un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

クリストフ・メンケ『力-美学的人間学の根本概念』(2008)の目次と序言

[ 以下は Christoph Menke, Kraft: Ein Grundbegriff ästhetischer Anthropologie, Frankfurt a.M.:Suhrkamp 2008. の目次と序言の試訳。]

 

 

            力

美学的人間学の根本概念

                クリストフ・メンケ

 

目次

序言 何のための美学か?

第一章 感性:構想力の非規定性

第二章 実践:主観の訓練

第三章 戯れ:力の作用

第四章 審美化:実践の変容

第五章 美学:哲学の争い

第六章 倫理:自己創造の自由

 

 

 

序言 何のための美学か?

   何のための美学か。この問いは単純で即答できるように思われる。つまり〈美的なものがあるために美学は存在し実際必要とされる〉とか、〈(このように美的なものとして特徴づけられる)対象があり、そうした対象について哲学的に熟慮することが美学の要件だからだ〉と答えればよいのである。その対象にはたとえば芸術のようなものや、美や崇高のようなもの、スポーツ、デザイン、流行といったようなものがある。美的な対象があり、それゆえに美の理論も存在する。こう答えることで、美学は他の哲学の学科部門、たとえば政治哲学、道徳哲学、科学哲学、技術哲学、文化哲学などの隣席を占めることができる。

  [しかし]こうした答えは、美的に示された対象の存在がまったく自明ではないという事実を見落としてしまっている。われわれが「芸術」と呼ぶものは、経済学のより広範な領域であるのみならず、スポーツ、デザイン、流行などが属する文化産業の一部門ではないのか。またわれわれが「美」と呼ぶものは、快の感覚の作動因(もしくはそれに対応して脳におこる事象)にすぎないのではないか。これらの対象が「美的」と呼ばれ得る連関領域を形成するという事実は、ますますもって自明なことではない。この連関領域はまったく雑多なものの集積ではないのか。美学に従事するには、美的対象の存在についてすでに確信しこれに関心をもっていなければならないように思われる。「何のための美学か」という問いがその対象の方から答えられるなら、美学は個人的関心の表明となり、そうした関心と共にその外見を浮き上がらせたり(沈ませたり)する。

  しかし美学を基礎づけるのはその美的対象(またそれらへの関心)ではない。むしろ美的対象の領域を基礎づけているのは美学の方である。美学は美的なものを構成する、つまり自らの対象を「美的」なものとして際立たせるために、およそ美的なものの理論でありうる。「何のための美学か」という問いは「なぜなら美的なものがある(そしてわれわれはそれに関心がある)ためだ」という断言によって答えることはできない。それはこの「何のための美学か」という問いを立てることが、「何のための美的なものか」と問うことを意味するからである。美学が「美的なもの」を自らの対象として(そしてそれによって自分自身をも)際立たせることは何を意味し、どういった前提に立ち、どういった帰結をもつのか。

 

 

 [美的な対象領域を形成する]美学の構成能力を思い起こすにあたって、ここでは再構成の途がとられる。すなわちバウムガルテンの『美学』とカントの『判断力批判』との間でなされた一八世紀の美学の形成を再構成しようというのである。この再構成で示されるのは、美学が哲学の正統な対象領域を拡大させたということではない(そうした対象は以前から存在していた)。むしろ美学はこれらの対象を「美的なもの」というカテゴリーの導入によって根本的に新しい仕方で規定したのだった。しかし美学の歴史的形成を再構成することでとりわけ示されるのは、「美的なもの」というカテゴリーの導入がまさに哲学の根本概念の変更を要求するということである。美学において(もしくは美学として)近代modern哲学が始まるのである。

  このように主観の概念、すなわち能力の総体概念、遂行力の審級としての主観、能力ある者としての主観の概念を形づくるのが美学、すなわち最初の美学であるバウムガルテンの美学である。バウムガルテンは何度も訓練することで獲得される主観の能力として感性的認識と描出Darstellenを捉えることで、人間的なやり方Pratikenの(またそうしたやり方がうまくいく可能条件の探求としての哲学の)近代的理解を定式化した。それゆえに美的なものの反省である美学は、近代哲学において重大な役割を演じている。つまり美学において主観の哲学、主観の能力とそれ固有の可能性の哲学が確実なものとされるのである。

  しかしここで美的なものとその反省において主観の哲学はそのもっとも決定的な論敵、この哲学の内部で立ち向かってくる論敵と出会う。主観の感性的能力の理論としての「バウムガルテン流」(ヘルダー)の美学に対し、それとはもう一つ別の美学、すなわち力の美学がただちに立ちはだかる。この美学は(何かの)感性的認識や描出として美的なものを捉えるのではなく、表出の戯れとしてこれを捉える。それはつまり能力のようにやり方のうちで訓練されるのではなく、自らを実現する力によって駆り立てられるものとして美的なものを捉えるということである。この力は「暗く」自覚されないのもであるために、何も再認しないし何も呈示しない。主観の力ではなく、主観としての自分からは区別される〈人間の力〉である。力の美学は人間本性の教説であり、訓練しつつ獲得される人間的やり方の文化とは異なる人間の美的な本性の教説である。

 

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 こうしたことが本書の全六章が展開しようとするテーゼである。第一章は感性的なものという合理論的概念によって美学の開始点を思い起こす。感性的なものは定義可能な規定や尺度をまったくもっていない。第二章は、主観とその能力の理論としての感性的認識を扱っているバウムガルテン美学を再構成する。これにつながってゆくのが、〈美の主観化は個人化もしくは規律化として解釈できるか〉という対立意見である。第三章と第四章はヘルダー、ズルツァー、メンデルスゾーンのテクストから力の美学という対抗モデルの根本モティーフを展開する。[このモデルにおいて] 「暗き」力の作用である美的なものは一般性なき遂行であって、規範や法や目的の彼岸での遂行、つまり戯れである。また自己反省の快である美的なものは、主観とその能力とそのやり方を変更してゆく一つのプロセス、すなわち審美化Ästhetisierungしてゆく一つのプロセスである。

  力の美学は、力と能力との差異、つまり人間と主観との差異の人間学を基礎づけている。本書を締めくくる二つの章はそこから生じるものを突き止める。哲学的美学にとって、また倫理学にとってそれは善の理論としてある。第五章は、力の美学として自らを理解する美学が収まることのない争い舞台となっていることを、カントと対決しながら示す。美学は哲学のうちで哲学と美的経験との争いを展開している。第六章は、力の戯れの経験である美的経験がどういった倫理的条件を有しているかを、ニーチェに結びつけながら示す。美的経験によってわれわれは〈行為すること〉と〈生きること〉とを区別できるようになる。つまり美的経験は生の別の善さを教えてくれるのである。

 
 

 

[出版社の紹介文]

 一八世紀に美学が独自の哲学学科として成立したとき、それは美ないし崇高や諸芸術についてのあらたな思考法の始まりというだけではなかった。美学は純粋な芸術考察から分離し、感性、遂行力、活動といった伝統的な哲学的概念をあらたに規定し始めたのだった。このときから美的なものは人間精神の全体に関わるカテゴリーの一つとして捉えられた。もっとも、このパースペクティヴの転換がどれくらい正確に思考されるべきかについては、当初から係争中の問題であった。哲学的美学の創始者であるアレクザンダー・ゴットリープ・バウムガルテンが美学を主観や主観が実践的に獲得した能力Vermögenの思考として理解する一方、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは力Kraft(能力とは異なる力、実践とは異なる戯れ、行為とは異なる生)の思考としての美学という後にまで影響を及ぼすモデルを展開している。バウムガルテンにとって美学が主観化のモデルであると同時に道具であるなら、ヘルダーは美学を美的な立ち位置についての人間学として、つまり自分自身とは異なる人間ないし主観を思考することとして理解する。クリストフ・メンケは一八世紀の美学上の論争とその裾野を歴史学的・体系的に再構成することで歩を戻し、「能力」と「力」との間でなされた最高度に生産的な争いに対し眼差しを先鋭化させる。それと同時にメンケはこの争いを現在の哲学における決定的な対立関係の母型と読むのであり、本書において彼はその克服ではなく解明に寄与せんとするのである。