un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ハンス・ローベルト・ヤウス『理解の諸問題』(1999)目次とあとがき

[以下は Hans Robert Jauß, Probleme des Verstehens. Ausgewählte Aufsätze, Stuttgart (Reclam) 1999 の目次とあとがき。ヤウス最後の論文集。ヤウスと共に「コンスタンツ学派」の一員であったR・ヴァルニングがヤウスの理論的立場を手短に説明した後に、本書収録の論文の要点と問題点を解説している。]

 

 

             理解の諸問題

 

                 目次

第一章 博愛主義としての人間嫌い:理解の地平変化における「キャラクター」

第二章 ミメーシスと見せかけから明らかになるタルチェフ騒動

第三章 カール・レーヴィットルイジ・ピランデルロ:『共同存在の現象学』再読

第四章 私自身と他者:解釈学的視点からの注記

第五章 理解の諸問題:特権化された〈汝〉と偶然的な他人

第六章 歴史の理解とその限界

 あとがき(ライナー・ヴァルニング)

 

 

                 あとがき

 本巻はハンス・ローベルト・ヤウスの最後の仕事を収録している。これらの仕事は、例外はあるものの、一九九五年からから一九九七年にかけて成立したものであった。ヤウスは第六章「歴史の理解とその限界」に関する講演を、彼のまったく予期せぬ突然の死の直前である一九九七年二月に行っていた。とはいえやはりこのテクストから語り出すのは、引き篭もる者でも別れを告げる者でもなく、(ヤウスがそうであると何十年も前から知られていた通り)自ら鋭い感性で問いかけ肯定的に答える不屈の者、紛れもない者である。だが本巻収録のこれら諸論考は、ヤウスというこの紛れもない者にある新しい、きわめて個性的な口調を持ち込んでいる。これら諸論考はなにか告白めいたものを有していて、それは隠されていると同時にもっとも重要なヤウス的思考の衝動を、どこがそうだと挙示はできないけれども認識させてくれる。

 ヤウスをして戦後ドイツにおいてもっとも重要で国際的に有名な文学研究者にさせたものは、文学史の扱いに対する新規定であった。『文学研究の挑発としての文学史』は一九六七年に行われた彼のコンスタンツ大学就任記念講演であり、彼が挑発しようとしたのは完全に固定化されてしまった文学研究であって、それは当時から声高に叫ばれ気づかれていた。そのような固定化された文学研究としては、文学についてと称するあらゆるおしゃべりを追放し、厳密に体系として記述されるものだけを妥当なものにしようとした構造主義が挙げられよう。ヤウスがこの記述の道具立てをよそよそしいものにしてしまわなければ、どんなによかったか。ヤウス自身は自分にとってそれが正当であると思えた場合に、構造主義を緩和して利用したのであった。しかしヤウスは、記述の道具立てだけが重要であることを意識していた。構造主義によってテクストが、つねに美的経験の歴史学的指標を担うそうした経験の資料として獲得されることはけっしてなかった。そのために要求されたのが解釈学であるが、それは歴史学的な隔たりの方を客観主義的な隔たりにずらしたシュライアーマッハー流やディルタイ流の特徴を有する伝統的解釈学ではなかった。そもそもヤウスにとっての出発点は解釈者の〈いま〉であり、この点でヤウスはハンス=ゲオルク・ガダマーにおいて本質的なきっかけを見出していた。そのきっかけとは、時間的距離の反省としての理解、すなわち現在にとって過去の経験をふたたびアクチュアルにし、若返らせつつ再獲得するものとしての理解、つまるところ「適用Applikation」としての理解である。そのような適用は、テクストがかつて答えとなっていたような問いを見出すことを前提としている。だがそうした理解を出発点とすることは客観主義的な再構成の手法ではなく、むしろ本質的に対話的な出来事である。理解が対話的な出来事であるのは、問う者が自分自身の問いの地平を度外視することができないし、またそうすべきでもない点でそう言えるのだが、それは自分の地平に注意を向ける場合にのみ、テクストの答えは問う者の現在にとってあらためてアクチュアルなものとされるからである。

 解釈学的な「問いと答えの論理学」とは、ガダマーが歴史家のロバート・G・コリングウッドと共に名づけ、ヤウスもそれを採用しているものだが、この論理学が十分な受容の基準やそれほど十分ではない受容の基準が挙げることができないために、そこには多くの方法論的な諸問題が含まれている。ガダマー自身は古典主義に訴えることにその解決を求めたが、それはテクストの「発言力Sagkraft」がその適用の余地を制御し、正しい理解と誤った理解とを区別してくれるという意味においてである。ヤウスは自ら加わるつもりはなかった規範的な仮決定をそこにみており、それによって媒介的な影響作用史というガダマーの原則を媒介的な受容の歴史によって補完したのだった。受容史は、テクストに備わる意味のポテンシャルの継続的な経験であり、私自身の受容はいつもすでに、多かれ少なかれ意識されているか明白に、以前の受容の歴史によって媒介されているのであって、以前の受容の方はその歴史をさらに先へと延ばすのである。

 これによって適用はガダマーと場合とは別の次元に置かれることになる。私をその影響作用史のうちに組み入れるテクストの古典-規範的な発言力はいまや主要なものではない。むしろ主要なものはそのつどの現在の社会的なコミュニケーション連関であり、私はこのコミュニケーション連関を目指して作品の歴史学的コンテクストを多産的なものにしようとする。ガダマーが古典的なものを実体化したことに対しこのように距離をとることを、ヤウスはユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論と共有している。これによって理解は、過去が現在の自己了解の問題から継続的に露見するように問われる限り、目に見えるほど啓蒙的な原動力だけでなく表立つことのない目的論をも獲得する。ここで求められているのは、とりわけ古代から近世への移行において「貫き通す」ことであり、何を貫き通すかといえば、いまは「もうなく」かつては「まだない」ものである。すなわちヤウス的な受容史の探求をやり遂げる公式だけでなく、特定の時代に焦点をあわせる公式もが求められているのである。じっさいこれら二つの探求が、本巻収録の諸論考において欠けることはない。

 この表立つことのない目的論とは一つの観念論であり、ヤウス自身はあらゆる観念論をおおっぴらに拒絶しているにもかかわらずこの観念論としっかり結びついたままなのである。ヤウスはけっしてヘーゲル主義者であろうとしなかったが、言及する心配がなくうまく利用できる場合には、ヘーゲル主義者となっている。もう一つの観念論は、ヤウスがしばしば言及するカントの『判断力批判』に含まれている。どういった基準を用いれば解釈学的な地平融合が制御されるか(この点で正しい理解と誤った理解とが区別される)という方法上の問題を、ヤウスはガダマーから受け継いでいた。しかしガダマーが古典的なものという規範に信頼を寄せるところで、ヤウスは、カントによれば美的判断を正当と認める「万人の賛同の必然性」の方に組しており、そのさいヤウスは美的判断の前提を黙って見過ごしてしまっているのだが、カント自身の場合、美的判断への賛同は真っ先にその義務を含んでいるのである。それだからじっさいカントはけっして万人の賛同そのものを意味しておらず、むしろ〈啓蒙化されたエリートに属し、それゆえにいつもすでに前提されてよい文化的な刻印によって自らの賛同に重みを与えるすべての者〉に限った賛同を意味している。ヤウスは、美的経験をおよそ〈関心なき満足interesseloses Wohlgefallen〉と同一視せずに、美的経験が啓蒙化された道徳性において基礎づけられているのをみるさいに、この隠されたカント的観念論をもはや乗り越えている。〈ヤウスにとって美的なものと道徳的なものとの重複はますます拡大してゆき、おそらく彼はその最後の仕事においてもけっしてそれをはっきりと明晰に知ることがなかった〉と言うことができよう。しかしまたここで同時に明らかになるのは、ヤウスがいかに無反省の楽観主義からこの道徳性を決定的に選択することが少なかったかということである。ヤウスは〈自己の権能への信頼〉か〈主体の自己責任〉かの二者択一を見ずに、ポストモダンの視座なき敗北主義と彼がみなすものとの対決を申し出ようとしたのだった。

 論文「博愛主義としての人間嫌い」は、ヤウスの主著である『美的経験と文学的解釈学』(一九八二年)と同じくらいの時期に成立した。[同論では]滑稽なキャラクターに即して、人間の自己了解の地平変更が、概念史と滑稽の遠近法化とのたえざる交代劇においてたどられている。ここでは、メナンドロスの『気むずかし屋Δύσκολος』[*1]における変わることのない人間本性の古代的前提や、モリエールの『人間嫌い』[1666]における〈いかにあるかの義務Soseinmüssen〉と〈いかにあるかの意志Soseinwollen〉との前個性的葛藤や、ルソーによる登場人物の脱喜劇化や、最終的にはホフマンスタール[1874-1929]の『気難しい男』[1921]における自己存在と他者に対する存在との近代的な矛盾などが決定的な諸段階である。そのさいヤウスらしいのは、ホフマンスタールにおいて発展した、古代とは異なるキャラクターの変容可能性をドイツ観念論の意味での個性の自己展開としてではなく、ヘレーネ・アルテンヴィルによるグラーフェン・ビュール[*2]の社会的復帰において、いかに彼がより詳しく把握しているかということである。こうしたことは、打ち消された〈私〉-同一性という意味で流布していた悲観的な読み方に明確に反対しており、この読み方によってホフマンスタールは世紀の変わり目のウィーンに溶け込んだのだった。[だが]ヤウスはそうした読み方に反対し、〈第一俳優がもはや社会的なものをふたたび獲得することがないとしても、少なくとも「くり返されるはじめての二者関係」の社交性、将来的には「万人にとっての真実」の約束となる「二人にとっての真実」を再獲得することはある〉と考えている。これは強引な読み方であるかもしれないが、こうした読み方は、美的経験を最終的に肯定的な道徳性において基礎づけようとするヤウスの尽力にしばしばみられるものである。

 この点で晩年の論文「ミメーシスと見せかけから明らかになるタルチェフ騒動」は先の論文「博愛主義としての人間嫌い」とまったく共通する基盤を有している。ヤウスは、無邪気に見せかけた者をめぐる論争がなにゆえに宗教的狂信者のたんなる策謀以上のものだったのかをわかりやすくする概念史的な素描でもってふたたび始めている。要求されたキリストの模倣imitatio Christiがたんなる見せかけsimulatioに堕落する可能性があるなら、また言葉そのものが真なる信仰Devotionと誤った恭謙Devotionとを区別することを許さないなら、ミシェル・フーコーによるところの〈透明性の要請〉を基にして築かれた古典期全体の〈表象のエピステーメー[*3]はぐらつき始める。そのさいモラリスト的-アウグスティヌス的な人間学がすっかり説明するように、善良ぶることは底知れぬ深淵にまで開かれてゆくが、古代人たちもまたそうした善良ぶりを知らなかったし、パリサイ人に対する聖書の論争すらまだ知らなかった。しかしもしヤウスが[中世の]馬上乱戦試合の騎士によって示された強制なき誠実さ(それは内面的な隔たりからあらゆる喜劇のなかでもこの現世という喜劇を最初から甘受するものである)という選択肢によってこうしたモラリストの悲観主義からそれでもなお逃れようとしないなら、それはもはやヤウス自身であるとはいえないだろう。

 このことは、ヤウスが人間嫌いの受容史の目標とした「くり返されるはじめての二者関係」のイメージ喚起ほどは強調的ではないものの、基本構造は同じである。ヤウス流の対話的な解釈学は〈かつてeinst〉と〈いまjetzt〉との隔たりを橋渡しするだけでなく、ヤウスは〈いま現在そのものdas Jetzt selbst〉、すなわち解釈者が関わらなければいなければならない現在の議論の文脈をもこの解釈学の管理下におく。またポストモダンによってしるしづけられたこの文脈が幾度となく主体性の脱中心化したり、じっさい〈私〉の合理的な自己の権能を西洋的なフィクションとして暴露したりする傾向があるとしても、ヤウスはこれに対して惑わされることなく、楽観的な別の[主体や自己の権能の]バリエーションをいつでも言葉にしようと努力し続けている。ポール・ド・マンによれば否定的な経験だけが美学化されるというが、そうしたド・マンと同じ賭けに対しヤウス自身は共感できなかったものの、おそらく共感できないがゆえに彼は脱構築の思想とも対話を試みた。ヤウスは[自分が]一面的であることをけっして否定しなかったし、〈何かを理解しようとするとき、人はいつでも何かを忘れざるを得ない〉とつねづね語っていた。しかしこのことは、他人がもう忘れてしまったことに、一心不乱に執心することでもあった。それはどんな議論の文脈でもヤウスの強みであり、それによって彼の声には重みが、その影響には連続性がもたらされたのだった。

 それゆえ、ヤウスが彼の学問上の師であったカール・レーヴィットへの晩年のオマージュにおいて自らの解釈学上の信念をおそらくもっともはっきり分節化したとしても、はじめて見る者の目に限っていえば、それは容易に時代錯誤な印象を与えることだろう。 [第三章の]「レーヴィットとピランデルロ」は、レーヴィットによる受容という先行者によって媒介されながらピランデルロが受容されるという周知のモデルにしたがってまず読まれる。しかしレーヴィットは単純にピランデルロを理解しようはせずに、ピランデルロから批判的に距離をとりながら〈他者のうちでの自己-理解〉という自分自身の解釈学を発展させた。これによって対話的な理解はメタ平面を含むことになり、ヤウスはこのメタ平面に基づいてピランデルロとレーヴィットの立場に次ぐ第三の立場を分節化しようとする。古典的なモデルネの突出した代表者であるピランデルロは、自らが担っている役割を放棄する主体を上演した。それはつまり、伝統的で主体中心的なパースペクティヴを自己実現という主体の観念論的な目的論もろとも拒否することであり、そうした自己実現の目的論は典型的に教養小説の基礎にある通りである。これに対しレーヴィットが〈汝〉による〈私〉の構成、それゆえ「共同存在の役割における個人」[*4]を訴えるさい、それと共にレーヴィットは、ヤウスによればピランデルロがまだ自由に使うことのできなかった役割概念を前提にしている。そのさい、レーヴィット自身が共同性を優先人物、友情関係の優先人物、それゆえ道徳的・感情的に特権化された〈汝〉と結びつける限り、彼はまだ本来性と非本来性という二分法に負うているとヤウスはみている。ヘルムート・プレスナーが提起した人間の一つのあり方としての「ドッペルゲンガー性格」はけっして自らに追いつくことなく、自らの役割を断念しても自己疎外にならずに、むしろそれによってそもそもはじめて「きっちり自分自身になるチャンス」が生じるというものであるが、ヤウスはこの「ドッペルゲンガー的性格」のうちではじめてレーヴィットの二分法が克服されたとみている。

 それゆえ過去のテクストを若返らせつつ受容する作業を引き受けた解釈学は、特権化された〈汝〉ではなく、偶然的な他人に即して自らを理解するという思想へと続いてゆく。この解釈学の計画の最後にくるのは美的経験の系譜学であり、この系譜学は任意の他人を理解しつつ彼らと関わりあう道徳的基盤へときびしく問いを投げかけている。本巻は、論文「博愛主義としての人間嫌い」から、十数年の後に成立した「〈私〉自身と他者」と「理解の諸問題」(これは〈偶然性Kontingenz〉を特集した『詩学と解釈学』最終巻へのヤウスの寄稿論文である)という二つの論考への歩みのうちでこの先鋭化をはっきりさせている。論文「〈私〉自身と他者」ではけっきょくまだ特権化された〈汝〉が見出されたが、個別に対する普遍の優位を継続的に解体することが問題となると、いまや際立った他者というこの最終審も理解から奪われる。歴史学的な力点のおき方は「〈私〉自身と他者」と「理解の諸問題」とで異なっているが、体系的な関心事は同じである。やはり両論文とも、 卓越したヤウスの西洋の文学、哲学、神学の歴史にたいする博覧強記ぶりを印象深く証言している。アリストテレスからアウグスティヌス、ダンテ、モンテーニュラ・ブリュイエールを経て[ポール・]クローデルにいたるまで[論述の]弧は拡がっているが、それは一つの問題に帰着する。ヤウスは偶然的な他人を文学のうちではなく、隣人愛という聖書の掟のうちに見出している。任意の他人とは隣人のことであり、隣人はもはや自らの固有性を理解して欲しいのですらなく、むしろ自らの困窮をすすんで知って欲しいだけなのである。友情関係とは異なり、また愛のうちに見出される二者関係とも異なり、隣人愛にはどんな観念論的な「完璧さの先取り」もない。それにもかかわらず隣人愛は共通の第三者ではないまでも、より高次の原理、つまり神のための隣人への愛を指示してもいる。ヤウスは、クローデルに喚起されながら、自らがどこに近づいているのかを了解しているが、彼が近づこうとしているのは〈この神自身には「全能という偶然性の神学」の疑いがあるのではないか〉という問いである。

 この問いによって解釈学に関するヤウスの最後の発言は逆向きの目的論を展開するようになり、彼の著作全体を特徴づけている啓蒙主義的な楽観論はあらゆる場面で、とりわけ彼が道徳論の人間学的悲観主義と関わるさい、この目的論をおぼろげに示している。そのさいヤウスは、自らの師ゲルハルト・ヘスがすでにそうであったように、抑圧された人間学的基盤、つまりアウグスティヌスによって公然と非難された「自己愛amor sui」という根源悪[*5]ないし人間性質の記憶以前の悪よりも、社会の抑圧作用にいっそう焦点を当てたのである。ディーター・グロー[ドイツの歴史家]の六五歳の誕生日にさいし歴史家どうしのサークルで開かれたヤウス最後の講演において、いまや明確に問題となっているのは「歴史の理解とその限界」である。ヤウスがドロイゼンやディルタイフッサールハイデガーにおいてでなく、第一次世界大戦の影響下にあったテオドール・レッシング[1872-1933]において反省されているとみているように、理解がその限界に突き当たるのは、悪という歴史的現実に直面するときである。しかしレッシング自身のうちでまだ生の哲学の悲観主義的なバージョンでもって考えられ、けっきょくそうした悲観主義でもってふたたび説明されるものによって、ヤウスは、悪そのものがただちに説明不可能なものでないかどうか問わざるを得なくなる。ヤウスはマックス・ホルクハイマーとテオドール・W・アドルノの『啓蒙の弁証法』をくりかえし引用した。周知のとおり、同書のなかにこの問いに対する答えが見出される。ヤウスはけっして明白にこの答えに関わらなかったし、[マルキ・]ド・サドや[コデルロス・ド・]ラクロ[1741-1803]のような著者についてもけっして詳細に意見を述べなかった。ヤウスにとりルソーは十分「異論の余地ある」者であった。〈理解の弁明〉はあらゆる観念論なしで済まそうとしても、それらなしでは済まされなかったが、それはまるでヤウスが自らの最後の問いによって自分の長大なライフワークを手中にするのに必要な代価を挙げてみせたかのようである。レーヴィットの下におかれ、友情関係の基礎にあるとされる〈完璧さの先取り〉を拒否することは、生徒や友人に捧げられている。それならヤウスが[ジャン・]ジロドゥ[1882-1944]の戯曲『アンフィトリオン38』[1929]において典型的に演出されているのに気づいたように、人間の二者関係という先の連帯とはいったい何であるのだろう? それはジュピター自身が自らの恵みに与えている〈完璧さの先取り〉とは別物なのだろうか?

 

 

 

[*1]メナンドロス(BC.342-BC.292)はアテナイ新喜劇を代表する古代ギリシャの喜劇作家。エウリピデスの影響受けたその作品はのちに格言や警句として引用され、新約聖書にも登場する。彼の作品の多くは長らく散逸し、格言として断片のみが知られているにすぎなかったが、20世紀に入りパピルスに記された彼の作品が発見されるようになり、今日ではこの『気むずかし屋』の他にも『サモスの女』や『髪を切られる女』などが知られている。

[*2]いずれもホフマンスタール『気難しい男』の登場人物。

[*3]フーコーは『言葉と物』(1966)において西洋の知性のあり方を4つの時代に区分したが、古典期はその第2段階に相当する。16世紀から17世紀末にかけての古典期のエピステーメー=知の体系=学問は、世界をまず「類似」によって、次に「比較」によって捉えようとした。

[*4]レーヴィット『共同存在の現象学』(熊野純彦訳、岩波文庫、2008年)の原題。

[*5]アウグスティヌスは、イエスの教説(マルコ:12, 29-31)に従い「神への愛」「自己への愛」「隣人愛」を順序づけつつ、「自己愛」を「この世[地上]の国」の成立の主要な原理としている。「このようにして、二種の愛が二つの国をつくったのであった。すなわち、この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神の愛である。一言でいえば、前者は自己自身において誇り、後者は主において誇るのである」(『神の国』XIV, 28, 岩波文庫訳第三巻362頁)。