un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ジャン・グロンダン「ハンス=ゲオルク・ガダマーとフランス世界」(2000)

[以下は Jean Grondin, Hans-Georg Gadamer und die französische Welt, in: Günter Figal (Hg.), Begegnungen mit Hans-Georg Gadamer, Stuttgart 2000 (Reclam), S.147-159 の翻訳。ジャン・グロンダンはフランス系カナダ人の解釈学者で、ガダマーやリクールの研究で有名。もともとゆるい企画の本なので内容は十分論証的といえないが、フランスとドイツにおける「解釈学」「人文科学」「解釈」(ニーチェ)の意味内容のズレに焦点を当てつつ、〈なぜガダマーはフランスでウケなかったのか〉について興味深い指摘をしている。]

 

 

   ハンス=ゲオルク・ガダマーとフランス世界

 

 フランス世界に対してはしばしば、〈フランス人は内輪でいるのが好きで、パリやセンセーションを引き起こすもののところにいるのをもっとも好む〉といったようななにか侮蔑的なことがくり返し言われている。この偏見はとりわけ哲学で支配的である。しかしそれは、フランス哲学の異常なまでのドイツ愛によって嘘であることが明らかにされている。ベルクソンから、コジェーヴサルトルメルロ=ポンティレヴィナス、リクール、フーコードゥルーズを経てデリダにいたるまで、二〇世紀のフランス哲学はカント、ヘーゲルニーチェフッサールハイデガーフロイトマルクスを抜きにしては完全に沈黙せざるをえないし、そもそも自らをイメージすることもできない。二〇世紀においてこのことは、ハイデガーに関してよくあてはまる。ハイデガーの国際的な意義がもつ過小評価されるべきでない部分は、フランス世界においてハイデガーが受けた反響におそらく立ち戻らせることにもなるだろう。全世界をその魅力に引き込んだもっとも重要な潮流だけを示すなら、ハイデガーサルトルの実存哲学やデリダ脱構築、そしておそらくはフーコー系譜学の研究の背後で疑いなくミューズとなっていた。それゆえハイデガーは、主体の哲学が緊迫化したさいも、脱構築においてこの主体の哲学が徹底的に問いに付されたときもそれらの素地となっていたのだった。これに関しては、〈容易にできることではないIl faut le faire〉と言われるにすぎない! しかしハイデガーのこの地震のごとき影響力は、その弟子であるハンス=ゲオルク・ガダマーの著作に対してフランス人がかつてとった反応とははなはだしく対立している。たしかにハイデガーとガダマーはまったく比較できる重要人物でない、と反論することができる。しかしこうした反論に対しては、〈とはいえフランスへの影響は、たとえばアメリカやイタリア、また東欧諸国においても看取されるガダマー受容にはっきりと遅れをとっている〉と反証することができよう。そのさいこれらの国々においてガダマーは、古典的著者の地位にまで高められている。〈すべてのものは解釈と言語によって媒介されている〉というあらゆる解釈学的テーゼの中でもおそらくもっとも知れ渡ったテーゼは、分析哲学に対してさえ訴えかけるところがあり、分析哲学においてもなんらかのガダマー受容について語ることができるほどである。

 それゆえ[ガダマーの]フランスでの反応は控えめなものだった。ガダマーとデリダが八〇年代の始めに出会ったとき、そこで行われた議論のフランス側の編集者はすでに「まったく縁のないunwahrscheinlich論争」(1)について語っていた。これには本当に驚かざるをえない。いったいなぜガダマーとデリダとの論争はかくもまったく縁のないものとなるにいたったのか。そうはいってもこの論争は、ハイデガー思想をもっとも際立ったかたちで継続させたのではないだろうか。とりわけガダマーとデリダが示唆した解釈学と脱構築の諸概念がハイデガーにおいてはほとんど同義語であったのであれば、この遺産の共通の地盤で意思疎通することは本当に不可能なのだろうか(2)。じっさい、たとえばハイデガーによる下準備、哲学におけるドイツ愛、ガダマー特有の芸術、修辞、詩への愛、だがとりわけ〈われわれの経験は歴史的に言語的である[言語に媒介されている]〉という解釈学の根本洞察に対するフランス人の親近感など、こうしたことすべてはフランス人にガダマー思想を受容させやすくしているように思えた。同様に、すでに言及した〈すべては解釈と言語である〉という人気の解釈学的テーゼはつまるところ、ニーチェハイデガーを通過したフランス哲学の基本的確信である。サルトルフーコードゥルーズデリダのような著作家のフランス思想は例外なく解釈学的ではないのか。私が公平に理解するに、(しばしば有益な)距離をとることでフランスとドイツの基本アプローチをその共通の「大陸的」特徴において認識させてくれるアメリカにおいてはとりわけ、じっさいこうしたことがしばしば見受けられる(また苦情が呈される)。私が解釈学のうちにハイデガー以後の思想のもっとも一貫した発展を見たとき、おそらくこのアメリカの[見方への]近さは、カナダ人である私には有益なものであった。

 しかしフランス人(言語の上でだけなら私もフランス人であり、そのことは解釈学にとってすでに利点である)によってとられた反応は、ガダマーの著作に対しどう表明されているのか。例によって偶然的な理由がある役割を果たしている。そうした理由に数えられるのは翻訳の質である。この観点で言えばフランスにおいて『真理と方法』はとんでもない目にあった。まず同書の翻訳は、リクールと親密な関係にあったスイユ社から一九七六年に刊行されるが、それは二〇〇ページほど切り詰められた版であった。つまり出版社は、著作の分量があまりに多すぎる(このこともまた[フランスにおけるガダマー]受容の障害の一つであった)と考え、『真理と方法』の第一部と第二部の始めにあった「歴史」の章[*1]がそっくり抜け落ちたのだった。後にガダマーはこれに関し冗談で(もしくは冗談半分、真実半分で)、〈この翻訳によってリクールは、自分の解釈学と競合する恐れのある解釈学の受容の道をさえぎろうとしているのだろうか〉と語ったのだった。先ごろ亡くなったピエール・フリュションが一九九六年になってようやく完訳を成し遂げ、私もそれに協力した。この完訳からより大きな影響が及んでいくかどうかは、待たれるところである。

 しかしこれまで翻訳が存在しなかったという理由は、ためらわれた[フランスにおける]ガダマー受容を説明するのに十分とはいえない。それは、八〇年代の中頃になってようやく刊行された『存在と時間』の完訳が存在するはるか以前から、じっさいフランス人はハイデガーに魅了されていたからである。別の偶然的な要因が役割を果たしていたとすれば、それはたとえば、解釈学受容の地盤となるはずであったフランスのハイデガー学派がまったくといっていいほど解釈学者でなかったという事情である。ジャン・ボーフレ[1907-1982]のような学派を形成しつつあったハイデガーの紹介者はもともと、とりわけ実存主義フッサール現象学を研究する者であった。ボーフレの無数の著作はたしかに有益なものであるが、それらのうちに解釈学に関する記述はほとんど読み取ることができないし、彼の非解釈学的なハイデガーの読み方は、後の世代全体に受け継がれていった。ハイデガーフッサール(彼のデカルト主義はいうまでもなくフランス人の琴線に触れたに違いない)の後継者として現われ、そしていまもそうであるのに対し、ドイツにおいてハイデガーは(どんなに共通するところがあるとしても)むしろフッサールに対立する存在とみられていた。ドイツにおいて、時間性、歴史性、事実性といった見紛うことなき非フッサール的な強調点は、むしろあたり前のようにディルタイ、ドイツ・ロマン主義、解釈学の伝統への影響効果に引き戻された。オットー・ペゲラーは折にふれて、フランス人の「ディルタイとは異質」な思考について語っていた。そのさいペゲラーに対しては〈たとえばレイモン・アロン[1905-1983]、ジョルジュ・ギュスドルフ[1912-2000]、ポール・リクール[1913-2005]などの例が教えるように(3)、フランス世界にディルタイを紹介する者がいなかったわけではない〉という反論がなされるだろうが、それらのディルタイ受容は「ハイデガーとは異質」であったために、ディルタイハイデガーの共通の由来を認識するのが困難なほどであった。

 欠陥のある翻訳や非解釈学的に裁断されたハイデガー受容を度外視するなら、私見によると、フランスにおいてためらわれたガダマー受容はとりわけ次のような状況によって説明される。すなわち、〈ガダマーの多くの主題や概念はフランスにおいてすでに「所有」されていたが、それはガダマーの企図という[フランス人にとっての]異質性が制御することのできない仕方で所有されていた〉という状況によって説明されるのである。以下、このことは解釈学、人文科学、解釈Interpretationという疑いなく中心的な概念に基づいて概略的に示されねばなるまい。

 まずガダマー以前にすでに解釈学概念を所有し背負っていたのは、とりわけリクールであった。ポール・リクールの多層的な著作は長い間、解釈学と同一視されているが、彼の出自からすればガダマーとの関わりは(もしあるとしても)ほとんどない。六〇年代から七〇年代における解釈学のためのリクールの決定的な仕事といえば、『解釈について – フロイト論』(一九六五年)や『解釈の葛藤』(一九六九年)や『生き生きとした隠喩』(一九七五年)が思い浮かぶだろうが、これらの仕事は『真理と方法』から明らかに独立して成立している。つまりこれらの著作においてガダマーとの関連性ははじめから存在せず、後になってごく稀に、まったく二次的なかたちで存在するようになる[*2]。リクールによる解釈学の取り組みは、あきらかに五〇年代においてなされた宗教的象徴の解釈学のための研究にまで遡る。この研究によってリクールは、ブルトマンのプロテスタント神学とディルタイ流の人文科学の解釈学との対話にとりかかるようになった。以来、リクールにおいて解釈学は、客観化も辞さない[記号の媒介を経る]哲学のためのものとなり、その哲学はもっとも広い意味での多義的な記号、すなわち象徴、隠喩、物語り、歴史、そして最終的には自己の哲学であって、リクールは『時間と物語』(全三巻、一九八三年~八五年)と『他者のような自己自身』(一九九九年)というこれより後の研究においてこの哲学を仕上げたのだった。ガダマーにしてみると、あからさまにディルタイの方法論的発想に固執するリクールは依然としてデカルトの残滓のようにみえ、またリクールの側からすると、[自らの]方法論の求めるところを凌駕するかに思える事実性という一般解釈学のハイデガー的(また実質的にガダマー的)な地盤に足を踏みいれることはためらわれたのだった。この点でリクールはディルタイによってハイデガーに対し予防線を張り、ガダマーの方はハイデガーによってディルタイに対し予防線を張ったのだった。それゆえガダマーとリクールとの対話はかくも困難なものとなり、じっさい行われることはなかった(4)。だがこのことはフランスでのガダマー解釈学(その成立はもちろんリクールといっさい関わりがなかった)の受容を困難なものにしてしまった。それゆえ、ガダマーがその普遍性を宣伝した解釈学はフランスではリクールと同一視され、それによってさらに解釈学の神学的起源とも同一視された。これはある意味リクールにとって不当なことであったが、すべてを曖昧なままにしてしまう世間において、解釈学には神学的なものの匂いがこびりつくことになった。じっさい、象徴の解釈学はそもそも宗教学に由来していた。リクールは、フロイトマルクスニーチェ構造主義者といった懐疑の大家と、「意味の再獲得récollection du sens」に向けられた解釈学とを対峙させた時、この象徴の解釈学に復古的な意味をも与えているように思えた。構造主義による記号のエコノミーの影に隠れているが重要であると思われたのは意味を救出することであり、リクールはそうした意味を(たとえば意味の信頼、目的論、終末論などの)神学的負荷のある概念で書き換えることをほとんどしなかった。このように復古的な響きをもつ解釈学は、クロード・レヴィ=ストロースジャック・ラカンといった当代の敵対者と厳しい対立関係にあった。彼らの反解釈学的な触れまわりで、解釈学は偽装された〈意味の神学〉にすぎなくなる可能性があった。その他のところでいうなら、デリダはこの復古的で宥和的な〈意味の解釈学〉を依然として前提にし、結果的に彼の脱構築はむしろ懐疑の解釈学の戦線を継続しているように思える。もちろんフランス語圏のこれらの論争はガダマーとは完全に無縁なものであるが、ガダマー独自の伝統や権威の強調は、フランスで知られているだけでも、解釈学に対する復古的(5)でいうまでもなく「反動的」な偏見を強化せざるをえなかったのであり、ドイツにおいてもガダマーのこの強調は無反論ではすまされなかった。 

 人文科学におけるガダマーの試みは、彼が受容された限りのところで言うなら、やはり不確実なものとならざるをえなかった。ディルタイ以来の解釈学の伝統においてガダマーがどれほど自明な存在であったとしても、「人文科学sciences humaines」の概念は六〇~七〇年代のフランスにおいて[ガダマーが想定していたのとは]完全に別の意味合いをもっていた。つまり人文科学ということで、フランス語圏ではむしろしばしば「人文教育lettres」とみなされる(文献学、歴史などの)伝統的なドイツの人文科学[精神科学]Geisteswissenschaftenが連想されたのではなく、むしろ最近成立し、構造主義が尽力した「人間科学Humanwissenschaften」、つまり言語学ソシュール)、民俗学や人類学(レヴィ=ストロース)、心理分析(フロイトラカン)、マルクス主義的諸科学(アルチュセールの命名)が連想されたのだった。これらの学問が当時フランスにおいて「人文科学sciences humaines」と呼ばれていたのであり、その理論的な大家はおもにミシェル・フーコーであった。じっさい彼の主著『言葉と物』には「人文科学の考古学」という副題がついていた。しかしこれら人文科学は、有意味なものの普遍的構造をもとめることによって、あろうことか、その反人文主義的、反解釈学的で、純粋に客観化可能な、しかし革命的でもある試みによって自らを特徴づけていた。つまり人文科学は、伝統的な哲学の終了をただちに約束するように思えたのだった(そうした人文科学の理論家が後期ハイデガーを信奉していたことも、それを説明しやすくしてくれる)。守勢を余儀なくされた伝統的哲学の方は、今にも押し入ってこようとする人文科学(その進軍は一九六八年五月の騒乱[*3]の影で多くの者が推測したことだった)に対抗しようとした。このような状況下では、人文科学におけるガダマーの試みは誤解をもたらすだけの可能性があった。じっさい古典的哲学の代表者たちは人文科学に恐怖感を抱き、人文科学の代表者たちからすれば〈ガダマーは人間科学を根本的に誤解している〉と結論せざるをえなかっただろう(6)。この文脈では、[ドイツの]人文科学の解釈学は誰にとっても特に興味をそそるものではなかった。

 解釈の概念はおそらくここで取り上げられるべき[フランスにおけるガダマー受容の]最後の障害である。私がこの概念と結びつけるのは、一般的解釈学にかんして期待してよいと思われるある錯綜したテーマである。サルトルメルロ=ポンティフーコードゥルーズ、リクール、デリダらの試みはかくもさまざまに見分けられるが、われわれの世界経験の解釈的性格を承認する段になると、これらの試みは一致したのだった。「すべては言語である」、「すべてはパラダイムもしくはエピステーメーによって制限されている」、「事実ではなく、解釈だけが存在する」――こうしたことがスローガンであり、彼らの思想や挑戦とこれらのスローガンは好んで同一視されている。こうした確信によってまた容易にニーチェが立ち戻るべきところとなり、周知のとおりニーチェハイデガーと並んでフランス哲学の偉大な霊感となった。解釈の一般理論は、簡単に思いつくという理由から、おそらくかろうじて解釈学という題目の下で受容される可能性があるだろう。しかしここでガダマー流の解釈学を想起すると、間違いなく期待を裏切られることになるだろう。ガダマー解釈学はたしかに一般解釈学を発展させたが、それはまったくといっていいほどニーチェを気にかけていないようだった(7)。ガダマーにおいても「解釈」や「パースペクティヴ」といった[ニーチェに]関係する概念が存在するが、それらは一般解釈学のうちで認められている位置価を占めているようには思われない。明らかにガダマーは、理解、解釈Auslegung, 先入見、地平といった別の概念の方を好んでおり、そうした概念のもとではたしかに[ニーチェが想定していたのと]同一の経験が推測されてもよい。しかしここで語ることが許されるのはガダマーのある種のニーチェ離れであって、このニーチェ離れのせいで、ニーチェハイデガーに友好的なフランス語圏におけるガダマー受容は推し進められることがなかったのではないか。

 ガダマーのニーチェ離れは個人的な反感で説明されるべきものでなく、これには事柄上の理由がある。つまりガダマーはニーチェの解釈学的な徹底ぶり(すべては解釈であるがゆえに、真理はない)のうちに、秘密のデカルト主義に基づいた思考の短絡を見出したのである。存在しない真理とはデカルトの真理、すなわちに「揺るぎない根拠fundamentum inconcussum」基づいた、ただちに確実な真理のことである。こうした真理と比較することによってのみ、完全に相対的で相対化可能なつつましい「パースペクティヴ」や「解釈」といったわれわれの理解の試みが引き立ってくる。ガダマーにとってこれが偽推理Paralogismusとなるのは、ニーチェが〈あらゆる真理と了解がそのように相対的になってしまった〉と秘密のデカルト主義から帰結する場合である。〈こうしたことは、デカルト的・方法的な真理を前提とする場合にのみ論拠をもつ〉とガダマーは推論する。それゆえガダマーの解釈学全体は、経験に遡って、より正確に言うならこうした方法的真理に吸収されずにわれわれの理解全体を養う真理の経験に遡ってこれを思い出そうとすることにあり、そうした真理が解釈学的真理なのであって、われわれはたとえば他者や芸術作品との出会い(そこでは真理が距離化よりもむしろ関与に基づいている)のうちにこの解釈学的真理を経験する。

 ガダマーはさらなる思考の短絡をニーチェニヒリズムのうちに認めようとしており、ハイデガーもエルンスト・ユンガーもそのうちに〈もはや何の支えも価値も存在しない〉という現代の徴候を見たのだった。〈こうしたことが説得的となるのは、時代を超えた支えや絶対的な価値を期待している場合だけである〉とガダマーは論じている。とはいえプラトン以来、こうした支えや価値がわれわれの有限性と両立しないことは痛いほどわかっている。神々だけがそうした確信を自由に抱きえるのである。だがこのことは、われわれにはどんな支えもないと言っているわけではけっしてない。われわれの証明要求が最終的に拠り所とする真理が欠けていることと、あらゆる支えが不在であること、もしくは救いようのないパースペクティヴ主義とを同一視することは、ガダマーの知的高慢な目(8)でみた場合の話である。はたして連帯は存在しないのだろうか、対話や了解や会合の持続的な共同体は存在しないのだろうか。こうしたものが欠けていることすらも、その持続的な力を証ししている。それは、たとえあらたな連帯を首尾よく形成し得る方針を欠いた地盤にすぎなくても、ある種の共通の地盤が共有されている場合にのみ、方針が不在であることに苦しみ、それを嘆き悲しむことができるからである。

 私にはこうしたことすべてが、ガダマーの慎重なニーチェ離れ(そのあり方はニーチェ寄りのようにも十分読める)を説明しているように思える。ガダマーのニーチェ離れはたしかにフランス哲学との対話、とりわけデリダとの対話を容易ならざるものにした。このことが残念であるのは、とりわけガダマーとデリダが、この実現することのなかったニーチェをめぐる対立においてそれぞれお互いからもっともうまく学ぶことができたかもしれないという理由による。対話の不在が惜しまれるのは、思考が要求されるのはまさに対話が困難な場合だからである。脱構築も解釈学も他者と出会いたがっているくせに、始まるのはいつも自分自身の下でである。

 

 

 

 

(1)このように(逆説的な仕方で!)述べたのは、フィリップ・フォルジェによって編集された『テクストと解釈 - ジャック・デリダ、フィリップ・フォルジェ、マンフレート・フランク、ハンス=ゲオルク・ガダマー、ジャン・グレーシュ、フランソワ・ラリュエルの寄稿論文によるドイツ・フランスの論争』(ミュンヘン 1984年)[翻訳『テクストと解釈』轡田・三島他訳、産業図書、1990年]の巻頭寄稿論文「まったく縁のない論争の手引き」だった。ガダマー・デリダ論争の背景と後々への影響に関しては本稿では表立って述べられていないので、以下の私の書き物を参照のこと。Jean Grondin, Hans-Georg Gadamer. Eine Biographie, Tübingen 1999, S.365ff. また »La définition derridienne de la déconstruction. Contribution au rapprochement de l’herméneutique et de la déconstruction«, in: Archives de philosophie 62 (1999) S.5-16.

(2)それらの概念はハイデガーの主要作品の同一部分のうちにほとんど現われているようにも思える。ハイデガーは事実性の解釈学に関する1923年の夏学期講義において、「解釈学は解体Destruktutionである」(GA.63, S.105.) [翻訳、ハイデガー全集第63巻『オントロギー』付録と補遺、「そのつどその場所で具体的な研究へ。つまり、歴史的な研究。アリストテレスアウグスティヌスパルメニデス。(解釈学は解体である!)」(111頁)]と記してもいる。解釈学が解体であるのは、現存在や諸現象へのアプローチが、このアプローチを隠蔽している概念(ハイデガーによればこの概念はけっきょく現存在の自己隠蔽に行き着く)を解体しほぐしてやる途上にのみ存在するからである。ハイデガーに関してしばしば誤解されるこの解釈学の意味に関しては、以下の私の研究を参照。Grondin, »Die Wiedererweckung der Seinsfrage auf dem Weg einer phänomenologisch-hermeneutischen Destruktion«, in: Th. Rentsch, Heidegger: Sein und Zeit, München 2000 (Klassiker Auslegen).

[*1]つまり、カントの趣味判断を論じた第一部第I章の「美学的次元の乗り越え」と、解釈学の歴史を扱った第二部第I章の「真理への問いを人文科学における理解へと拡大すること」が抜け落ちたことになる。

(3)ディルタイとドイツの解釈学の伝統に強く結びついたものとしては、たとえばレイモン・アロンの注目されてこなかった以下の著作や、ジョルジュ・ギュスドルフの以下の二つの著作がある。Raymond Aron, La philosophie critique de l’histoire (1938), Paris 1987, Georges Gusdorf, Introduction aux sciences humaines. Essai critique sur leurs origines et leur développement, Publications de la Faculté des letters de l’Université de Strasbourg, 1960; Les origines de l’herméneutique, Paris 1988. 最近のものとしては以下を参照。Sylvie Mesure, Dilthey et la fondation des sciences historiques, Paris 1990. リクールのディルタイとのつながりについては、[本論の方で]急いで戻ることにしよう。以前からフランスにおいてハイデガーは、(たしかに脱構築的であるが)フッサールとの連続性のうちでみられている。ここではジャン=フランソワ・クルティーヌとジャン=リュック・マリオンの以下の著作が道しるべとなる。Jean-François Courtine, Heidegger et la phénoménology, Paris 1990. Jean-Luc Marion, Réduction et donation. Recherches sur Husserl, Heidegger et la phénoménologie, Paris 1989; ibid, Etant donné. Essai d’une phénoménologie de la donation, Paris 1997. これらの著作において解釈学とガダマーはそもそもなんの役割も果たしていないが、クルティーヌもマリオンもハイデガーによる現象学の変革を主題としながら、その解釈学的展開を理解しようと手を尽くしていないだけに、このことはなおさら不思議である。

[*2]仔細にみるなら、60年代においてリクールが取り上げるのはガダマーではなく、むしろハイデガーであった(「ハイデガーと主体の問い」[1968])。70年代の前半になると「テクストとは何か」(1970)や「説明と理解」(1972)でディルタイが扱われ、1975年の「解釈学の課題」や「疎隔の解釈学的機能」においてようやく『真理と方法』(1960)の中身が論じられるようになる。

(4)これに関しては以下の学位論文を参照。Jean-Loiis Guillemot, Le conflit des herméneutiques. Gadamer et Rcœur en débat, Otawa 1999. 両者の対話は文章化された出会いのうちでわずかに知られるだろう。Paul Ricœur / Hans-Georg Gadamer, »The Conflict of Interpretations«, in: Roland Bruzina / Bruce Wilshire, Phenomenology. Dialogues and Bridges, Albany 1982, S.299-320.

(5)確固たる意志でガダマーに取り組んでいる数少ないフランス人の一人、ピエール・フリュションの仕事(L’herméneutique de Gadamer, Paris 1994)は、ガダマーのうちにとりわけ(近世の主観の哲学に対抗し、ハイデガーの歴史体相対主義にも対抗する)プラトニズムの刷新者を露にさせたいと思っている点で、解釈学を「復古的」と捉えるこの伝統のうちにも立っている。フリュションによる反近代的な解釈の理論的方向づけは紛れもないものでもあった。ガダマーのプラトン理解にかんして二次文献全体を考慮している叙述をわれわれが読めるのは、フランス系カナダ人のフランソワ・ルノーのおかげである。François Renaud, Die Resokratisierung Platons. Die platonische Hermeneutik Hans-Georg Gadamers, St. Augustin 1999.

[*3]1968年のいわゆる五月革命のこと。1966年のストラスブール大学での大学民主化運動に端を発するこの動きは、ベトナム反戦運動などと呼応し、フランス全土に拡大。各地で労働者のストが起こり、フランス社会は長期にわたり完全に麻痺状態となった。さらに五月革命は、フランスやドイツの大学における学問研究のあり方にも波及し、旧態依然とした人文科学の教養主義は悪しき伝統として厳しく批判された。ちなみにこの一連の学生運動のなかでも特に勢いの激しかったパリ大学ナンテール校で学生側との折衝役を務めたのは、当時同校の校長であったリクールである。

(6)ミシェル・フーコー『言葉と物』(Paris 1966, S.376)参照 [翻訳、 渡辺一民佐々木明訳、新潮社、新装版2000年]。「それゆえ、人間の問いがあるところに必ず「人文科学」があるのではなく、意識にその形式と内容の条件を明かしてくれる規範、規則、有意味なもの全体が無意識という固有の次元において分析されるところに必ず人文科学があるのだ、と述べられるだろう。それ以外の場合で「人間の科学」について語ることは、言葉の純然たる濫用である」。ガダマーと、哲学のアウトサイダーであるフーコーとが互いに見知りあうことはなかった。ガダマーがフーコーの客観化的視線に反感を感じ、同様にフーコーがガダマーの人文主義に反感を感じたという点から出発するにしても、ガダマーの影響作用史とフーコーエピステーメー[=知の体系=学問]という発想との間の驚くべき類似性は疑いなく存在したのであって、それはとりわけ両者とも基礎的な言語的要素なけでなく、意識の限界を示唆しているからだった。人間の死にかんするフーコーのセンセーショナルな議論は、ガダマーによる近世的意識の破壊のうちにその対応物を見出しもした。

(7)ヨハン・フィグルの以下の重要な研究がなされて以来、このことはニーチェ研究のトポスとなり続けている。Johan Figl, »Nietzsche und die philosophische Hermeneutik des 20. Jahrhunderts«, in: Nietzsche-Studien 10-11, 1981-82, S.408-430. このテーマに関する文献としては、アラン・D・シュリフトのきわめて正確に裁量された仕事が依然として突出しているが、それはこの仕事がデリダとの論争を考慮しているからである。Alan D. Schrift, Nietzsche and the Question of Interpretation. Between Hermeneutics and Deconstruction, New York / London 1990. フランス世界に関してはジュヌヴィエーヴ・エベールの代表的な照会を参照せよ。Geneviève Hébert, »Nietzsche, malin genie de l’herméneutique?«, in: Jean Greisch (Hrsg.), Comprendre et interpreter. Le paradigme herméneutique de la raison, Paris 1993, S.311-341.

(8)これに関しては、リチャード・J・バーンスタイン宛の1982年の彼の手紙に示唆的な言葉を参照。なおこの手紙は以下のように再版されている。Richard J. Bernstein, Beyond Objectivism and Relativism: Science, Hermenetics, and Praxis, Philadelphia 1988, S.263.「われわれはみな、ニーチェの先取りや現在のイデオロギー的混乱と、現実にすごされている生活やその連帯とを同一視することで、ひどい知的な高慢の虜になっていないだろうか。じっさいこの点で、私とハイデガーは根っから異なるのである」。「ニーチェ-正反対の人:ツァラトゥストラのドラマ」という特徴的なタイトルで1983年からなされたガダマーの研究を参照。Gadamer, »Nietzsche – der Antipode: Das Drama Zarathustras«, in: Gesammelte Werke, Bd.4 Tübingen 1987, S.448-462.