである。

  とはいえ、デッサンと色彩というさきに示唆された媒体の原理的相違は保持されたままである。それはこの相違が、絵画において視覚されるべきものである〈表示超出的な視覚上の証拠〉のさまざまな様態において現われるからである。[このことは]すでにここで述べたような意味で先取りするようにして試みに体系化されている。マレースはデッサンから始めることで、すでにある現象的な自然が [事物を]そのまま投影することができる表示化された連関であると前提し、表示超出的な視覚的連関に利する仕方でその投影を修正する。とはいえ表示を超えてゆく連関自体は、表示化された自然の連関との関連において明白になるにすぎず、この表示化された連関に依存している。マレースによって具象化された表示超出的な視覚的連関は、いわゆる表示の後に生じる自然の視覚性nachdenotative Optizität der Naturに対応しており、いいかえるならこの視覚的連関は自然の表示化によって制約されていて、この表示化に不可避的に引き戻されることでもともと自分自身のうちで基礎づけられているのではなく、二次的に基礎づけられている。これに対しセザンヌは色彩から始めることで、すでにある現象的な自然がそのまま直に投影可能ですでに表示化された連関であることをはじめから疑問視し、同時にそれによって、二次的なかたちで基礎づけられた表示超出的な連関の可能性を原理的に排除する。むしろセザンヌは自然をはじめから(形とは無関係の)色彩模様という表示以前の現象性に還元し、さらにこうした還元によって、表示以前の自然現出のデータとしての色彩模様から、自らのうちで基礎づけられた連関、つまりもはや表示によって制限されない連関を構築する可能性が開かれる。まさにこうした連関こそが、自らのうちで基礎づけられた表示超出的な視覚的連関として自然それ自体の連関を呈示できるのである。

  カール・フォン・ピドル(マレースの弟子の一人)の発言によれば、既存の表示化された自然から始めるマレースの絵画は個別の修正の問題に集中している、すなわち「この位置において、この光において、普遍的で典型的で視覚的な(人物の)かたちはいかに眼前に」表出するかという問いに集中している。さらにマレースは(アドルフ・フォン・ヒルデブラント[1847-1921, ドイツの彫刻家]の対概念を援用して)、人物の(投影可能な)「現実存在形式Daseinsform」と「作用形式Wirkungsform」とを区別している。つまりマレースにとって重要だったのは古典的なディセーニョ[デッサン]であって、それゆえ現実存在の状態での人物の自己同一性ではなく、人目を引く現出の状態[作用形式での]での人物の自己同一性が重要だったのである。マレースは、「あらゆる視覚の根本条件」(H・コンネルト)(11)である「眼に適した状況」を創造する点に自分の芸術の意味があることを知っていた。そのさい不可避であるのみならず、まさに意図されていたのは、表示超出的な人物の強められた際立ちとしての作用形式がその現実存在形式を変化・変形させるということである。作用形式を構成することで初めて可能になる現実存在形式のこうした変形は、たとえばとくに重要とみなされる人物の関節位置をとりわけ明確にせよというマレースの要求から生じてくる。つまり脇を広くすればするほどそのぶん各々の隅がよりはっきりと表現されるといったように、マレースにおいても人物とその手足は引き伸ばされ、その曲がりが人目につくようにされる。調整された視覚性に基づくこれと同じ要求に対応するのは、(並置や対置といった)形式上の比較参照によるマレース的人物像の位置と身振りである。実際それどころか人物の集合は(これはフィードラーが指摘したことだが)(12)、その集合が古典的な場面であることを口実にして、すなわち明らかにアクチュアルでなく、もっと言えばアクションを欠いているかもしくは乏しい場面であることを口実にして成立しているために、表示超出的な構成や表現の機能でしかない。くわえて、[マレースの人物集合には]さまざまな絵から取られた同じように振舞う人物たちが見られ、(ちょうどこの最後の観点に関係することだが)[これと似たようなこととして]ここでの文脈に合わせるならキュビスム以前の時代から一九六〇年くらいのピカソのいわゆる「模造集団」(そこではマレースと同様にモティーフに関して似たような人物がさまざまなアスペクトのうちに統合されている)について人は考えたくなるかもしれない。決定的なことは、人物たちが相互に自らを説明しているということである。

  ジョアシャン・ガスケ[1839-1907, セザンヌと親交があり彼の評伝を記した詩人]によって伝えられた芸術家の自己表現を引用しながら以下で述べられることになる(13)セザンヌの絵画は、純粋に「彩りある感覚sensations colorants」を提示する表示化以前の自然の視覚性から始めている。「われわれの眼の前にあるのはqui sont là sous les yeux」ただ「面plans」もしくは「模様taches」だけにすぎないが、表示以前の視覚的アスペクトのもとで現われるものすべてもまたばらばらで混沌としている。「われわれが目にするものはすべて、散乱し消え去ってしまうのではないかTout ce que nous voyons, n’est-ce pas, se disperse, s’en va.」。セザンヌにとって自分の絵画の問題点は、自然の表示以前の視覚的知覚とともに現われる「面」もしくは「模様」の散乱構造を統合の構造にもたらすという点にあったのだが、もっと言えば統合を要求することでセザンヌの絵画にとっての「面」もしくは「模様」は、操作性の指標を備えた構成要素という意味でその手法に適したものである。「面」もしくは「模様」を初めから規定しているのは、表示以前にある自然現出のデータとしての「面」と「模様」を用いつつ、またそうしたデータに接しながら、自らに基づく連関、つまりおのずと明らかで絵画領域の全体をまんべんなく生き生きとさせる連関を築くという可能性である。この連関は自然そのものの連関を自らに基づきながら表示超出的な客体連関として呈示する。

    

私は右に左に、ここ、そこ、あらゆるところで、自然のトーン、その色彩、そのニュアンスを受け取り、それらを定着させ、それらを近づける。それらは線をなす。私が心配せずとも、それらは対象となり、岩々となり、木々となる。

 

逆にもし「面」ないし「模様」がその連関を構築し損なうなら、それらはあの表示以前の自然現出というカオスをただ映し出すにすぎず、それが取るに足らないものであること明らかにするにすぎない。「もし私があまりにも高いところに[筆を]動かすか、あまりにも低いところに[筆を]動かすなら、すべてはダメになってしまうSi je passe trop haut ou trop bas, tout est flambé.」。セザンヌの絵画を見れば、連関形成的な手法としての彩りの能力性格について語ることができよう。自然肯定主義の代りに登場する自然像は、もはや表示された自然から従来どおりに出発して、これを絶えず修正するような模倣的なものではなく、むしろ表示以前の視覚的所与としての自然を、自然そのものによって可能となる自律的で自らに基づいた絵画的操作のアスペクトの下でイメージする。それゆえセザンヌの絵画はマレースの絵画以上に強くフィードラーの理論に引きつけられ、またマレースの絵画以上にユルゲン・ミッテルシュトラス[1936- 科学哲学が専門]によって言い表された「ポイエーシス能力」に対応している。ちなみにこの能力についてフィードラーの理論はすでに次のように反省していた。

 

   もっとも高尚な意味での芸術において能力とは知以外の何ものでもなく、たしかにこの知は能力によってはっきり示すことができるが、知と能力とが〈能力として現われないところでは非知と呼ばれるのがふさわしい〉といった具合に区別されることはほとんどない。知が問題となっているようなところで、多くの人(それが芸術家であろうと)が自分は能力に恵まれていないと考えている間は、このことはほとんど認知されない。能力においてまさに知が姿を現わすとき、また知がおよそ能力によって表現されるのではなく能力の段階まで高められるとき、はじめて本来の意味での芸術を議論することができる(14)

 

 セザンヌの絵画は、視覚的操作を行い表示超出的な連関形成としてフィードラーの理論に接近するのみならず、ヴァレリーの建築的なものないし音楽的なもの(それら自体が表示から自由なものとして、またそれゆえに制約されることのない内在的な連関形成として理解され得る限り)の定義にも接近する。ヴァレリーの『エウパリノスもしくは建築家』は、「認識connaître」と「構築construire」との間の主題的区別においてこのことを了解させるあらゆるきっかけを与えている。もっと言えば、ヴァレリーによるなら認識とは創造されたものとしての建築の条件であり、創造の理念とその現実化は一致している。

  

   あれほど整然と整ったもの[エウパリノスによって建築中の神殿]を知ることが、私の魂にとってどんな喜びであったことか、ソクラテスよ、あなたには信じられますまい。私はもう神殿の理念と神殿建立の理念とを区別することができません。神殿を見ると、私は同時に一つのみごとな行為を…見ます(15)

 

それゆえセザンヌに戻って、ヴァレリーが述べたことを絵画に移してみるなら、この内在的な権限だけが決定的である。絵画外の既存の対象をたんに粗描したにすぎないものの気品とは逆に、(無骨な塊という意味かもしくは水平と垂直の際立ちという意味で)「建築的」にしっかり建てられたものの気品は、ヴァレリーが建築的なものないし音楽的なものを理解するアスペクトを的確に捉えていない。セザンヌの絵画における建築的なものは、建築の際立ったところに対する模倣的関係において考えられているのでなく、また自然そのものに対する模倣的関係において考えられているのでもなく、それはむしろ、表示化しようとするあらゆる動機を断念したそのつどの絵画的な操作の呈示や首尾一貫性のうちに存する。セザンヌの絵画はまさにこうした表示への非-動機においても印象派の絵画から区別される。H・ゼドルマイヤー[1896-1984, オーストリアの芸術史家]が正当に指摘したことだが(16)印象派の絵画は、カラリズム[色彩効果を主要目標とする絵画の方向]的な直接性をどのように主題化する場合でも、画面構成にとっての指示連関の枠組であるところの、表示化された連関を遠近法的・投射図法的に表現するという模倣的な原則にひたすら固執し、また印象派の絵画にとってカラリズムはとりわけ(この連関の枠組みの内部で)暫定的な光の具合との等価物であった。これに対して、表示以前の要素から発展した体系であるセザンヌの絵画は自分以外の法則に従わず表示化によってもはや制限されない明証性を有していることで、キュビスムの直接的な前段階を表している。有名なことだがキュビスムの理論それ自体は、自分以外の法則に従わない絵画構造とその明証性を現代絵画のもっとも重要な成果とみなし、これをリリシズムという概念で言い表した。

 

 

[.自然概念の転換 ~同一モティーフを扱う可能性~]

  ハンス・ローベルト・ヤウスはヴァレリーの公理について指摘したが、第一に彼は詩人と思索者という擬人化された自然概念の否定の必然性を指摘し、第二に視覚的認識にとっての適切な所在は完全に任意の視角(「存在するものの任意の片隅 un coin quelconque de ce qui est」)でなければならないという要求を指摘し、第三に美を構成する際の有限性ないし暫定性という基本テーゼを指摘した。相互補完の関係にあることが容易に理解される、第一の公理の詩人と思索者は一九世紀後半のフランス絵画に対応していて、以前から承知されていた人間中心主義的な自然経験(こうした自然経験はロマン主義まで内的な声と外的世界との合致として主題化されていた)との断絶を意味している。そのさい基本的に排除できないのは、絵画において擬人化された自然概念も自然の見方の任意性も(すでに一八三〇年代になされた)写真の発明が要求したものであるということである。ヘルマン・ベーンケン[1891-1933, ドイツの農業経営者・政治家]の言葉を借りるなら、写真は「少なくとも細部に対していかなる選り好みもしなかった」(17)。テオドール・デュレ[1838-1927, フランスの評論家]の言葉によればモネは「実在するものはすべて美しく、すべてが描かれるべきだque tout ce qui existe est beau, que tout est à peindre(18)という考えを抱いていた。これによって言い表されているモティーフに対する無差別は擬人化された自然概念を否定し、また世界の一面に向ける視角の任意性をも意味しており、ますます表示を超出し自らに基づく視覚の連関形成であるべき〈表示以前の自然の視覚性〉に関するセザンヌの反省が、ロマン主義の人間中心主義的な自然概念からさらに大きくズレていることは明白である。

  しかし模範的な自然をこのように解体することによって、同一のモティーフを何度も取り扱う可能性も生じてくる。この可能性については、美の有限性に関するヴァレリーのテーゼがおそらくもっとも明解に論じている。(彼自身の言葉によれば)セザンヌにとって同一のモティーフは、さまざまな視線方向から見られながら、多大な関心を寄せる研究対象を産み出した。もっと言えばどれほど変化に富んでいようと、画家は自分の視線を右に左に動かしながら何ヶ月もの間、同一のモティーフに関わっていくことができるだろうと信じている(19)。こうしたことに対応して、同一モティーフを何度も取り扱うことは、最終的な表現に一歩一歩近づくこととしてまったく説明されなくなる。むしろ明らかになるのは、鑑賞者の方が最終的なものをどれだけ知覚しようと思っても、傑出した芸術家は際限のない課題に対する一つのありうべき解決としてのみ芸術作品を理解しているということである。しかしそのつど個々の絵画の絵画的連関形成そのものはけっして暫定的で有限なものではなく、むしろそのように暫定的で有限なのは、表示以前の自然の現象性一般を見ることでイメージできる複数の絵画的連関形成を考える場合だけであり、[それは]そうした複数ある連関形成からすると、成功していて内在的にわかりやすい自分以外の連関形成の方がより成功し得る[からである]。芸術作品が自分固有の本来的な意味実現として、作品自体のために定立され作品自体を構成している規則をきちんと遵守すべき場合には、一回きりの範例的な解決など存在しない。それにもかかわらず一九世紀後半のフランス絵画では、同一の対象を何度も取り扱うことはさまざまな仕方でなされている。たとえば、モネはルーアンの大聖堂や干草の山をさまざまな日時やさまざまな光の条件で描いており、もっと言うとここではさまざまな光条件の状態が、さまざまな状況を通じて対象の同一性を相対化することとしてと同様に、そのつど同質の現出としても主題化されている。これに対してセザンヌの絵画『サント・ヴィクトワール山』は、唯一の汲み尽しえぬきっかけとして多様で、自分自身を相対化する絵画的体系構築を示している。モネは多様に変化する現象性として自然を反省する一方、セザンヌは自律的な構成のための多様に変化する可能性として絵画を反省している。

 

 

[4.三次元的なものの負担を軽減させるマレースの絵画と、事物生成のプロセスを鑑賞者に追体験させるセザンヌの絵画]

  デッサンと色彩というカテゴリーのもとで区別されるマレースとセザンヌの絵画構造は(すでに上で示唆した通り)、視覚されるべきものの表示超出的な視覚的明証性のさまざまな様態との関係で相違が生まれるだけでなく、鑑賞者の視覚が多様な度合いで働かせる絵画受容のさまざまな様態との関係でも相違が生まれてくる。直線的に構造化され、既存の表示化作用による投影を修正し理想化してゆく現象であるマレースの絵画は、休みながら受動的に、つまり自覚することなく参加している鑑賞者の観察に対して開かれ得る。すでに鑑賞者の眼前にあるのは、それ自体表示化されているとはいえ、その視覚的明証性のより高次の段階において変形されている自然の連関である。アドルフ・フォン・ヒルデブラントにしたがえば、マレースの直線的に理想化された様式の「直接的な心地よさ」は、二次元的な関係に定位する「顔のイメージ」を形成することのうちにあり、この「顔のイメージ」は「自然の印象の三次元的なものないし立体的なものに対する際の不快な状態」から鑑賞者を解放し、そうすることで「立体的なものから苦痛となるもの」を取り出す(20)。その限りマレースの様式は、後にハインリッヒ・ヴルフリン[1864-1945, スイスの芸術理論家]によって定義された「レリーフ解釈」やこれによって「保証された観察可能性」に対応していて、この「観察可能性」は「あらゆる配列可能性の中でも、平面での配列はもっとも容易に解釈可能なもの」(21)であるために成立するものである。マレースにとって表示超出的な現象性とは、表示化されたものとして前提されそれゆえその連関構造においてすでに知られた、二次元的な作用形式における三次元的な現実存在形式を表示以後的ものとして修正すること以外の何ものでもない。つまり[マレースにおいて]表示超出的な視覚を主題化することは、三次元的なものの負担を軽減する視覚の脱複雑化と同一視されている。

  マレースの絵画のときと同様、セザンヌの絵画にとっても表示超出的な現象性は二次元的なものであるが、色彩的で、表示以前のデータを処理する操作的構造としてのセザンヌの絵画は、鑑賞者が意識的に際立ってくる能動的な観察様式を奨励する。ここでは鑑賞者は、〈絵画のうちでうまく完成している操作的で、表示以前の視覚可能価値(「面」ないし「模様」)に支えられ、自らに基づく絵画的な連関形成〉を再生産できる状態にあり、同様に、そこから生じる表示超出的な自然の連関という意味での事物生成を自らの意識そのものにおいて操作的なプロセスとして再生産できる状態にある。セザンヌの絵画がその構成の条件として「面」ないし「模様」の最終的な設定という[鑑賞者との]共同作業をどの程度開示するかに応じて、そうした設定を能動的に追体験することが絵画の受容のうちに入り込んでくる。逆に受容の能動性に関わってこないのは、鑑賞者がそのイメージにおいて「面」ないし「模様」の体系化から生じる事物生成を、絵画において現実化される程度を超えてふたたび慣習的な事物現出(そうした事物現出には慣習化された表示的視覚が対応することになってしまう)の方へと発展させることである。この前者の意味[鑑賞者が事物生成を追体験するという意味]でゼドルマイヤーのテーゼは理解されるのであって、それによればセザンヌの絵画において事物は、彩られた織物の背後にありながらその絵画より成立するべくいわば待機している(22)

  

 

[5.絵画史からのヤウス「同一化」論の例証]

  これまでの考察が示していたのは、〈世界の脱概念化をはっきりと意図し、それによって「眼によって、眼のために」表示超出的な現出がうまくいくような仕方で視覚の脱慣習化を意図する芸術の内部では、絵画の受容的な美的経験と産出的な美的経験の様態にしたがって区分けが可能である〉ということであったはずである。そのさい受容的な美的経験に対応するのがマレースの絵画の様態であり、産出的な美的経験に対応するのはセザンヌの絵画である。アイステーシスとポイエーシスとを美的経験そのものの様態と理解するなら、美的経験のこうした多様な様態はハンス・ローベルト・ヤウスと共にアイステーシスとポイエーシスと特徴づけられよう。もし受容的・産出的な美的経験に関するわれわれの芸術史的注記が一九世紀後半の表示超出的な絵画を見るさいに比較的詳細なものになっているとすれば、それは〈「自覚され規則化された使用を直観可能にする能力の形成」(23)の場合と同様、表示超出的な視覚情報を提案することにおいてもほとんど独占的に絵画に組み入れられ、絵画を自律的な類として示す課題が知られる〉ということがこの注記によって根拠づけられるかもしれないからである。表示超出的でますます表示解放的(対象欠如的)な絵画の領域においては、「詩は絵画のようにUt pictura poiesis[ホラティウス『詩論』の361行目にある有名な句]というテーゼが思考可能になってくる。これに対してH・R・ヤウスによってさらに体系化された多様な同一化の型[*]の究明は、あきらかに絵画を表示超出的ないし表示解放的な構造としてではなく、むしろ無条件に表示的な構造として前提にしてしまっている。くわえて言うなら、とりわけ絵画を契機としたカタルシス的経験への問いは、カタルシスが言語優先的でも視覚優先的でもなく、おそらくは言語・視覚両方に媒介された出来事のカテゴリーであるために、言語芸術と造形芸術との機能的類似性という原理的可能性への問いに接続されている。

  絵画が規範形成的で同一性形成的な経験を伝達するようになるところでは、絵画はとりわけ出来事形象のかたちで登場し、またキリスト教的な物語絵画が問題となる場合には、図像外ですでに起こった出来事はいつもすでに物語られた出来事であり、この意味で歴史Geschichteである。図像外の指示の枠組としての物語られた出来事に直面するとき、キリスト教的な物語絵画がそれとわかるのは、物語られたものと絵画において示されているものとの関係によってであり、そこでは示されているものが解釈という意味での視覚的なものへの変形によって物語られたものを分節化する。もちろん示されているものが物語られたものを不可避的に制限するなどということは問題になりえない。キリスト教的な図像学が比較的安定した指示の枠組を提起してくれているので、キリスト教的な物語絵画は、絵画化する際の解釈の作用空間がどの程度の広さかを明解に示すことができよう。ここでこうしたさまざまな解釈可能性を歴史的・現象論的に根拠づけながらわかりやすく区分することはできない。しかし問題を前もって考慮するにあたり以下のような問いが原則的に立てられる。それは、そのつど意図された受容能力に関する問いと、(受苦のように)もともと規範形成的な体験をさせるように物語られた歴史が絵画のうちで示されているものによって規範追従的ないし規範破壊的な解釈として理解されるかどうか、また理解されるならどの程度か、さらに言えばそうした歴史がイミターツィオ(模倣)ないしアエミュラーツィオ(追従)の方へとどの程度受容されることができるか、というような問いである。たとえば(九世紀以来の西洋芸術における)十字架上の死せるキリストの表現における様式性に目を向けるなら、ケルン大聖堂におけるゲロ大司教の十字架(970年ごろ)[アルプス以北では最古の十字架像]がもたらしたのは、イエスの身体が極度にぐったりして身体的に崩れ落ちそうになっている様子を表現することによって、死せる磔像の図像学における規範破壊的で進歩的な地平交代を表わし、信仰心の歴史における切れ目を推測させる解釈の革新であった。

  さきに挙げられた[ヤウスの]美的同一化の型について言えば、連想的な同一化は集団的、儀礼的、演技的な行為の現実実行を前提としている。それゆえ本来の意味での造形芸術にとって連想的同一化は適切ではないが、おそらく建築には(それが集団的な行為遂行の枠組みを用意する限りで)適切であろう。このようにヘーゲルは建築(ないし神殿)と共同体との構造的連関を主張し、それによって建築と彫刻をと互いに区別したのだった(24)。これに対して、称賛的同一化、アイロニー的同一化、共感的同一化という細分化がふたたび造形芸術と関係してくることは、アリストテレスからの引用箇所(『詩学1448a)でわかる。その引用箇所によれば、「ポリュグノートスはより素晴らしい人間を、パウソーンはより劣った人間を、ディオニシオスは私たちに似た人間を描いた」という。ざっと例示してみるなら、一九世紀においてとりわけオノレ・ドーミエ[1808-79, フランスの風刺版画家]がイロニー的同一化の可能性を意図しているのに対し、芸術史にとって比較的重要な称賛的同一化と共感的同一化との区別は、一七世紀のフランドル絵画とオランダ絵画によって、もっと言えば(ローベルト・ケイッセリッツと共に)(25)そのアレゴリーの主題によってまさに具体的に証明される。一方でケイッセリッツは「アレゴリー的構図」について語っているが、これは人文主義的な絵画財産を狭く熟知していることを前提し、バロック時代にのみカトリック諸国においてその栄華を迎えたものである。アレゴリー的構図の膨大な作品群は、天上の権力と地上の諸侯たちの対面を維持し賛美するものとして教会や城の壁面や天井を埋め尽くす。その目的は、称賛的同一化のうちにある鑑賞者を、天上的なものと地上的なものとが創造主と被造物の名声へと統合されている領域へと高めてやることである。アレゴリー的構図はつねに神格化された性格を担っており、その根本特徴は「上方へ」(上へsursum)であり、地上的な重さから離脱することである。これに対して一七世紀のオランダ絵画は市民の風俗場面の装いをとったアレゴリーの類型を生み出し、その類型は神格化的な対面の維持ではなく(カルヴァン派の教説にある教えの意味に添って)人倫的で道徳的な教訓に定位しており、共感的同一化を可能にする。ケイッセリッツによれば、(風俗画の装いをとった)オランダのアレゴリーは観察と省察に向けて定められている。風俗画という装いをまとうことは「下方へ」であり、アレゴリーが日常生活の現実的写像のうちに入り込んでゆくことである。風俗画の鑑賞者は自分自身の世界を知ることで、風俗画のうちで伝えられる道徳的教説を自分自身の生のために受け取ることができる。

  これまで持ち出してきた同一性構造にもう一つの同一化構造がつけ加わる。それは、鑑賞者がその他の(表現されたものか、連想的同一化の場合のように共演的な)自己同一性に同一化するのではなく、「心情の解放」を超えて自分自身の自己同一性との[あらたな]同一化にいたるときに特別な意味でカタルシス的と呼びうる同一化構造である。そうした自分自身の自己同一性との[あらたな]同一化は、それがあらゆる慣習的な機構から自己を解放しそれによって自分自身の原則(シラー)に思い至る限り、崇高なものの体験において開かれる(26)。最近のところではアメリカの絵画が、ジャクソン・ポロック[1912-56]、バーネット・ニューマン[1905-70]マーク・ロスコ[1903-70]、クリフォード・スティル[1904-80]らの絵画で有名となり、ロバート・ローゼンブラム[1927-2006, アメリカの芸術史家・キュレーター]の「抽象的崇高」の概念によって特徴づけられたように、アメリカ絵画は第二次大戦直後からこうした目標[崇高の体験]をふたたび追い始めた(27)。ここで挙げられた関連で言うなら「抽象的崇高」は、〈自律的で、言語芸術と比較不能で表示から自由な類としての絵画〉に立ち返る。ここでロンギヌス、エドモンド・バーク、カント、シラーにおける崇高なものについての反省を追跡し、アメリカ絵画において目指されている崇高性体験の形而上学的な基体を仔細に規定することは辞めて、観察者の超越的な経験(transcendental experience)の可能化をこの絵画の最重要条件として、ニューマン(28)の理論的表現と一致するように原理的な仕方で言い表すことにしよう。表示化だけでなく構図も、[鑑賞者を]途方にくれさせる無定形の現出の利となるよう排除される。巨大サイズで、ちょっと距離をとって見ないと全体が見渡せない絵画は、体系化可能ないかなる立脚点の決定も鑑賞者に許さず、どんな馴染みの経験をも超えてゆくような経験を鑑賞者に伝えるはずである。そうした絵画は、鑑賞者がその絵画経験と同時に自分固有の経験をし、それによって自分自身をあらたな仕方で経験する状況を惹き起こすはずである。この絵画は、随伴しているかすでに出来上がった秩序や、概念的、数学的、幾何学的もしくは(形式)美学的に規定可能な秩序に背を向け、人間能力の基本要素の一つとしての絶対的感情(absolute emotion)という基底に舞い戻ってこれを取り上げる。形式的に案内する手助けすべてを排除するこの絵画は、外から把握しようとする現象を圧倒するはずであり、しかもそうした圧倒は〈見る者が見られるべき物に対し所在なく対峙し、避けがたくこれに引き渡されている〉ところで行われる。そのさい鑑賞者にとってこの絵画は、絶対的感情という基底に立ち戻るためのきっかけないし強制となっている。ここで感情ということで意味されているのは、個々の情動や喜び・悲しみのような情動の総体のことではなく、あらたな経験や自分自身の向上(exaltation)、つまり人間の自立と自己発展のための呼びかけに結びつけられる崇高なものの体験である。ニューマンが定式化したように、「私は鑑賞者をここにいるようにさせることに、すなわち人間がここにいるという観念(the idea that Man Is Present) に取り組んできたのだ」。鑑賞者自身をここにいるようにさせることは、見渡すことができず無定形な絵画によって鑑賞者を途方にくれさせる結果として可能になる。この絵画は、芸術の輝きのうちで実現する、調和を求める視覚探求ではなく、むしろ圧倒されているという具体的な状況を作り出し、鑑賞者はそこで自分自身の意識とその自由を獲得するはずである。こうした意味で鑑賞者は、自分自身の自己同一性と[あらたに]同一化する存在として絵画の主題になっている。

 



(1) J. Ruskin, The Elements of Drawing, London 1856. さらにE・H・ゴンブリッジ『芸術と幻影』(1960, p.296)も参照。

(2) J. Laforgue, L’Origine physiologique de l’impressionnisme. さらにJ. Cassou, Die Impressionisten und ihre Zeit, München 1954, S.6. またLaforgue, »Impressionnismus«, in: Kunst und Künstler Bd.III, 1904/5, S.503f.

(3)ガリマール版第1(1954, p.835)[第二部「花咲く乙女たちのかげに」で語り手がエルスティールのアトリエを訪問するシーン]参照。

(4) K. Fiedler, Schriften zur Kunst Bd.I, München 1913/14. 序論の論文を追加した増補版は hg. von G. Boehm, München 1971, S.XLV.

(5) Ebd., S.44, 60.

(6)引用は1944年のプレイヤード(p.54)から。[筑摩書房『ヴァレリー全集第三巻対話篇』収録「エウパリノス」(伊吹武彦訳)35頁参照]

(7) Fiedler, Schriften zur Kunst, Bd.I S.425.

(8) W. Kandinsky, »Über der Formfrage«, 1912 (Kandinsky, Essays über Kunst und Künstlerを参照), hg. von M. Bill, Stuttgart 1955, S.15ff.

(9) Conférences de L’Académie royale de Peinture et de Sculpture, Ed. H. Jouin, Paris 1883, p.197.

(10) Fr. Th. Vischer, Ästhetik order Wissenschaft des Schönen (Die Künste), Stuttgart 1853/54, S.547,507.

(11) K. v. Pidoll, Aus der Werkstatt eiens Künstlers. Erinnerungen an den Maler Hans von Malées aus den Jahren 1880-81 und 1884-85, Augsburg 1930, S.17; A. v. Hildebrand, Das Problem der Form in der bildenden Kunst (1893). 引用は以下から。A. v. Hildebrand, Gesammelte Schriften zur Kunst, bearb. von H. Bock, Köln und Opladen 1969, S.213; H. Konnerth, Die Kunsttheorie Conrad Fiedlers – Eine Dalegung der Gesetzlichkeit in der bildenden Kunst, München und Leipzig 1909, S.131.

(12) Fiedler, Schriften zur Kunst, Bd.I S.427.

(13)引用箇所については J. Gasquet, Cézanne, Paris 1921, S.80. 最近のセザンヌ研究の基本的なところとしては K. Badt, Die Kunst Cézanne, München 1956. ここで持ち出された考察は以下の私の論文と関連している。»Cézannes Malerei als Systembildung und das Unliterarische«, in: French 19th Century Painting and Literature, hg. von U. Finke, Manchester University Press, 1972, pp.299. [第一版ではp.274-281]

(14) Fiedler, Schriften zur Kunst, Bd.I S.386f.

(15)レイヤード(p.18)[前掲訳書9頁]

(16) H. Sedlmayr, Verlust der Mitte, Salzburg 1948; 引用は新版から(Berlin 1955, S.99)

(17) H. Beenken, Das Neunzehnte Jahrhundert in der deutschen Malerei, München 1944, S.142.

(18) M. Raphael, Von Monet zu Picasso, München 1919, S.62. より引用。

(19)息子ポール宛ての190698日付けのセザンヌの手紙。Paul Cézanne, Briefe, hg. von J. Rewald, Zürich 1962, S.304f.を参照。

(20) A.v. Hildebrand, Das Problem der Kunst, S.209,242.

(21) H. Wölfflin, Italien und das deutsche Formgefühl, München 1931, S.181.

(22) H. Sedlmayr, Verlust der Mitte, S.98.

(23) Fiedler, Schriften zur Kunst, Bd.I S.44.

[*] [訳注] 詳しくはヤウス『美的経験と文学的解釈学Ästhetische Erfahrung und literarische Hermeneutik(Suhrkamp 1982)第一部B「美的同一化-文学的英雄に関する試論」を参照。その第2節は「同一化の型の歴史学的究明」と題され、「連想的同一化」「称賛的同一化」「共感的同一化」「カタルシス的同一化」「アイロニー的同一化」という分類が提起されている。

(24) G.W. F. ヘーゲル『美学講義』(G・ルカーチの詳論が付録) Berlin 1955, S.120. 「建築は精神集中することに対し包摂する力を高めさせ、自ら集中しようとするあの意志を開示する」。

(25) R. Keysselitz, Der >Clavis Interpretandi< in der holländischen Genre-Malerei des siebzehnten Jahrhunderts, Diss. Münschen 1956, S.8ff. 以下の詳述はケイッセリッツの定式化に拠っている。

(26) »Über das Erhabene«, in der Schiller-Nationalausgabe Bd.21, 2. Teil, Weimar 1963, S.42

(27) R. Rosenblum, »The Abstract Sublime«, in: Art News, vol.59, no. 10, February 1961; 再版は H.Geldzahler, New York Painting and Sculpture: 1940-1970, The Metropolitan Museum of Art, New York 1969.

(28) Th. B. Hess, Barnett Newman, New York 1969. 以下の引用箇所はpp.38. M. Imdahl, Barnett Newman – Who’s Afraid of Red, Yellow, Blue III, Stuttgart 1971. [第一般ではp.244-273]