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un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

S・ダイネス、J・リプトウ、M・ゼール『芸術と経験 - 哲学的論争のための寄与』(2012)の目次と第一論文冒頭部

[以下は Stefan Deines, Jasper Liptow, Martin Seel (Hg.), Kunst und Erfahrung: Beiträge zu einer philosophischen Kontroverse, Frankfurt/M 2012 の目次と第一論文冒頭部の翻訳。冒頭部だけなのは、この論文集がいま手元になく、アマゾンの立ち読み機能で読める範囲だけを訳しているから。序論の役割を果たすこの第一論文は、ドイツにおける美的経験論の最前線だけでなく、分析美学の受容と検討がどの程度すすんでいるのかに関しても見通しを与えてくれそうな印象。論文の最後には本書全体の外観が述べられるとのことだが、そこまで立ち読みできん…。図書館でコピーを手に入れたら訳の続きをやるかもしれない。]

 

 

          芸術と経験

              哲学的論争のための寄与

 

                 目次

1.S・ダイネス、J・リプトウ、M・ゼール「芸術と経験:理論的地図」

2.ジェロルド・レヴィンソン「美的経験という非ミニマリズム的な構想への途上で」

3.ノエル・キャロル「最近の美的経験論」

4.マティアス・フォーゲル「美的経験は幻影か?」

5.カトリン・ミッセルホルン「美的感情なるものは存在するか?」

6.ヤスパー・リプトウ「美的固有性の経験」

7.エリザベート・シェレッケンス「美的判断のための適切な客観主義への道で」

8.マルティン・ゼール「ここで何が起きているのか? ミケランジェロ・アントニオーニの映画『砂丘』におけるシークエンスの追求」

9.クリスティアーネ・フォス「美的なものという触発的エンジン」

10.シュテファン・ダイネス「芸術哲学と芸術経験:一つの哲学的視座」

11.ゲオルク・W・ベルトラム「美的経験と芸術の現代性」

12.ジェーイムズ・シェリー「非知覚的な芸術という問題」

13エヴァ・シュールマン「態度の分節化としてのスタイル」

14.ニック・ザングウィル「芸術と公衆」

 

 

 

       芸術と経験 理論的地図

         S・ダイネス、J・リプトウ、M・ゼール

 

 美的経験という概念は哲学的美学において中心的な役割を果たしている。このことはとりわけ、美学が特定の機能、能力、感覚形式の理論としておもに捉えられる場合に当てはまる。「美的経験」は、そうした機能や能力を実現したりそれに対応する形式を受け入れたりする限り、たんにわれわれの感覚に代わる名前として理解されているにすぎない。こうした意味での美学がそもそも可能なのは(それはこの美学がすでに対象をもっているからなのだが)、美的経験が存在している場合だけである。しかし美学ということで主に芸術哲学を理解する場合でも、美的経験という概念が大きな理論的価値をもっていることは明らかだ。このように美的経験の概念には、芸術理論の領域でおよそくり返し明解な機能が認められている。[そのさい]芸術作品は特定の仕方で美的経験のきっかけをもたらす客体として規定される。美的経験を超えたところで芸術の価値や機能を規定しようとしても、それはほとんど少しも優れているとはいえないだろう。したがってわれわれが芸術の作品と対峙しようとするのは、そうした対峙がわれわれにとって価値ある経験に導くからであり、またこの経験が理論にしたがうのに応じて、およそとりわけ心地よく開明的で、内容に富んだもの(または奥深く、破壊的で、驚愕させ、動揺させる等々)であるからである。

 こうした軌跡の上を動く哲学的美学が挑戦すべきことは、次の三つの仕方で美的経験の概念を規定することである。すなわち、第一に現象学的に後づけ可能な仕方で、第二に美的な現象の多様性を考慮に入れることのできる仕方で、第三に目指される芸術哲学的な説明を可能にする仕方で美的経験の概念を規定することである。美的経験のどういった規定がもっとも首尾よくこの哲学的美学の挑戦を満足させるかは異論の余地がある。美的経験の種差differentia specificaの規定候補はたとえば、個別の感情、個別の経験の密度、美的に経験される対象の感覚的な現われの個別のあり方、その現われから生じる認識の個別の次元、感性と悟性との個別の関係、美的経験の時間的経過の個別の形式、自己関係性の個別の形式などである。

 こうした芸術理論上の差異の劇は、〈美的経験の特殊であると同時に統一的でもある現象が理論的に把握され、芸術哲学上、実りあるものとなる〉という共有された合意の舞台で長らく催されてきた。この基礎を引き受けることについては一九六〇年代以後、いわゆる「分析美学」の代表者たちによってとりわけ以下の二つの理由から疑念を抱かれている。(a)一方では、〈そもそも美的経験の特殊であると同時に統一的でもある現象のようなものが存在するのか〉という問いが立てられている。(b)他方で、〈仮にそうした現象が指摘できるとしても、「美的でないanästhetisch」芸術作品が存在可能で、じっさい存在している以上、それは支持可能な芸術規定として有益とは言いえない〉ということが議論されている。

 (a) 経験の統一的かつ特殊な形式としての美的経験の存在に対し疑念が生じるのは、美的経験の概念にあてがわれてきた、互いに対立する数多くの異なる規定が考えられる場合である。しかしとりわけこの疑念が強まるのは、美的経験の対象の多彩さに着目する場合である。このことは、芸術の領域に[話を]限定し、自然や日用品の領域を脇においておくとしても、すでに明らかである。交響曲、小説、絵画、レディ・メイドといった異なる現象のもとで、そのつど人間の異なる能力が訴えかけられ、要求されているように思われる。感情を惹き起こすのはひょっとするとむしろ音楽作品であるのに対して、われわれの感覚に訴えかけるのはむしろ抽象絵画であり、またわれわれの認知能力を刺激するのはとりわけレディ・メイドである可能性がある。〈芸術のうちには素材、ジャンル、表現手段、主題、伝統などが、見渡すことのできないくらい複数存在する〉という事実に直面するなら、〈われわれと芸術作品との対峙はその体験を通じて経験の同一の個別的あり方である〉と説明してみても、それは絶望的なように思える。このようにしてジョージ・ディッキーは〈美的経験や美的心構えの現象のもとで問題となるのはもっぱら「神話」ないしは「幻影」であり、芸術理論はそれらから解放されるべきである〉と主張したのだった。美的経験の理論がそのメルクマールとして把握しようとしたものは、じっさいのところ、われわれが受容のさいに気づく対象のメルクマールであるというのである。この反論が説得的なものであるとするなら、それによって同時に、美的経験の概念が哲学的美学の枠内で引き受けることのできる体系的な役割も問われることになろう。美的経験が適切で、特殊かつ統一的な現象として規定されないのなら、そのような現象は美的なものの領域、芸術の定義、芸術作品の全体としての規定、個々の作品の質などにもなんら資するところはないだろう。

 (b) しかし、たとえば感覚的経験の特定の形式が美的経験として特徴づけられ、美的経験はそうした特徴づけをさらに超えて、われわれと個々の芸術作品との交渉にとって重要な役割を果たしていることを認めるとしても、〈美的経験においてわれわれは、芸術の哲学的な理解にとって不可欠の役割を果たす側面に関わっている〉という主張もまた依然として疑われている。このようにしてアーサー・ダントーは、デュシャンのレディ・メイドやウォーホールの『ブリロ・ボックス』やコンセプチャル・アートの作品といった芸術作品を引き合いに出して、〈芸術作品は必ずしも美的な対象ではなく、したがって美的経験の概念は根本的に芸術の哲学的理解に寄与しえない〉という見解を支持したのだった。

 しかし最近、美的経験の概念を中心に据える美的経験論と芸術理論はふたたび活況を呈している。比較的最近の一連の提案が試みているのは、特殊な美的経験を、その個別の現象性格や個別の反省構造やその個別の価値について規定することであり、そのさいこの試みは美的経験の伝統的な理論に結びついている。美的経験と哲学的に対峙することは、今日ふたたびたけなわである。

 本巻の目的は、美的経験をめぐるアクチュアルな哲学的論争をその複雑さのままに接近しやすくすることである。以下でわれわれはまず美的経験の現象を規定し、それと芸術現象とを関係づけるさいのもっとも重要な理論的操作を概観するつもりである。そのさいわれわれは、まず経験のさまざまな概念を区別し(第1節)、美的経験はその他の経験からどのようにして際立たせられるのかと自問し(第2節)、次に芸術と(美的)経験との関係の問いを取り上げる(第3節)。最後にわれわれは本巻の簡略的な概観でもってこの序論を締めくくる。

 

 

             第1節 経験の三つの概念

 美的経験が問題となるさい、〈「経験」ということでそもそも何が理解されているかはすでに明らかで、問題の所在は美的経験をその他の経験から際立たせることにあるにすぎない〉ということがしばしば前提にされている。とはいえこの前提が事実であるとあっさり認めるわけにはいかない。「経験」ということできわめてさまざまなことが理解され、またしばしば美的経験の多様な理論の間の相違は、その理論が美的なものを規定するさいにはじめて生じるのではなく、その理論が経験を規定するさいにすでに生じているのである。

 

                 [以下続稿]