un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

マルティン・ゼール『現われの美学』(2000)目次と序言

[Martin Seel, Ästhetik des Erscheinens (Frankfurt a.M.:Suhrkamp 2000.) の紹介。本書でゼールは、通常の知覚経験との対比・差異化によって「美的経験」における美的対象の現象構造を明らかにしている。第二部までは、美学の入門書のような平易な語りで、いっさい現象学によらずに経験一般における現われについて論じる。第三部以降のテーマが目新しく関心を惹くが、まだそこまで読めていない。]

 

 

             『現われの美学』

 

目次

序言

第一部 近代美学史の粗描

1.8つの簡略な歴史

2.哲学の部門としての美学

第二部 現われの美学

1.現われるもの

2.相存在と現われ

3.現われと仮象

4.現われと想像

5.現われの状況

6.芸術の布置

7.現在をめぐる遊動

第三部 明滅と響鳴。芸術外と芸術内の限界経験

第四部 絵画に関する13のテーゼ

第五部 芸術と暴力についてのバリエーション

 

 

序言

   本書が提案するのは、相存在や仮象の概念によってではなく、現われErscheinenという概念で美学を始めることである。あらゆる美的な対象が多くの点でどれほど多様であろうとも、これから問題となる現われは、それら美的な対象それぞれが共有している一つの現実である。美的になされることすべてにおいて、現われは遊動Spielのうちにある。

  遊動において事柄や出来事をそれが瞬間的かつ同時的に現われるように受取ることは、人間が世界と出会う真正な方法である。ここで生じる意識は、人間学的に中心となる能力の一つである。想像もつかないほどの感覚的所与の個別性を知覚する際に、われわれは自らの生というどうにもならない現在を直観する。このように現われるものに注目することは、同時にわれわれ自身に注目することでもある。このことは、芸術作品が過ぎ去った現在や未来の現在、知覚可能な現在や知覚不可能な現在を想像する時にも――またしばしばそのときに一層――よくあることである。それは、芸術作品が感覚的に訴える形象として自らその超出的なエネルギーを展開してゆくからだ。芸術作品は個別の現在を作り出し、そこでは現在がより近くなったり遠くなったりして現われる。

  二〇世紀の芸術に注目すれば、そこに疑念が生じてくるだろう。現代芸術は、その現われから幾度となく逃れようとしているかに見える。マルセル・デュシャンが一九一五年にニューヨークで発表したオブジェ「折れた腕の前に」を考えてみればよい。雪かき用のシャベルが正十字に重ねられて、展示用のアトリエの天井に掛けてあるのである。もしくは、ワルター・ド・マリアスが一九七七年の第四回ドキュメンタのために建設した「垂直地球キロメーター」を考えてみればよい。それは細長で、地中深くに刺さった砲身で、二平米大の基礎石板の他には何も見当たらない。ある影響力のある評論によれば、ここでわれわれが目の前にしている対象は、感覚的な現れについて芸術家が計算しているために崇高なのである。このことからの帰結は、哲学が芸術理論の神殿からいかに感覚性という罪を追い払わざるを得ないか、ということである。

  私はこうした帰結を避けたいと思う。先のレディ・メイドの知恵がわかるようになるには、対象の演出によって個々の現われがうまく拡大したり、拡大し損ねたりすることによってのみである。マリアスのインスタレーションにおいてはなおのこと、、物体としての芸術対象がどんどんと逃れてしまうことが現わしてやることの技巧の一つとなっている。それは、このインスタレーションが絶妙かつ逆説的な仕方で空間を追跡可能なものとするからであり、この空間においてこれまで立像の相貌において計算されてなされていたインスタレーションは、「鑑賞者」の足元にまで広がるからである。芸術という文脈では、消失することさえもが現われの源泉となり得るのである。

  しかし比較的最近の造形芸術だけではなく、文学もその現われを避けているように思える。少なくとも、文学が韻やシラブルの響きにこだわらなくなっているところではそうである。そこでは真面目に受取るべき感覚対象はまったく存在せず、あるのはせいぜいその感覚によってではなく、精神によってのみ芸術として開示される総譜にすぎない。とはいえ、このように感覚と精神とを分断することは、文学的な語りを初めから取り間違えている。というもの、図像的で、リズミカルで、音響的な構成要素としての顕著さ(に対する感覚)なくしては、文学テクストなど存在しないからである。

  この点で、またさらにその前の点でも、美学はまさに芸術に即して自らをきちっとチェックしなければならない。しかしそのようにできるのは、美学的なものがもつ芸術外の現象に背を向けない場合だけである。すなわち自然、装飾やデザイン、流行やスポーツ、その他あらゆる行為遂行を導くような感覚的活発さの機会に背を向けてはならないのである。芸術の個別性は、まさにその美学的な個別性において語られねばならない。そこでは同様に、美学の対象は任意の対象からだけではなく、任意の美学上の対象や出来事からも区別されねばならない。芸術の哲学は、一般的な美学の一部なのであり、この枠内においてのみ適切に詳述できる。人間世界における芸術の位置は、それ自体けっして芸術家のそぶりに従わない美的な機会がもつ複数性の内部に位置している。

  本章の幾つかの部門は、この美的な機会を様々な仕方で考慮する。本書が追求する全目的は、現われという主導的な概念から出発して、美学へと納得のゆくかたちで歩みだしてゆくことである。こうした仕方で叙述される本書の「美学からする章」は、それぞれ好みに従って独立に読んでも構わないし、関連づけて研究してもよい。

  本章の最初のものは、現われの美学の前史を下書きしており、これはとりわけ伝統において既にどれほど連綿とこの現われについての議論が詳述されているかを明らかにするだろう。バウムガルテンやカントからヴァレリーやアドルノに至るまで、事柄において規定され得ないものについて反省されることで、美学は導かれてきた。このように想起することで、美学が哲学の独自で必須の部門であるという地位を占めることになるのである。

  本書の主要部門は、現われの概念をさらに展開して、これを美学の有望な根本概念として確立しようとする。美的対象と美的知覚という最小限の概念から出発することで、次第に美的意識の幅が細分化されて理解されるようになる。このことが結論的に導くのは、美的実践の感覚についてのテーゼである。そのテーゼは、この感覚がもつ多様な形式においてわれわれは自らの現在を直観するべく遊動に関わるというものである。

  陶酔に関する部門は、現われの極限形式を探究する。それは、視覚的、音響的、意味論的現象で、「生起するものなくして生起すること」としてわれわれを魅了し、われわれの知覚能力の限界に即して知覚を可能ならしめるものである。

  第四部は、絵画の身分に関する今日の議論についてコメントしている。絵画を、何かを差し出されたものとして現わすための現われの根拠として(Erscheinungsgrund)理解しようという提案は、映画やサイバースペースといった現象と対立する境界を設定することになる。さらに、この提案は、絵画内の現実と絵画外の現実との差異をあらたに確かめるきっかけを与えてくれる。

  第五部は、芸術作品と暴力状況との関係を探究する。芸術がその受信者の全体に及ぼす隠喩的な暴力には、字義通りの暴力の行程を剥き出しのままの形式で直観にもたらす能力がある。芸術は個別的な力で自らを差し出して現われるのだから、他の媒体を一切用いずとも、暴力の暴力性を表わすことができる。

  さまざまな折に、私の提案の難点を気づかせてくれた多くの人たちに感謝の意を表する。そうした人たちの中には、カール・ハインツ・ボーラー、ゲルノート・ベーメ、ラインハルト・ブラント、リュディガー・ブプナー、ザビーネ・デューリング、クリステル・フリッケ、セバスチャン・ガルナー、リュディア・ゲール、ルート・グローとディーター・グロー夫妻、ハンス・ウルリッヒ・グンブレヒト、テッド・ホンデリッヒ、アンソニー・オーヘア、アンジェラ・ケッパー、マンフレート・コッホ、シビレ・クレマー、ゲルハルト・クルツ、コンラート・ポール・リースマン、カールハインツ・リューデキング、ベルニ・クライマン、クリストフ・メンケ、エーベルト・オルトラント、ウルリッヒ・ポータスト、クラウス・ザック=ホンバッハ、ハンネ・ローレ・シュラッファーとハインツ・シュラッファー夫妻、オリヴァー・シュルツ、ルート・ゾンデレッガー、ヘント・デ・ヴリース、アルブレヒト・ヴェルマーやランベルト・ヴィージングらがいる。レナーテ・カッペス、ステファン・デネ、トビア・ブロットコルプとメリンザ・ローギニガーは、通信用語や他の読みにくい思いつきの表現を原稿から一掃するのに精力的に手助けしてくれた。バーバラ・クローゼは、誤った添加語をすべて見つけてくれた。芸術の造形概念やメディア性に関する共通の催し物で――しばしば大急ぎで――私は、ゲオルク・ベルトラムとヤスパー・リプトウと共に本書の主題について議論をした。このようにここで問題となっていることは、たとえその問題のされ方が私の報告だけに基づいていようとも、一つの共通の関心事となっている。

                      

                                  二〇〇〇年 M..

 

 

               出版社の紹介文

  現実と美的に出会う能力は、人間が世界を知覚する中心的な形式の一つである。この形式の根幹は、事柄や出来事をそれが一時的・擬似的に感覚に現われるように受取ることにある。マルティン・ゼールの考察はこうした現われに注目することから始まり、美的実践の広範な理論を展開してゆこうとする。美的知覚の多様な形式において、われわれは自らの現在を直観するべく、遊動に関わっている。

 ゼールは美的対象と美的知覚という最少の概念で始めながら、美的意識がもつ広がりを細分化して理解し発展させる。そのさいその美学は、諸芸術において自分自身をきちんとチェックしなければならない。しかしそれが可能なのは、絵画や音楽、彫刻やインスタレーション、文学や映画が共に芸術家のそぶりに従わずに美学によって現わされて注目される場合である。あまりにも不当に死亡宣告を告げられた現代芸術の感覚性は、このような仕方によってのみ把握可能で経験可能となる。

 

 

                [著者について]

 マルティン・ゼール(1954-)はヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学正教授。アルブレヒト・ヴェルマーのもとで博士号を取得したフランクフルト学派の第3世代。主にズーアカンプ社から『自然美学』(1991)[法政大学出版から邦訳あり]、『幸福の形式についての試論 倫理学研究』(1995)、『倫理美学研究』(1996)、『哲学の手仕事について』(2001)、『みずからを規定させる 理論哲学と実践哲学のための研究』(2002)、『アドルノの観照の哲学』(2004)、『成就のパラドクス』(2006)、『現われの力 美学のためのテクスト』(2007)、『理論』(2009)、『111の徳と111の悪徳』(2011)、『映画芸術』(2013)が刊行されている。