un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ジャン・スタロバンスキー「ヤウス『美的経験のためのささやかな弁明』フランス語訳版への序文」(1978)

[以下は Jean Starobinski, »Préface«, dans: Hans Robert Jauß, Petite apologie de l’expérience esthétique (trad. par Claude Maillard), Gallimard: Paris 1978, p.7-21 の翻訳。ガダマー流の地平・伝承論から美的経験論へと展開していったヤウスの受容理論。それをフランスに紹介したスタロバンスキーの序文。]

 

 

 

     美的経験のためのささやかな弁明

                   序文

             

 

 ハンス・ローベルト・ヤウスの主要な研究はスペイン語、セルビアクロアチア語、日本語に翻訳されたにもかかわらず、またアメリカの評論雑誌はヤウスの著作がもっとも注目すべき「プログラム」であることを知らしめ、これに関連する論争の速記文章(1)をそこに掲載すらしたにもかかわらず、ヤウスの仕事は今日までフランスで中世文学に関係する二、三の論文(2)によって知られているだけで、文学研究の課題と文学の機能それ自体に関連する主要著作によっては知られていない。しかしながら今回都合よくその翻訳が極端な時間的ズレもなくなされたが、レオ・シュピッツァーやエーリッヒ・アウエルバッハやフリードリッヒ・ウルファースはこのズレに苦しんだのだった。彼らにとってフランス語への翻訳は、遅れたにもかかわらず歓迎され、不正を正し、看過されかねない解釈に接することができるようにした。だが正しいかどうかは別として、これらの翻訳は六〇年代と七〇年代の方法に関する論争に影響を及ぼしうる状態にはなく、この論争は多くのところ構造主義記号論によって支配されていた。[しかし]ヤウスの場合は事情が異なる。というのは、ヤウスの反省の出発点や、彼がきわめて緻密に吟味し議論する問題が、今日フランス語圏の国々において多くの場面で問われている問題だからである。ヤウスついて私の推測するところでは、本書はただちに自らにふさわしい読者を獲得するだろうし、じっさいドイツでそうであるように、きわめてうまく根拠づけられた議論によって文学史と文学理論の活動が正当化されるのを見たいと切望している者たちが、非常の力強く主張されたヤウスのテーゼを考慮することになると思われる。ヤウスの著作を熱心に傾聴し受容することが、フランス文学研究の利益を思えばこれを進展させることにつながると、私はすすんで信じる。

 二つの関心がわれわれをヤウスの「プログラム的」著作に結びつける。すなわち一方で、彼の著作の独創性、強靭な定式化という関心が、他方で哲学的、美学的、「方法論的」である比較的最近の学説の非常に広大な領域という関心がわれわれをヤウスの「プログラム的」著作に結びつけるのであって、本質的な論点にまで行き着いた報告書や議論の最後ではいつも、ヤウスの著作はこの学説を拠り所にするか、その忠告を受け入れるか、拒否するかしている。しかもヤウスは原理を「体系」へと組織化するよりもむしろ、将来の課題へと誘う全体へと組織化し、これを派生や対立によって特徴づけているが、われわれがせいぜいできるのは、そうした特徴づけのさいにヤウスが自由に用いている情報量の多さをここで賞賛することくらいであろう。われわれはとりとめのない見せびらかしや、たんなる学説史家の中立性をヤウスのうちに見出すことはけっしてないだろうし、また傲慢にも異なる時間と場所で考えられたものを知らないままに、孤独な発案者の頭脳から完全武装で生じた体系の閉鎖的な教条主義を見出すこともけっしてないだろう。ヤウスが精通している理論や歴史の領域がひどく広大であるとしても、それは、思想領域のなかに位置を同定できる可能なかぎり多くの立場との関係で自分自身の立場をはっきりさせることが彼にとって重要だということである。この受容の理論家は〈再受容すること〉と〈受容すること〉によって議論を始める。私がヤウスを読むにあたって感じる楽しさや利益は、多くのところ、(論争のさいに何度となく際立つ)その対話への開かれや、注目しなければならないものを何一つ省略しようとしないその意志に基づくものであり、またあたらしい問題や応答が非常に実りのあるかたちで現われ始めるさいに[それらを]一刀両断する勇気、決断する勇気、居心地のよい折衷主義にけっしてしたがわない勇気、難関を乗り切る勇気に基づいている(しかもわれわれは、ヤウスが数年の間に自分自身を改め、「乗り越えている」ことに気づく…)。論争の掛け金となっているものをはっきりさせるには、ヤウスが自らの学説に関する提案を思いとどまったにせよ、自らの主張に異議を唱えているにせよ、彼が密接に関わっている学説の中身を概略的にでも指摘してやれば十分である。目下のヤウスの学説がきわめて多様な起源から生じているとしても、これらの学説はすべて、フランス語圏の国々においてなんらかの仕方で変えられたり翻案されたりしながら提起されている。われわれは、ヤウスが応答してみせた諸体系のうちに何一つまったくなじみのないものと出くわすことはないだろう。ヤウスが応答した体系には、たとえば(フッサールインガルデン、リクールの)現象学があり、ガダマーにおいてなされた「解釈学的」な延長のなかにはハイデガーの思想があり、W・ベンヤミン、G・ルカーチ、L・ゴルトマンのもとで表明され、とりわけフランクフルト学派アドルノハーバーマス)によって定式化された「イデオロギー批判」におけるマルクス主義があり、プラハの理論家(ムカジョフスキー、[フェリックス・]ヴォジチュカ)の「フォルマリスト」の研究があり、多様な構造主義レヴィ=ストロース、R・バルト)があり、「ヌーヴェル・レトリック」[*1]などがある。じっさいわれわれの知的風景、数多くの証言者によって例証されるわれわれの「問題」ないし学派の布置がここにあることをわれわれは再認識するのであり、それらのうちのいくつかは場合によってはパリの人々にあまりなじみのないものである。

 また同時代の他の理論的プログラムとの関連でいえば、ヤウスの理論的発言は孤独のうちに展開したのではないのと同様に孤独の弊害をさほど被っていないのであるが、[これに対して]多くの理論家はじっさいに読まれた著作や「全集corpus」のささやかな一節から自らの体系を作り上げているにもかかわらず、彼らはいっそう重々しい孤独を自らに課している。ヤウスにおいて、テクストと接するさいに得られる文学的経験は比較し得ないほどの広大さを有する。(ドイツの大学の文献学的伝統による)「ロマニスト」の教育のうちで、ヤウスはフランス語の文体やフランス文学の進化、現在にとっての起源にしっかり狙いを定めている。ヤウスの理論的な問いかけを進展させ、養っているもの(理論が語るものについて理論自身にわからせるもの)は、文学との親密さ(また文学史に関する明確な問いとの親密さ)である。[文学と理論との]行き来は迅速で、絶え間なく、理論の問題と応用研究の問題は相互的である。プルーストに関する博士論文(3)、非常に多くの著者(そのうちにはディドロ、ボードレールフロベールがいる)に関する仕事、動物詩Tierdichtungや中世のアレゴリーに関する総合的研究(4)、モデルニテ概念の進化に与えたシャルル・ペロー[*2]『古代と現代との比較対照』の重要性に公正な光をあてる序文、記念碑的な『中世のロマンス文学綱領』(5)の構想と(E・ケーラーとの共同)監修――こうしたヤウスの仕事は彼が取り組んだ具体的な課題の着想を教えてくれるものであり、これらの課題から彼は基礎的な問いを吟味し、歴史家の役割、大学教育の存在理由、文学におけるコミュニケーションや社会におけるその変形の機能に関わるようになったのだった。

 どんな批評家も、どんな歴史家も現在の場所から語る。しかしそのことを自分の反省対象にしようとしてその現在の場所を考慮する者はほとんどいない。同時代の中心問題、現代の危機と可能性は、ヤウスにおいてそれぞれの理論的研究の出発地点と到着地点を示している。すなわち彼にとって重要であるのは、〈今日、文学の機能とはどのようなものか?〉〈過去のテクストとわれわれとの関係をどのように考えればよいいか?〉〈転換期に接しながらなされる研究はどういったアクチュアルな意味にたどり着きうるか?〉という優先的な問いである。一見するとこうした問いは、自らの学説を実証主義者のルーティーンにはまり込ませないよう気を配り、自らの同僚やもっと幅広い公衆に対し〈この立派な学説は目下の状況によって要求されている刷新l’aggiornamentoたりうる〉ことを証明しようとする文献学の問いであるように思える。しかし大学制度に対して(もし大学制度が存続したいのなら)重要な影響力をきわめて明解にもつヤウスの提案は、ある非常に広範なパースペクティヴのうちに含まれていて、それは行為をなすための規範の文学的で創造的な総体であったという(言語や芸術一般を手段とした)コミュニケーションの目下の可能性を問うている。自分自身の仕事が時間のうちに組み入れられていることを自覚しているヤウスは、それだけに自分自身の仕事と過ぎ去った過去とを隔てる距離をいっそう適切に測定するが、過去のメッセージの方はたえず彼の仕事に届いてくる。それは、歴史を回顧する眼差しが非常に高度なところで関連性をもちつつヤウスにとって重要となるくらい、目下の瞬間の歴史性が非常に生き生きとした仕方でヤウスに認められるからである。つまりじっさいの世界の中心問題は、〈断絶や対立や漂流を見定め、伝統(その執拗な存続は変異や再構成によってのみ可能であった)に対して自らの位置をはっきりさせる意識〉にだけ十全に捉えられるようになるのある。それゆえ現在に対し自らが感じている責任によって、ヤウスは歴史家(文学史家)であることを断念しないよう思いとどまるが、この思いとどまりはちょうど伝統的な相貌の文学史が自らの効力や魅力を失ってしまったかに思える時になされる。ここでわれわれが読むことになる諸研究は、文学史の防衛と例証を呈示すると同時に、その身分の根本的修正をも同時に呈示する。つまり歴史家の注意の向かう先を変更するよう求めるのである。したがって[文学の]歴史は、あらたな対象を見定め、高まる責任感を持ちながら、「文学理論」に対する実り豊かな挑戦を企てうる状態にあることに気づく。この文学史に対する挑戦には、文学史の正当性に異議を差しはさむのではなく、「構造主義的」アプローチが「通時的」次元の放棄を必然的に含んでいると思われた数年後でも、言語表現や文学作品の歴史的次元の調査をふたたび引き受けるよう文学史に求める効果がある。こうしたことが、一九六七年のプログラム的な著作『文芸学の挑発としての文学史』の意味である。

 

 

 ヤウスの論争は、[現実と虚構を]分離する者すべてに対して、また現実を虚構の実体、いわゆる永遠の本質に還元する者すべてに対して向けられている。ロマン主義は国民の様式les genies nationauxを絶対化し、歴史主義は時代が閉じたもので、それぞれの時代が「神に隣接」(ランケ)していて、現代から切り離されたものであると見込んでいた。実証主義は精密科学のモデルに順応することが正しいと信じていた。しかし実証主義は、正確な因果関係に到達することなく、数限りない資料とその感化のうちに埋没していった。比較的最近の著者が書いた物では、理念史、つまりトポスの歴史が根本的な「主題」の継続を要請し、歴史性を免れている。逆に歴史性を正当なものとみなそうとするマルクス主義では、文学作品は無意識的な反映か、もしくはつねに文学作品に先行する社会経済的現実の意図的な模倣である。実体といういかがわしい特権的存在は下部構造へと移行し、少なくとも最近までマルクス主義の思想は〈芸術作品は歴史的現実の構成に参加できる〉とは考えてもいない。「フォルマリズム」の方は、芸術から分離された領域でのみ一連の美的なコードや形式や言語表現を見込んでいる。すなわちフォルマリズムの言うとおりならば、文学のシステムは受け継がれながら体系そのものの歴史を発展させる。しかしフォルマリストたちは、広い意味での歴史のコンテクストのうちにこの進化を戻してやる手段(もしくは多くの場合、そうした欲求)をもたない。ヤウスはテクストやその言語的要素の構成のなかに第一原因を探し求めるフォルマリストたちに、絶対化しようとする欲望を見出しており、彼らの欲望は逆説的なことに美と調和というプラトン的なイデア(それらもまた乗り越えることのできない根本概念である)を参照しているように見える。ヤウスによって厳しく批判される知的態度に共通する誤りないし不十分さとは、言葉の意味の複数性への認識不足、それらの意味の間に築かれた複合的関係の看過、それらの意味のうちでただ一つの要素を特権化しようとする意志であり、こうしたところから探求領域の狭隘さが生じてくる。われわれはドラマの登場人物personæ dramatisや俳優のすべてを見分けることができたためしはないが、そうした俳優たちの演技のやり取りは、文学の領野における想像と変容、社会的実践における革新とあらたな規範が存在するにあたって不可欠のものである。[従来の文学研究に対するヤウスの]不満は二重になっている。すなわち人々は、[文学の]機能連関やダイナミックな関係が優勢となったところに本質体や実体を措定してきた。人々は[文学の]関係の優位性を見分けることができなかっただけでなく、文学研究の中心を著者や作品におくことによって、[文学の]関係の体系を不当に制限してきた。文学の体系は、文学的メッセージの受取人、つまり読者や読み手をなんとしても考慮に入れなければならない。より一般的にいって、文学や芸術の歴史はあまりにも長い間、著者と作品の歴史であったとヤウスは主張する。文学や芸術の歴史は読み手、聴衆、もしくは黙って考えながら観る者という「第三身分tiers état」を抑圧し、これに触れてこなかった。この受取人の歴史的機能が以前からどれほど欠くべからざるものであったとしても、人々がこれについて語るのは稀であった。受取人の歴史的機能が欠くべからざるものであるのは、文学や芸術の作品を享受し、価値判断しながら受け入れる者たちの経験を通じてのみそれらは具体的な歴史のプロセスとなりえるからであって、彼らはこうしたやり方で文学や芸術の作品を承認したり拒絶したり、選択したり忘却したりし、そのような仕方で伝統を形成してゆくのだが、より正確にいうなら、この場合、伝統に応答することで成立する行為上の役割に彼らの方が順応し、あたらしい作品のきっかけとなってゆくのである。ヤウスの思想はこのように作品の受取人、保証人、作品を「アクチュアルにする者」へと注目を向けることで、アリストテレスとカントという先人に結びつく。それは、アリストテレスやカントこそが、芸術から受取人に及ぼされる影響を体系的に考慮した美学を練り上げた、ほとんど唯一の過去の人物だからである。ヤウスはそのことを熟知しており、最近のテクストでは、美的経験に関する自分自身のテーゼを証明するにあたって、カントが「社会契約論」と〈自由な合意と普遍的なコミュニケーションに向けて芸術作品が発する呼びかけ〉とを比較するテクスト[*3]をヤウスはためらいなく引用している(6)

 それゆえ読み手とは、[ある場合には]受容者や判別者の役割(とり上げたり拒否したりすることで成立する基礎的な批判機能)を占め、またある場合にはかつての作品を挑戦的な仕方で模倣したり再解釈したりする制作者の役割を占める者の全体(もしくはその交代役)のことである。だが〈読み手から具体的かつ客観的な研究対象がうみだされるのか〉という疑問がすぐに提起される。もし〈読解の行為だけが文学作品の「具体化」を引き受ける〉と述べるだけで満足するなら、なおのこと原理の平面を越えて、読解行為の正確な記述と理解にたどり着くことができなければならない。われわれは心理学的に推測せざるを得なくなっていないだろうか。もしくは作品が刊行されたさいに出た同時代の書評を(それらが存在するからといって)網羅的に読解せざるを得なくなっていないだろうか。または読み手の階層や階級やカテゴリーについて社会経済的に調査せざるを得なくなっていないだろうか。いずれの場合も、現実はすり抜けてしまう恐れがある。アルベール・ティボーデはその著『小説の読者』(一九二五年)でこの問題の形式を素描してみせ(「われわれが関心を抱くのは読み手である」)、新聞連載小説や同時代の様式genreやその行き詰まりについて承認しつつも、はぐらかして逃げてしまった。

 

その読者の四分の三以上の者が女性読者であるのだから、この文学が読み手、それも女性の読み手に与えた影響の様式がどれほどのものであるか! [このことについて]私はよく知らない。非常に長期かつ広範で、うまく主導された調査が大衆の階層のうちでなされねばならないが、たいていプロの調査員たちは、そうした調査員の突飛な質問にうんざりしている同業者の決まりきった仕事をいっそう買いかぶってしまっている(7)

 

われわれがフェリックス・V・ヴォジチュカのうちに見出す提案は、作品の受容者の意識において形成されたその「具体的」姿の記述をいっそう推し進めてくれるものである(8)。しかし、今日ではじゅうぶん是認されて、広範な論争に応じ、方法論的基礎となって精緻な研究に役立つまでになった受容の美学(9)という主導路線を展開してきた功績は、ヤウス(また彼とともにヴォルフガング・イーザーと「コンスタンツ学派」という彼の同僚)に帰される。受容美学における基礎理念のうちの一つは、〈作品の受取人や受容者の姿は多くのところ作品そのもののうちに書き込まれている、つまり模範や規範として記憶に留められてきたかつての作品との関係のうちに書き込まれている〉というものである。

 

文学作品は刊行されたその瞬間ですら、情報という砂漠に突如浮かび上がる絶対的な新しさとして現われることはない。作品の読者は広告、暗示された参照指示の(明白なもしくは潜在的な)しるし、すでになじみの特徴といったものすべての効果によって、なんらかの受容の様態をとるよう仕向けられる。文学作品はすでに読まれた事柄を思い起こさせ、読み手をあれやこれやの感情傾向の状態にし、当初より「つづき」と「終わり」についてのなにがしかの期待、つまり読解がすすむに応じて維持されたり、変更されたり、方向転換されたり、アイロニーによって破棄されたりする期待を創出する。美的経験の最初の地平において或るテクストを受け入れる心理的プロセスは、たんなる主観的な印象という一連の偶然性に還元されることはけっしてない。この心理的プロセスは、じゅうぶん規定された表示的図式にしたがって展開され導かれた知覚であり、われわれがテクスト言語学の観点で発見し記述すらできる意図に対応しそうしたしるしに導かれるプロセスである。(中略)ユニークなテクストとジャンルを構成している一連の先行のテクストとの関係は、地平を創出したり変容させたりする持続的プロセスに依存している。あらたなテクストは読者(もしくは聴衆)に対し期待の地平や作用の規則の地平を呼び起こし、こうした地平によってかつてのテクストはあらたなテクストをなじみのものにしてきた。続いてこの地平は、読解に沿って多様になり、修正され、変容され、あるいはそのまま再生産される。多様化と修正はジャンルの構造に開かれている領域を規定し、変容と再生産は[地平の]フロンティアを規定する。テクストの受容が一定のレベルの解釈を期待するさい、テクスト受容は美的知覚という体験されたコンテクストをつねに前提としている。主観性や解釈の問い、異なる読み手の趣向や読み手の異なる社会階層の問いが適切な仕方で立てられるのは、テクストの効果Wirkungを条件づける理解の超主観的な地平をわれわれがあらかじめ見定めることができた場合だけである(10)

 

 人々は、ヤウスが「普通」の読み手の経験に信頼を置いていることに気づくことだろう。テクストは文献学者のために書かれたものではない。テクストはまずそのまま鑑賞されるものである。反省的な解釈は遅れてやってくる活動であって、もしこの解釈が自らに先行するいっそう直接的な経験を記憶にとどめておくなら、反省的な解釈はあらゆるものを背負い込まなければならなくなる。

 また同様に人々は、ヤウスが作品の受容経験を認識するにあたって、テクスト同士のたんなる照応よりももっと知識を要求する差異強調的ないし対照的な方法にきわめて巧妙な仕方で訴えていることに気づくだろう。もし驚きやスキャンダルの効果を評価したいなら、もしくは逆に作品と読者の期待との合致を検証したいのなら、先行する地平だけでなく、その規範や文学的・道徳的価値の体系すべてをも認識しておかなければならない。方法を適用する者にあってその方法が要求するのは、文献史家の完璧な知識、偏差とヴァリエーションを対象とする精密な形式的分析への適正である。(思い上がった半科学が満ちあふれる世間において、この要求はおそらく困難であろう。受容美学は勇み足の初心者のための学科ではない。)

 ヤウスが訴える〈期待の地平〉という観念は、彼の受容理論において中心的な役割を果たしている。これはフッサール起源の観念である。ヤウスは、どんな心理主義によっても損なわれない記述体系のうちで、またきわめて簡潔な語彙を用いて「意識の内実」を識別しようと試みている。フッサールが時間経験を定義するためにこの地平の観念を用いていることを思い起こそう。[フッサールの『イデーン』によれば]「体験されたものの三つの地平」が存在し、また[そこに]「期待の地平」も存在する。

 

体験の地平という表現はたんに……現象学的な時間性の地平を言い表しているだけでなく、……あらたなタイプに対応する所与の様態によって導入された差異をも言い表している。この意味で、私の眼差しにとっての対象であるがゆえにまた眼差されたものの様態でもある体験は、眼差されない体験を地平として有している。「期待」という様態で捉えられるもの、それどころか増大する明晰さで捉えられるものは、不注意という背景を地平として有しており、この背景は明晰さと曖昧さ、また起伏と起伏の不在の相対的な相違を呈示する(11)

 

ヤウスにおいて〈期待の地平〉の概念は、作品を読む読み手の最初の経験に対して優先的に(だが独占的にではなく)適用されており、この最初の経験は自らを浮かび上がらせる美学、道徳、社会の伝統に基づき作品そのもののうちで「客観的」に知覚されうるものである。なんらかの点でこの期待は「超主観的」である、つまり著者にも作品の受容者にも共通のものであり、ヤウスは、なんらかの文学ジャンルやなんらかの社会文化的な歴史の契機に対応している期待にわざと背いたりこれを裏切ったりする作品に対して、より重要な理由でこの〈期待〉を主張している。ヤウスは次のように書いている。

 

こうした文学史への参照体系を客観的に定式化する可能性が理想的な仕方でもたらされるのは、まず作品の読み手のうちにジャンルや形式や文体に相関的な慣習から生ずる期待を呼び起こし、次にその期待(それは批判的な企図に役立つだけでなく、あらたな創作効果をもたらす源泉となるものである)を徐々に打ち崩そうとする作品の場合においてである(12)

 

この点でヤウスの理論は(歴史的に体験された次元で、またグローバルな意味を構成する要素を一つも逃すまいとする眼差しのもとで)、ソシュールヤコブソンによって主張されたラングとパロールとの関係を拡張・増強させているにすぎないようであり、もしくは様式上の規範とそこからの偏差との関係を拡張・増強させているにすぎないように思えるのだが、この規範とそこからの偏差との関係に関してレオ・シュピッツァーは、作品に内在的な分析のための発見的な手順だけでなく、さらに適切な指標をも作り出し、心性の歴史やそこから生じる変動を解明したのだった。そうした偏差が作品のうちに刻み込まれ、ついでその作品が「古典」となり、受容によって公式に認められ、伝統のうちに刻み込まれる程度に応じて、この偏差は「通時的」な動きの要因となるが、そうした「通時的」な動きは「共時的」な規範や価値の体系を考慮することによってのみ評価され得る。しかし先行して存在するコードの「共時的」な規則に作品がまったく背かないとしても、受容の歴史の流れを通じて[作品は]不安定な「具体化」を余儀なくされ、これによって「通時的」な歴史が動き出す。六〇年代当時には乗り越え不可能に思われた「構造的」アプローチと「歴史的」アプローチとの対立が、[ヤウスにおいて]解決されていることに気づく。このようにしてヤウスが肯定するのは、〈作品受容が積極的な自己化appropriationの行為であり、それはわれわれがこれらの作品に接し自分自身の地平のうちで読み手(もしくは歴史家)の状況にあると気づく目下の瞬間にいたるまで、世代を継いで作品の価値や意味を変容させる行為だ〉ということである。ところで、われわれが作品とそれを継続的に受容する者との関係を再構成するのはつねにわれわれの現在からである。われわれがいまの地平と過去になされた美的経験の地平とを区別するよう解釈学的な手続きがつねづね要求するとしても、そうした区別によって、じっさい生じた通りにその過去の地平を再構成し記述することがそのまま正しいと信じている歴史主義の幻影を助長してはならない。もし進歩したいのなら、つねに解釈学的な反省は、現在の地平と過去のテクストとの間で作用する緊張から意図的に結果を引き出すようにしなければならない。われわれにできることは、自分自身の関心や文化(つまり地平)を携えて過去のテクストを迎えに行こうと試みることだけである。それはガダマーに従ってヤウスが「地平の融合」と呼ぶものである。厄介な観念をさらに説明するには、ここでガダマーを引用することが得策である。

 

われわれの先入見がたえず検証されざるを得なくなればなるほど、現在の地平もたえず形成されてゆく。現在の地平が、いま問題になっている過去と〈伝統の理解〉との出会いに生彩を添えもするのは、そうした検証によってである。したがって、現在の地平が過去なしに形成されることは絶対にありえない。獲得可能な歴史的地平が存在しないくらい隔絶して存在できる現在の地平などもはやない。むしろじっさいに理解は、一方を他方から分離するように主張されているこれらの地平を融合してゆく過程にこそ成立するのである(13)

 

こう言ってよければ、この地平の融合は伝統を受け渡してゆく場le lieu de passageである。ガダマーにとって、時間的隔たりを通じた[現在と過去との]媒介を保証するのは「古典」作品である。しかしヤウスはこの点に関してガダマーに従うことはない。ヤウスがこの論点に差し挟む批判的議論では、〈ミメーシスの能力によって人間はいつでも自分自身を見定めることができる〉と考える実体主義的でプラトン主義的な作品概念の発想に立ち戻りかねない者たちを容認しない彼の意志がはっきりと現われている。ガダマーが理解するという行為を定義するのに用いた定式化である「伝承transmission(もしくは伝統)のプロセスに含まれていること」(14)は、ヤウスからすれば、弁証法的で動的な側面を犠牲にすること、つまり制作と受容との関係やけっして終わることのない読解の継続によって開かれた側面を犠牲にすることに他ならない。こうしたガダマーの定式化はまた、過去の作品の伝統の正しい真正性と誤った真正性とを区別する手段をひどくあっさりと手にしてしまうものでもある。

 いま重要となっているこの制限条項によって、ヤウスは解釈学の手続きの領野でガダマーに追従しないよう思いとどまっている。とはいえ、ひとまずヤウスは客観化する科学的方法(これに対しては問答的で理解的で「真理を保証する」解釈が対立している)に対するガダマーの論争に、含みの多い言い方によって賛同している。しかしヤウスを踏みとどめさせるのは、とりわけ[ガダマーの]「問いと答えの論理学」である。というのは、著者、作品、読み手、じっさいの解釈者を自らの役割や各自の地平に配置しただけでは不十分だからである。つまりこれらの役割やその関係を記述可能なものとし、それらに語らせそれらを見分ける正確な手段によって証言しなければならないのである。十九世紀の初頭、解釈学は、(聖典注解者herméneuteの)批判的検討の一部である補助的な解釈によって作家(作品はその作家の表現である)の意識そのものにたどり着く課題を自らに課していた。ガダマーもヤウスも、[作者の]主観を起源とする創造に向けられた解釈学をもはや信じていない。両者にとってすべての作品は問いへの答えであり、解釈者が立てなければいけない問いはといえば、そもそもその問いが何を問うていたのか、その応答[=作品]がどのように[問いと]有機的につながっているのかを、作品のテクストにおいて、またそれを通じて見定めることで成立する。作品への問いは感情移入の効果を含意しないし、作品に対して絶対的・存在論的な先行性を有している[作者の意図という]心理的経験を再構成しようとする野望もまた含意していない。解読されなければならないのはテクストなのだ。解釈とは作品のうちに問いを見つけ出すことを課題とし、作品はその問いの答えをもたらす。ところでそもそもこのテクストは、その最初の読み手によって問いかけられている。作品は読み手に応答するが、そのテクストの応答に対し読み手は受け入れるか、もしくは拒絶したはずである。生き残った作品にとってみれば、そうした受け入れの痕跡はただたんに当時の賛辞のうちに読み取ることができるわけではない。生き残ったというただ一つの事実は、受け入れられたということの指標である。何人かの読み手が歴史のあらたなコンテクストのうちであらたな問いを立てて、もはやこの問いを満足させない最初の応答のうちに別の意味を見出すようになる。このようにして受容は作品を自由に扱い、その意味を変容させ、また〈慣例となった作品によって与えられる答えはもはや承認できない〉と考える読者のために、同じ主題に関してまったくあたらしい答えをもたらすであろう作品を制作する機会をだんだんと生じさせる。また問いと答えとのやり取りは作品のうちに連綿と刻み込まれ、十分に発展したその全体において、歴史家によって提起される問いに対し過去がもたらす答えを構成する。[ヤウスによる]ラシーヌのイピゲネアとゲーテのイピゲネアに関する素晴らしい研究[*4]は、問いと答えの解釈学をじっさいに使い結論を出してみせることによってこれを模範的に証明しており、この解釈学の射程は通常、比較研究がわれわれに提起するものをはるかに凌いでいる。あらゆる芸術作品は解釈するための素材を備えた「詩的」な解釈としてそのまま作り上げられたものであることが非常にはっきりと現われるだろうし、また芸術作品はといえば、ある時は「素朴」で、またある時は「批判的」な読み手にとっての解釈の対象となり、彼らは、受容されたテクストをさまざまに見分けることによってであれ、注釈をつけてそのテクスト[の分量]を二倍にすることによってであれ、何から何まですっかりそのテクストを書き換えることによってであれ、あらたな作品を生み出すきっかけとなる。しかし私がここで言及した一連の解釈は、ヤウスによれば優先的に「巨大な読者」、つまり〈解釈するとはどういうことかを知らず、解釈したいという欲求を覚えることのない普通の読み手〉を含み入れている。こうした読者抜きでは、われわれは文学ジャンルの歴史や、「良い」文学と「悪い」文学の行く末や、いくつかのモデルやパラダイムの存続と衰退を本質的に理解することはないだろう(また平凡な作品の山に注意が向けられるよりもすばやく、視線は傑作という「頂上領域」へと向けられるのだから、図らずもヤウスにとってそうした凡作の山を一瞥することには何の得もない)。このようにしてヤウスは〈作品によって規定されつづけ、結果的に作品が生まれた過去とのつながりを保持する効果Wirkung〉と、〈当時の美的規範に従って判断しつつも、自らの現在のあり方によって対話の表現を変容させる積極的で自由な受取人に依存する受容〉との区別を打ち立てるのである…。(15)

 

 

 [完全な]計算機であろうとするも気づかぬうちに不完全partielとなっている方法とは逆に、受容美学は全体性を目指しつつも「部分的partiel」であると表明する。つまり受容美学は、「自らの問題を解決するにあたって自ら自身だけを頼りとする、自己充足的で自律的な学科」(16)であろうとはしない。私がひどく簡素にまとめてきた理論、またヤウスとその友人グループの仕事によってその豊かさが十分証しされた理論は、完成した体系としてわれわれに開かれていない。ヤウスがその基礎的原理を開陳した一九六七年以来、受容美学はその調査領域を拡大し、問いの目録をさらに豊かにしている。ヤウスは次第に、作品によって含まれている「間文学的」な期待の地平の再構成でよしと思わなくなってきた。十分な情報があるなら、ヤウスは「文学外」の期待や規範や役割の分析にますます訴えたいと考えており、それらは生き生きとした社会階層によって規定され、読み手のさまざまなカテゴリーが有する美的関心を導くものである。本書に収録された「家庭の優しさla douceur du foyer」に関する研究[*5]はこのタイプの研究の模範的な例証であり、歴史的に体験された世界(生活世界Lebenswelt)の構造を文学的コミュニケーションの体系を通じて明らかにしてくれる。この点で文学史は「知識社会学」と接続する。調査の社会領域をこのように拡大すること(そうした拡大は「アナール学派」と文学史研究を近づけるだろう)に対応するのは、心理学的に探求される領域を相関的に拡大することである。『美的経験のささやかな弁明』においてヤウスが行ったことは、プラトン主義による古代からの非難に対してや、「イデオロギー批判」(それは「テクストの快楽」を社会的現状への無条件の承認として厳しく排斥し、「否定性」の芸術(アドルノ)を禁欲的で弾劾的なものとして推奨する)によって推進された簡略的な批判に対して、(R・バルトより前に[*6])美的享受を保護することにとどまらない。ヤウスは、歴史のうちで定期的になされた選別や解釈によって伝統を構成してきた判断力だけでなく、とりわけ(アイステーシス、ポイエーシス、カタルシスという)美的経験そのものをもいっそう身近に期待しようと考えている。ところでヤウスによると美的経験を研究することは、文学作品に不可欠の関与や同一化の類型を見定めようとすることである。このようにしてわれわれは、心理学が監督権を有する縄張りのうちの一つで現代の心理学を見出し、しかもアリストテレス的な詩学や、この詩学が扱い心理学者たちがいまもなお覚えている主要な問題のうちの一つであるカタルシスをも見出す。研究対象や促進すべき価値がただ一つの変わらぬ関心となるための道が[ヤウスによって]切り開かれた。美的享受を通じて過去の芸術はしばしば社会的規範から解放するものであったり、そうした規範を創造したりするものであった。では過去の芸術はなぜ、こんにち同じ目的を追求しようとしないのか。そのことを見定め、解明できるようになれば、批評家や歴史家たち(あまりに多くの場合、読者はそうした批評家や歴史家たちを彼ら自身の抽象的思考のうちに没したスペシャリストとみなしている)の好意的な関心も増大するだろう。

 

再生産、受容、コミュニケーションという条件下での美的実践は、芸術の「稜線」からその日常的な底辺にいたるまで、それなりの形をとって入り組んでいるので、美的経験の理論と歴史は、究極において、美学だけによる、あるいは社会学だけによる芸術観察の一面性を克服するのにも資することであろう。またそれによって、文学と芸術のあらたな歴史の基礎がえられ、この分野の研究において失われてしまった研究対象への一般的関心をふたたび取り戻すことであろう(17)

 

たしかに歴史家は過去の方を向く。しかし歴史家が過去を問う仕方、その問いかけの力強さや幅広さは、現在の水準のうちでそれらの結果を示し、多くのところ今日の社会のうちで、歴史記述と歴史家のあり方から決まってくる。ヤウスは〈自分は、[自らの]申し分のない著作や方法論上の「挑発」によってあらたな活動領域の歴史家に値するようになったのであり、「コミュニケーション機能」(この機能を欠くならその活動領域は衰退してしまうだろう)をそこに取り戻してやる者のうちの一人である〉と述べることで満足することはない。

 

 

                          ジャン・スタロバンスキー

 

 

(1) Diacritics, printemps 1975, p.53-61.

(2)とりわけ以下の論文がある。»Littérature médivale et théorie des genres«, Poéthique I, 1970, pp.79-101; »Littérature médivale et expérience esthétique«, Poéthique, 31 sept. 1977, pp.322-336.このフランス語訳版にはどちらも収録されていない。[ちなみに前者の論文の方は英訳されて、以下の論文集に収録されている。Jauss, “Theory of Genres and Medieval Literature”, in: ibid, Toward an Aesthetics of Reception (trans. by Timothy Bahti), Minnesota 1982, p.76-109.]

[*1]ポーランド系の哲学者ハイム・ペレルマンが『論述論-あらたなレトリックTraité de l'argumentation, la nouvelle rhétorique』(1958年)において提唱した立場。レトリックにおける論述の位置と、それが価値判断に与える影響について論じ、商業や政治の場面における社会的ディスクールの機能についても考察している。

(3) Zeit und Erinnerung in Marcel Proust «À la recherche du temps perdu» : ein Beitrag zur Theorie des Romans, Heidelberg, 1955; 2e éd. Revue, Heidelberg, 1970.

(4)これらの仕事は一部ではあるが以下のタイトルに再収録された。Alterität und Modernität der mittelalterlichen Literatur, Munich, W. Fink, 1977.

[*2]シャルル・ペロー(1628-1703)は『ペロー童話集』などで知られるフランスの詩人。またオウィディウスウェルギリウスよりも現代文学の方がすぐれていると述べ、ニコラ・ボアロー=デプレオー(1636-1711)との間で「新旧論争」を巻き起こしたことでも有名。なおヤウスが序論を付したこの本の正式タイトルは『フィリスブール賞を受賞したドーファン閣下の賛歌-芸術と学問を見る者における古代と現代との比較対照Ode de Mgr le Dauphin sur la prise de Philisbourg, Parallèle des Anciens et des Modernes en ce qui regarde les Arts et la Science』(1688)である。

(5)この壮大な著作はハイデルベルクのカール・ヴィンターのもとで1962年に刊行され始めた。

[*3]カント『判断力批判』には、ルソーの「社会契約論」を意識した次のような一節がある。「荒涼とした島にひとり取り残された人間は、自分だけのために自分の小屋も自分自身も飾ることをしないであろう。あるいは自分を飾るために花を探したり、まして花を植えたりすることもないであろう。むしろ、ただ社会のうちでのみ、そのひとは、たんに人間であるだけでなく、それぞれ自分の流儀にしたがって一人の洗練された人間になろうと思いつくのである(これは文明化の始まりである)。というのも、このような洗練された人間と判定されるのは、自分の快を他の ひとびとに伝達することを好み、それに巧みな人であって、またある客観についての満足を他のひとびとともに感じることができなければ、その客観に満足しないようなひとびとだからである。各人は、いわば人間性そのものによって厳しく命じられた根源的契約に基づいているかのように、普遍的伝達を顧慮することをあらゆる人に期待し要求する。」(牧野英二訳, 185頁)。なお「根源的契約」とは、岩波版訳書の訳注によれば「自由で平等な主体間の合意による社会契約論を意味し、人民自身が自らを一つの国家へと構成する働き」であるという。詳しくは、カント『人倫の形而上学』「法論の形而上学の原理」第47節以下を参照のこと。

(6) Ästhetische Erfahrung und literarische Hermeneutik, Munich, W. Fink, 1977, p.22-23 [今日では改定統合版として公刊されている。Ästhetische Erfahrung und literarische Hermeneutik, Frankfurt/M (Suhrkamp) 1982.]. われわれは、読者の役割がガエタン・ピコン、アルチュール・ニサン、ミカエル・リファテールによって研究されていたことを知っており、ヤウスは彼らの着想を並べてそれらを批判している。ミシェル・シャルルの『読解のレトリックLa Rhétorique de la lecture』は、この同じ主題に関してきわめて独創的なアプローチを提案している。

(7)Albert Thibaudet, Le liseur de romans, Paris, Crés, 1925, p.xix. [翻訳『小説の読者』、白井浩司訳、ダヴィッド社 1957年。]

(8)われわれはユーリ・シュトリータの素晴らしいドイツ語訳においてこれを読むことができる。Felix V. Vodička, Struktur der Entwicklung (trad. en allemand par Jurij Striedter), Munich 1975.

(9)ユーリ・シュトリータ、ヴォルフガング・プライゼンダンツ、マンフレート・フュールマン、カールハインツ・シュティーレ、ライナー・ヴァルニングといった名が「コンスタンツ学派」と結びつけられねばならない。われわれは以下の著作のうちに、代表的著作の選別、文献表、非常に優れた概説を見出すだろう。Reiner Warning, éd., Rezeptionsästhetik. Theorie und Praxis, Munich, W. Fink, 1975.

(10)本書55ページを参照。

(11)以下からの引用。E. Husserl, Idées directrices pour une phénoménologie, trad. P. Ricœur, Paris, Gallimard, 1950, p.277 à 280. [翻訳『純粋現象学現象学的哲学のための諸構想』、渡辺二郎訳、みすず書房、1979年。]

(12)本文56ページを参照。

(13)以下からの引用。H. G. Gadamer, Vérité et Méthode, trad. E. Sacre, rev. par P. Ricœur, Paris, 1976, p.147.

(14) Op. cit., p.130.

[*4]この研究は、現在、1982年の改定統合版『美的経験と文学的解釈学』第三部に「受容美学的アプローチの不十分さ(ラシーヌゲーテのイピゲネイア)」として収録されている。なお、イピゲネイアとはエウリピデスなどの悲劇に登場する王女で、父アガメムノンの命令でアルテミスの怒りをおさめるための生贄として死ぬ。ラシーヌは彼女を題材にした悲劇『イフィジェニー』を1674年に公演し、ゲーテは1787年に『タウリス島のイフィゲーニエ』を書いている。

(15)本書269ページと284ページを参照。

(16)本書267ページを参照。

[*5]この研究は、現在、『美的経験と文学的解釈学』の第三部に「社会的規範を美的に伝達すること(「家庭の優しさ」)」として収録されている。なお「家庭の優しさ」とは、ボードレール悪の華』第67節「夕べの薄明かり」に出てくる詩句である。

内省するんだ,わが魂よ,この重大な時に,
そしてこのわめき声にお前の耳をふさぐんだ。
まさに病人たちの苦痛が激しくなる時!
陰鬱な「夜」が彼らの喉もとにつかみかかる。彼らは
自らの生涯を閉じ,同じ深淵へと向かう。
病院は彼らのつくため息で満ちている。-ひとりだけではない
おいしい匂いのスープを求めて二度と来ることのできない人は,
暖炉のある隅に,夕暮れ時,愛する人が待っているのに。

とはいえ大半の病人はかつて一度も知りはしなかった,
家庭の優しさなんて,それを経験したこともなかったのだ!

[*6]制度を充実させる「快楽plaisirのテクスト」と、制度をゆるがせる「悦楽jouissanceのテクスト」という有名な区別を提起した『テクストの快楽』がR・バルトによって公刊されたのは1973年で、ヤウスの『美的経験のためのささやかな弁明』の1年後であった。ちなみにほぼ同時期の71年には「美的享受」を厳しく批判したアドルノの『美の理論』が刊行されている。

(17)この数行は本書の日本語版のためにヤウスが起草した序文の結論をなしている。[『美的経験のためのささやかな弁明』には日本語訳は存在せず、正確にいうと、ここで引用されている文章は『挑発としての文学史』の日本語版の序文である。以下を参照。ヤウス『挑発としての文学史』、轡田収 訳、岩波現代文庫、2001年、X頁。]