un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

マークス・デュヴェル「美的経験と道徳」(2000)

[Marcus Düwell, »Ästhetische Erfahrung und Moral«, in: hrsg. von Dietmar Mieth, Erzählen und Moral. Narrativität im Spannungsfeld von Ethik und Ästhetik, Tübingen 2000, S.11-35. ブプナーやゼールらが取り上げた美的経験や自然美学に関する論点を概観しながら、物語が美的に享受されるさい、これと道徳がどう関わってくるについて説明した入門的論文。ただ第4節のゲワースの規範倫理の話は、かなり圧縮されているために理解しづらい。]

 

 

 

         美的経験と道徳

 マークス・デュヴェル

   

1.倫理と美学との緊張の場における物語りと道徳との関連

  本書の主題は「物語りと道徳Erzählen und Moral」となっている。この主題をみて〈そもそもなぜ物語と道徳との間に関連がなければならないのか〉と質問することができるだろう。この質問への最初の手引きは、たとえば〈物語Erzählungenは道徳に関わるものだ〉と言い得るだろう。実際、芸術的な要求を完全に満たす文学テクストと同様、日常言語の物語りにおいても道徳との対立が起こっている。物語りは道徳的に手本となる行為を描くか、不道徳な行為を記述するか、道徳的行為のドラマ的な挫折を主題化する。こうした観点からすると道徳的なものは、歴史や愛や芸術や宗教のように、主題化可能な文学のアスペクトの一つである。物語りと道徳との別の関係可能性は、物語りの作用のうちにあるだろう。物語はその聴衆に道徳的な反省を呼び起こし、いまに伝わる道徳イメージを問いに付し、伝承された道徳的確信を批判し、このような仕方で受容者を倫理的反省へと導くことができる。文学テクストは人間の生の状況を直観化することができる。聴衆、読者、来場者として人は自分自身の生について深く考えようとする。ストリントベリのドラマ『結婚生活』の上演に訪れる者は、自身の人間関係の模範について反省することができる。開かれた「世界観の分節化」(1)である物語は、道徳に関する社会的言説を呼び起こすことができる。しかしそれと同時に物語は人間の道徳的確信を強化し、人間に道徳的確信を直観的に親しませることができる。その限り物語は教育的に訓育する観点で始められる。たとえば、ある意地の悪いセルビア人総督の物語は、そのまま道徳的抵抗やそれに応じた行為の動機づけを惹き起こすように思われる。道徳的確信を伝達するというこの次元によって、物語は操作的なポテンシャルをも有している。物語は人間の感情や感情による動機づけの平面に直接訴えかけ、それらの直観性や直接性によって自らの批判的反省を回避しようとする傾向を有しており、その限りでイデオロギーとして利用可能である(2)。イデオローグたちは、ある共同体で流通している物語を戦略的に所有し、その共同体の人々の確信に影響を及ぼそうと試みる。それゆえ物語と道徳との関係はその深いところで両義的である。

 とはいえ、こうした物語と道徳との関連を理論的に把握し、道徳哲学的に反省可能にするにはいっそう正確な問題設定の規定が必要である。いま述べた物語りの作用すべてを、理論的な視座によって同一平面上に移すことはおそらくほぼ不可能である。いくつかの作用は偶然的な仕方で「物語」という媒体と結びついているように思われる。たとえばある物語なりドラマなりが自身の生の営みへの反省を呼び起こすなら、物語はこうした自己反省を純粋に偶然的な仕方で呼び起こしたのかもしれない。[しかし]これと同じように偶然的な仕方で、小説の行為平面での道徳的問題の登場が、道徳と倫理的反省と文学的呈示形式との内的連関を指し示すことはほとんどない。偶然ではない仕方で立てられる中心的な問いは、美的な制作と道徳ないし倫理的反省との特殊な関係は存在するかである。そうした関係は個々の芸術作品の偶然的な作用から示されるのではなく、美的なものそのものの構造から示されねばならないだろう。それゆえ物語的なものdas Narrativeの道徳的意味を把握するには、より深いところから始まる哲学的反省が必要となる。美的経験の構造の分析がそれにふさわしい枠組を提供してくれるというのが私の主張である。たんに道徳との偶然な関連に行き当たることを目指すのでないなら、まず美的経験の一般的構造から道徳的なものや倫理的反省とのつながりを練り上げることが求められる(3)。そのさい、物語性Narrativitätが美的なものの特別な形式として理解され得る。そこで私としては、〈文学の美的経験がその他の美的経験の可能性には不向きな或る特殊な意味をもち得ている〉ということを除外しないでおこうと思う。

 

2.美的なものの理論に対する「美的経験」の重要性

  どうして「美的経験」の探究が私の考察の結節点となっているかについて、ここではただ簡略的にその輪郭を描くことしかできない。哲学史上、美的なものの領域を測定する試みはさまざまあった。たとえばヘーゲルはすでにその『美学講義』の第一文目で、〈「美しき芸術」は美学が取り組まなければならない領域である〉(4)と述べている。美的な現象領域にどういったアプローチをとるかの選択は広範な影響を及ぼす。今日の議論にとって重要な帰結は、芸術という美的な現象領域を形成することで自然美的なものを美的現象から排除する事態のうちに成立している。ヘーゲルによる美しき芸術の発展史において、確かに自然美的なものはなお芸術の前史に現われるが、そこではいわば様式化されていて、芸術の真正の美的能力を予感させるたぐいのものに限定されている(5)

 これに対し、美的経験の概念先行的規定を無視する芸術哲学には重大な異議が申し立てられるが、それは、〈芸術が美的経験を可能にする〉というその特別な性質からそもそも芸術を把握しないなら、芸術の特別な事情やその特別な作用や芸術と非芸術との概念的区別を理解する必要などまったくなくなるからである(6)。それゆえ私は〈美的経験の概念は芸術概念に先行する〉と主張しよう。これら両概念の関連は、美的経験や芸術の対象であると具体的にみなされているものとは関わりない。個々の芸術作品の芸術性格を守ろうとする者は、この作品ないしこの作品のこの特性が美的経験と内的つながりを有していると訴えなければならない。美的経験の性質に遡及することなく個々の作品の芸術性格を守ることは、いまに伝わる芸術の在庫や承認された芸術の手法を肯定することとしてのみ行われ得よう。二〇世紀において伝統的な芸術カテゴリーや芸術概念そのものが明らかに侵食されてきている中で、こうした芸術手法への撤退はもはや恣意的であるか保守的な先入見の表明としてしか理解されない。したがって個々の作品の芸術性格をどのように防衛するにせよ、そうした行為は美的経験からの正当化を受けなければならなくなっている(7)

 この主張が正しいなら、〈美的なものの現象領域は美的経験によって構成される〉という関連が生じてくる。美的経験はふたたびさまざまな対象に関係づけられる。これに関連して、芸術の美的経験と自然の美的経験とが区別可能になる。そして私は第三の対象領域として日常の美的経験について言及しておきたい。この区分けは理念型的であって、[一方の美的経験から他方の美的経験への]無数の移行現象が存在する。芸術の美的経験は美的経験を可能にするために制作された対象に関係づけられていて、それゆえに美的経験の先行把握のおかげで実際に存在できるような対象に関係づけられている(8)。これに対し自然の美的経験にとって構成的なのは、対象が(まさにそう意図として産み出されていなくとも)美的に価値があり魅力的なものとして現われるという事実である。そのさい、このように[意図的に]〈制作されていない〉ことやそれに伴う美的性質の偶然性が、自然の美的経験にとっての中心的な意義となる(下記参照)。日常の美的経験は、われわれの日常生活をその内部で構成したり遮断したりする人工物や自然現象に関係づけられる。日常の知覚が道端や人々や配色の感覚的形態に関係づけられるや否や、美的経験の契機が少なくとも何かの発端となるかたちで日常の暮らしのうちに開けてくる。流行ファッションやデザインや空間コーディネートなどは、そうした経験可能性を自覚的に形成し様式化したものである。

 このように美的な現象領域をさらに継ぎ足してゆくことは、〈芸術美学〉対〈生活世界の審美化〉という頻繁に主張されている二つの対立姿勢を横断することである(9)。こうした対立姿勢のうちでは、美的なものを芸術現象に厳密に限定する立場と、〈われわれの世界への通路や生活方針はすべて基本的に美的に媒介されるか美的なものの優位のうちにある〉というこれに対立する主張との間で二者択一がなされている。こうした審美化は、ポストモダンの議論の過程で強く要求されるか、文明診断として確認され批判されたのだった。ここでこうした議論に立ち入るのはやめておこう。本稿で重要なのは、〈すべては美的経験の対象となり得る〉という状況のもとで美的経験の理論がぜひとも仮定されねばならないということである。もっともわれわれのすべての経験や世界への態度が美的であるわけではない。美的なものは特別なクラスの対象に関係づけられるのではなく、美的なものは人間の他の経験可能性から明白に区別される特殊な経験様態なのである。

 

 

3.美的経験の構造

  では美的経験とは何か。マルティン・ゼールの見積もりが美的経験の射程全体を捉えるための理論的枠組を用意してくれる。『自然美学』(一九九一年)においてゼールは、美的経験の三つの形態を区別している。そのさいに問題となっているのは理念系としての区別である。美的経験の三つの次元は自然の美的経験の探求に基づいて展開されるとはいえ、美的経験の一般理論にとっても基礎的なものとなっている。「観照的kontemplativ」な美的経験(10)では、生活世界の連関からの距離化、時間的連続性の遮断、意味や感覚連関からの離脱などがみられる。この美的経験の形態は、とりわけ日常的な自明性の喪失によって特徴づけられる。「対応的korresponsiv」な美的経験(11)では、生活世界が直観的な表現にもたらされていて、われわれの生活、習慣、自明性がそこでふたたび見出される。部分的ではあるがここには日常的美的経験の現象とその様態が組み入れられている。われわれを取り巻いている対象だけでなく、芸術の美的経験や自然の美的経験のさまざまな形式においても、われわれは世界の容貌に出くわし、[そうした世界の]直観的な対応物を見出している。「想像的imaginativ」な美的経験(12)では、想像力溢れるあらたな生活可能性が企図・発見され、生活世界は習慣的な境界設定や生活世界の世界観を想像によって乗り越えてゆこうとする創造的形態のための材料となっている。

 ゼールは美的経験の三つの形態を択一的な経験可能性として理解しておらず、(それぞれの重心を伴って独立している)それら経験形態の統一から出発する。これによりさまざまな経験の次元が美的経験の統一的な概念のうちに統合される。美的経験に先行する生活世界への一貫した関係づけが際立たされると同時に、反省的に距離化する構成要素が三つの形態すべてのうちで強調される。観照的な美的経験と想像的な美的経験は、生活世界から距離を取りこれを改編することによって特徴づけられる限り、このことをもっとも明瞭に行う。もちろん対応的な美的経験も、われわれの生活形式を直観化し生き生きとさせるものとして反省的構造を有している。それは、直観化を行う対応的な美的経験が自明的な何かをその自明性から直観性へと高めるからである。とはいえ、この対応的な経験形式は生活世界の経験に非常に近いところにある。この経験形式の契機の多くが生活世界の造形Gestaltungのうちに入り込んでいる。流行、建築、インテリア・コーディネートがこの対応的な経験形式に関係づけられる。日常の暮らしにおけるこれらの契機は必ずしも美的に経験されるわけではないとはいえ、われわれの日常生活の背景と環境がどのように体験されるかを決定的に特徴づけている。こういったわけで、生活世界と美的経験との連関をより詳細に照らし出してゆくさいに、そうした反省的に距離化する構成要素が対応的な美的経験に関しても指摘されるのである。

 そのさいいま述べられた反省性ということで意味されているのは、美的経験の対象が概念的反省の客体となるということでなく、そうした対象が直観的で感覚的に把握可能な平面にとどまり続けているということである。美的経験が反省的次元を有するのは、美的経験によってわれわれが世界観の可能性と、体験の仕方や感じる質と対峙するからである。したがって美的経験は感情的に関与する経験遂行といつも結びついている。おそらく美的経験のもっとも繊細でもっとも内容豊かな形式である美的な芸術経験がこうした反省的契機をもっとも明瞭につくり出す。芸術は美的以外の経験を映し出し、それを異化し、それと戯れる。そのさい、芸術が前もって存在する現実に関係していると(素朴な実在論の意味で)仮定してはならない。美学はしばしば思われている以上に広範なかたちで認識理論の問題に依存している。美的経験はむしろ生活世界の経験に反省的な仕方で関係している。生活世界の経験がどれくらい適切に外的現実を把握しているかは、[美的経験にとっては]別問題である。とはいえ美的経験にとってこの生活世界の経験は欠かすことのできない結節点となっている。美的なものにおいて生活世界の経験は直観的に表現され、圧縮され、様式化され、誇張して描かれ、異化され、戯画化され[原語はkarrikiertだがkarikiertの誤植か]、見てわかるほどに歪曲される。それゆえ美的経験は、擬似宗教的な特別体験として把握されるべき経験様態ではまったくない。芸術経験についてマルティン・ゼールは次のように定式化している。

    成功した作品は経験する者をその経験の世界から連れ出したり、そこから解放したりするのではない。経験する者には、経験しながらその経験と関わる自由がある(13)

 こうした〈関わりの作用空間 Verhaltensspielraum〉は私には美的経験の構造にとって中心的な意義をもつものと思われる。美的経験は薄暗い浮世に孤立するものではなく、また地上の命運から切り離されているようなより高次の美的領域の発見でもない。美的経験はむしろ、われわれの生活連関の連続性の内部で経験から距離をとるようにし、われわれの経験空間の内にある〈関わりの作用空間〉を発見する可能性としてのみ理解されるべきである。美的経験は経験を直観化し、選択的な経験空間と経験可能性を経験可能にし、自分たちの日常にある直接的なもの、自分たちを巻き込んでいるものからわれわれを引き離すのである。

 この美的な経験可能性が特別なのは、観察され体験された経験遂行そのものにそうした反省性が向けられていることのうちにこそある。その特別さは、自身の実存の理解に向けられる実存的自己反省ではなく、行為規範の反省的検証でも、われわれの認識能力の条件の反省でもない。美的経験において観察は自分自身の下にとどまり、観察者は世界観とのこうした戯れを享受する。この美的享受は、美的以外の仕方でも充分享受可能なものとして体験されるものと対応していてはならない。誰もが次のような美的な芸術体験を知っている、つまり衝撃的で、いずれにせよ「享受」という概念をまったく不適なものとさせるような質を有するような芸術体験を誰もが知っている。美的享受を理解するのに求められるのは、対象の直接的で感覚的な享受を度外視することである。ルートヴィッヒ・ギーツは彼の『キッチュ現象学』において主に感覚的な享受と美的に享受することとを区別している(14)。美的享受においてはまさに距離化の作用によって享受がなされる。自身の感覚的体験ないし感覚的体験の可能性を美的経験において想起したり異化したりすること、そして体験の対象とこのように戯れることが、美的享受を特徴づけている。

 美的享受の概念に対する特別な挑戦となっているのが、ペーター・ヴァイス[1916-82, ユダヤ系の劇作家]の戯曲『追求』[ユダヤ人虐殺に加担したドイツ大企業の役割を主題とする裁判劇]である(15)。一九六四年作のこの戯曲はアウシュヴィッツ裁判の法廷発言を十一の章歌で構成されるオラトリオに仕立てている。ここではドキュメンタリー風の素材が用いられているものの、著者によるその素材の連関設定、圧縮、注目を見誤ってはならない。享受について言えば、それはシニカルなように思える。観客はこの戯曲に息を飲む。感情的にほっとする可能性はいっさい残されていない。出来事に対して距離をとるきっかけを観客に提供するような道徳的憤りは戯曲のどこにも分節化されていない。フィクションの演出と向かい合わされる[観客の]意識がスペクタクルによって衝撃を受けるきっかけもないし、どこかに逃避する可能性もない。グレゴリオ頌歌を想起させる平然さと共に、絶滅マシーンが実演される。[ここでは]恐るべきことがまさに規範性となっている。しかしながらペーター・ヴァイスは第十一章歌の演出に力を注ぐことで、この戯曲が出来事の演出・美的な仕立てあげであり、裁判の議事録ではないことを明確にさせる反省的距離を産み出している。こうした第十一章歌の形式によって合唱の整然とした単調さが喚起され、同時にそれによって呈示の形式的厳密さと人為的性格がはっきりとしてくる。重要なのはホロコーストの演出なのであって、この演出はまさに道徳的な憤りへと逃避させないようにすることによってこの出来事に対しあらたな〈関わりの作用空間〉を開くのである。出来事に対しての平静もしくは非関与的な態度はこの自由空間とまったく結びつかない。しかしこの戯曲は、観客にはお馴染みのホロコーストに対するあらゆる反応の仕方から観客を引き離す。これによって経験主体と対象との関わりは揺り動かされ、経験主体はある意味、美的にも魅惑される。とはいえこの魅惑ほど、恐怖による誘惑、もっといえば驚愕すべきものの美化すらからも遠く隔たっているものはないだろう。まさに出来事のえもいわれぬ不気味さに直面することで、われわれすべてにはもうお馴染みの無数の反応の仕方がどれほど不適切かがわかる。ペーター・ヴァイスの戯曲は、その美的形態と極めて緊密に結びついた反省可能性を切り拓く。この戯曲が示しているのは、生活世界からの距離や自由な〈関わりの作用空間〉や美的戯れSpielの議論が人の好みや遊びごとSpielereiとは無縁であって、むしろこの自由空間からなされる美的享受がステレオタイプの関わり方とは違うかたちで生まれてくるということである。そうした美的自由を経験する可能性は、大きな実存的意義をもつことができる。ペーター・ヴァイスのドラマの例が示しているのは、こうした極限ケースにおける美的享受が感覚的享受から遠く隔たっているということである。このドラマは衝撃のきっかけとして悪用されることがないのと同様、そのまま「享受される」こともない。このドラマは、普段の感覚や反応の仕方を遮断しながら、自らの形式によってホロコーストに直面するさいにありうる感覚を経験させる。だがまさにこのことによってこのドラマは、美的に享受される未解決状態(この状態では対象とその対象との独自の関わりが経験される)をつくり出す。こうして現実の出来事の経験に対する美的ならではの関わりが可能となり、この関わりは歴史に対する自身の態度の理解にとってふたたび有意義なものになることができる。

 自己目的的な世界観と経験可能性の経験として美的経験を記述したさい、私は多くのことを棚上げにしておいた。私が示唆しようとしたのは、美的経験の構造であった。とはいえその構造はまったくさまざまな仕方で現実化し、美的経験が可能になるかは多くの前提に依存している。それはたとえば、経験主体がいつでも美的経験をすることができる状態にあることなどである。美的な自然経験に身を閉ざす無数の可能性も存在する。とはいえそうした可能性は美的経験の外にある条件に基づいて誤って立てられたものであり、これを不可能化することもできる。美的以外の経験と[芸術による]経験の分節化との戯れはかろうじて[現実とは]別様に理解されるのだから、美的な芸術経験にとって教養はしばしば不可欠なものとなっている。とはいえ芸術史の教養は美的な感覚能力を歴史学の細々とした知識の山に一緒くたにして埋めてしまいかねない。美的経験による〈関わりの作用空間〉を可能にするには、この美的な〈受容の自由空間〉がさらに与えられていなければならない。[しかしその場合、]芸術は機能主義化可能になり、美的な様式化はイデオロギー的に利用されかねない。[美的な受容可能性は〈与えられる〉ものであるのだから、]ドイツ人教師たちは、シラーの『盗賊』にある美的刺激すべてをあらゆる世代の生徒から奪いとることができる。美的経験は自明なものとして与えられるのではなく、美的経験に対する可能性は狭めることも広げることも可能である。ここで美的経験の構造の内的論理を掘り起こす試みは完全に批判的な機能をもっている。美的経験の構造分析のおかげで、美的現象との交渉が美的内の根拠から判断することが可能になる。操作的な意図をもって美的なものを機能主義化することは、これまでの考察によれば美的な根拠から指摘可能であるが、まだそれは社会批判的もしくは道徳的な根拠から指摘されてはいない。同時に美的経験をそうした把握[美的なものは機能主義化される危険があること]を前提とするなら、美的なものを美的な世界観にまで拡大し全体化することは説得力を失う。というのは、もし美的経験が美的以外の世界観と経験のされ方との対立の形態としてのみ理解されるなら、この対立形態が美的な世界観に様式化されるとき、世界の経験可能性からは[現実性という]土台が奪われてしまうからである。美的なものは、われわれの美的以外の世界観の問題化、批判、戯画、追認として思考される。しかしこれらすべての可能性のどれもが、不可避的に美的なものの外部に向かうよう指示されている。とはいえ、美的な世界観などというものは、自らのかりそめの性格、美的経験にしか近づくことのできない性格を捨て去ってしまっているような世界観にすぎないだろう。それゆえ美的な世界観なるものは美的なものとはいい得ないだろう。

 

 

4.道徳哲学的な基礎

  とはいえこのことすべては道徳とどう関係するのか。〈美的経験が人間の道徳的改良に寄与するかもしくは道徳的善を直接に洞察させるのではないか〉と期待している者は、これまでの議論に失望しているに違いない。われわれの経験や世界観に対する〈関わりの自由空間〉を与えてくれる美的経験は、さまざまな反応の仕方や関わり方に開かれている。美的経験は必ずしも道徳行為を惹き起こすわけではないし、道徳的に正しい行為規範をめぐる争いを調停できるわけでもない。美的経験の道徳的意味に立ち入る前に、まず道徳哲学の領域へと少しだけ足をのばすことは無益なことではない。

 倫理学にとって中心的な意味をもつのは、倫理的反省のさまざまな設問を区別することである。善き生や首尾よい生への問い道徳的・規範的な問いから区別される。ハンス・ケルナーは倫理の二つの領域をこれら二つの問いに割り振っている。「努力の倫理」は首尾よい暮らしの目標や道程を反省するのに対し、「当為の倫理」は道徳的義務とされるものをその対象にしている(16)。善き生や首尾よい生への問いで問題となるのは、人間の暮らしの目標を探求することである(17)。そこでは個々の目標を一貫性あるものにし矛盾を解消することが試みられる。人々は善き生の幻想的なイメージに気づかされる。この努力の倫理の判断は人間のさまざまな個別的欲求に立ち戻って結びつけられ、最終的にはとても基礎的な〈生活態度Lebensorientierung〉に依存している。その根本的な問いは〈私はどのような人間になりたいのか〉である。そのさい自分自身の生を善い方へと導いてゆくことは、個々人や社会に媒介されていてしばしば個々人の影響の及ばない〈価値態度Wertorientierung〉に依存している。だがこの〈価値態度〉も暴露され、部分的には決断の対象ともなりうる。しかし倫理的反省のこの領域全体は道徳的義務とされるものに進出することはない。何が善でかつ首尾よい生の構成要素や条件とみなされるのかという設問から、私は義務とみなされるものや自分の幸福を得ようと努力することはできないし、他者の幸福を得ようとすることもできない。たしかに他者の幸福は善き生に関する私のイメージの対象になり得るが、それによって道徳的義務とされるものはいっさい生じることはなく、むしろもっぱらこの私のイメージは個々に選ばれたか集団で共有されるかした〈生活態度〉の対象である。

 道徳的・規範的領域では事態は異なる。禁止義務であろうと命令義務であろうと、ある行為が義務あるものであるとわれわれが仮定する場合、この要求が誰に対しても拘束力をもつ普遍化可能な道徳法則に基づいているという事実からわれわれは始める。もっとも、そのような道徳法則が拘束力あるものとして証明されるかどうかは議論の余地がある。いま私が言いたいのは、妥当性をもつ道徳法則の条件が可能であるということである。

 ここで非常にわずかばかりではあるが、私の考察の基礎にある道徳哲学の諸前提に立ち入っておこう。私が定位するのは、(ドイツではクラウス・シュタイクレーダーによって知られるようになった)(18)アメリカの哲学者アラン・ゲワースによる道徳哲学の見積もりである。一連の小規模な論証の中でゲワースが示すのは、〈行為能力のある者なら誰でも、どういった行為能力のあり方であれ、その特定の基本的権利を承認することが合理的に要求される〉ということである。さらにゲワースは、行為能力のあるものなら誰でも自らの視座のうちから必然的になさねばならない評価に基づく論証を提起している。ゲワースはこの方法を「弁証法的に必然的な方法」としている。この基礎づけのやり方が弁証法的なのは、一連の論証が主張文の論理的順序をつくり出しているからではなく、行為者が行為する者である限り自分自身と関係するさいになさねばならない一連の必然的な判断となるからである。あらゆる行為にはそのつどの行為目標の肯定的評価が内在しているとゲワースは詳述する。そのさい行為者がどの目標を目指しているのかは真っ先にまったくどうでもよくなる。行為者は自分の行為目標をいつも肯定的に評価しているので、行為者にとってその行為目標は善になる。論をさらに進めながらゲワースが示すのは、〈求められる手段の肯定的な評価も目指された行為目標の肯定的な評価と必然的に結びついている〉ということである。ゲワースは、特定の手段は特殊な行為目標だけでなくどの行為にも求められることをさらに示しながら、行為能力のある者なら誰にとってもあらゆる行為において構成的である必然的な善にたどり着く。

 ここまでの論の歩みで示そうとしたのは、〈行為者は特定の必然的な善への要求を自ら認めなければならない〉ということである。行為者が行為能力のある者である限りにおいてのみ、この要求は行為者の必然的な自己評価の対象であるのだから、行為者はこの要求を他の行為能力ある者にも認めなければならない。それゆえゲワースは、行為能力のある者であることと結びついている特質から基本的な道徳法則(彼はこれを「類的整合性の原理principle of generic consistency」と言い表している)の承認が生じてくると結論づけている。「どの行為者も、自分自身と同じく自分の行為を受けとる者が有している構成的な権利とつねに一致するように行為するべきである」(19)。この道徳法則が守る道徳的権利の内容面での規定は、行為能力にとってそうした権利が必然的であることから生じてくる。行為能力の保持や拡大に求められる善は必然的な善である。この善は道徳要求の対象であり、どの行為能力ある者もこの要求を正当に掲げることができるし、逆に他の行為能力ある者どうしでこれを守るよう義務づけられている。そのさい、この善が行為能力の保持にとって適切かどうかによって善のヒエラルキーが生じてくる。ゲワースにとって道徳法則のこうした指摘は個人の個別行為の道徳的評価にのみ役立つわけではない。むしろ道徳法則は、行為が制度と適合する限り、基本的権利を長期的かつ効果的に守れているかを検証する基準をも[善のヒエラルキー]委ねてしまっている。[道徳行為の]基礎づけ行程のこのひどく簡素な粗描はまだ思考を重ねなければならないだろう。ゲワースにしたがう道徳法則の導出から帰結するのは、〈行為能力の保持に求められる最低限の善が道徳的権利の対象でであること、さらに行為能力の拡大が道徳的権利の対象であること〉である。もっともこうした道徳的権利は必然的善のヒエラルキーにおいて、たとえば身体的無傷への権利と同じように重要度のランクをつけられことはない。

 

 

5.美的経験の道徳的意味のために

  私が示そうとしてきたのは、生活世界の経験に対し〈関わりの作用空間〉を非常に際立った仕方で開いてくれる特殊な経験様態として美的経験が理解され得るということである。この美的経験において、戯れと快に満ちた呈示と世界観や世界通路との対立は、その遂行そのものだけが問題となっているにすぎない経験である。倫理において私は、善でかつ首尾よい生の遂行への問いと道徳的・規範的な問いとを区別した。後者の道徳的・規範的な問いに関しては、行為能力の条件の保持と拡大が道徳的権利(これに対応するのが道徳的義務とされるものである)の対象として示され得ることを私は主張したのだった。美的な領域と倫理・道徳的な領域とをまず独立にそれぞれ考察することが方法上、求められていることのように私には思われる。[もしそうせずに、]美的経験と道徳との関わりを規定するなら、それは方法として疑わしいものであり、そうした規定においては美的なものの理解は道徳の欲求のためにすでにアレンジされるか、逆に道徳の理解は美的なものの欲求のためにすでにアレンジされてしまっているだろう。では美的経験と道徳の理解にとって、ここまでなされた論述から何が生ずるか。

 まず善き生への問いに対して美的経験がもつ意味からはじめよう。美的経験はわれわれに世界の見方を呈示するが、この呈示はわれわれ自身の生への実存的な問いにすっかり限定されることはない。美的経験においてこの世界観は道徳的に判断されることもない。世界観は直観化され、戯れに異化され、距離化される。世界の見方と生活可能性との戯れの対立が、美的なものの特殊性である。われわれは美的経験以外のところで、自らの暮らしの拘束性からこのように戯れに距離をとることはない。それゆえ美的なものは装飾アクセサリーなどではなく、さもなくばしばしば誤解されている、人生の真摯さや芸術の明朗さに関するシラーの箴言のように厳格な日常でもない。むしろ距離化し異化する美的能力は、馴染みの生活観からの隔たりを提供し、このように美的なもののうちにおいてのみ可能な代替となる見方への視座を提供する。とはいえ、自らの生活方針について実存的に狼狽しながら問う者は美的経験のうちに或る反省媒体を見出し、なるほどこの反省媒体はどの暮らしがこの者にとって善であるかを言うことはないが、この者にあらたな視座を開きその反省を豊かにしてくれる。〈われわれの現実把握に対する芸術の作用の一つは、別様にもあり得るという洞察を芸術が媒介することのうちにある〉とアドルノは述べた(20)。美的経験が有する距離化させるポテンシャルは、善き生の構成要素やその条件への反省に対する美的なものの寄与であるように私には思われる。しかし道徳的・規範的なものへの当為倫理的な問いの意味において、美的なものの真正に道徳的な適切性とは何か。なるほど美的なものは、道徳的に示されるものを示唆しない。それでも私は美的経験の道徳的意味の諸契機に立ち入ってみたいと思う。

 (1)美的経験において行為の作用空間が開かれる。〈美的なものにおいてわれわれは、経験しながら経験と関わる可能性を有する〉と私はマルティン・ゼールと共に述べた。美的なものは行為の作用空間を開くのだが、それは道徳的に不適切な仕方で行われるのではない。[むしろ]この行為の作用空間は道徳的な行為と非道徳的な行為の両方に役に立つ。とはいえ、行為能力の拡大がゲワースの意味で道徳的な善とみなされることに関して言えば、行為の作用空間の拡大それ自体は、行為の多様性を拡大させる諸前提の一つである。行為の作用空間を開く可能性を美的経験に与えるのは、まさにこの美的経験の道徳的不適切性である。とはいえ行為能力の拡大が道徳的善であるなら、道徳的に不適切な美的経験の実現も同じように道徳的に価値がある。もっとも、気づいておかねばならないのは、さきに粗描した善のヒエラルキーの枠内において別の善がより道徳的であると評価されることもあるということである。もちろん美的経験を実現するための中心的な人間権利を失効させるようとする思考ゲームなどは、このような仕方で基礎づけることはできない。

 (2)道徳において問題になるのは、人間の欲求と関心を保証することである。さきに粗描された道徳的権利の証明のための倫理学的論証は、どういった欲求が道徳的権利として道徳的に保証するに値するかを示すべきであった。しかし欲求一般を保証するためには、この欲求の理解と知識を広げなければならない(21)。人間の欲求を呈示し、それを直観にもたらすのはいまや美的経験である。この呈示と直観化によってのみ美的経験は人間欲求の理解に寄与する。とはいえこうしたこと以上に、美的な制作それ自体と関連する〈欲求の分節化の形式〉が存在する。この形式に少し立ち入っておこう。

 美的経験は生活実践的な行為に背を向けることによって無道徳的な傾向の次元を含むこともある。行為者は行為にいたる決断をしなければならない一方で、美的経験において生活世界の条件を直観的に生き生きとさせる。[美的経験において]行為の圧力はなくとも、行為の呈示ないし受容はそれ自体で充足している。たしかに芸術的な創造自体は実践だが、それは道徳的に責任ある行為の要求を美的なものの内部で解消し、享受しつつ呈示されるなかで自らの目的Telosをもつような実践である。このように行為の作用空間への反省は、美的な制作のうちで行為の否定となる。美的に享受する者の知覚はその享受の視座のうちで行為の作用空間を解体し、この空間を美的知覚の場へと変容させる。責任ある行為の視座を除去するのは美的経験の視角そのものであるのだから、外的世界の影響作用を記述し、知覚し、これを戯れの暇つぶしのきっかけとするものの、これを戯れに制作し記述する以外にそうした影響作用と関わることのできない主体は美的なもののうちで切り詰められることになる。

 美的なもののこのような可能性は、美的な実存の企投としては失敗と思われるかもしれない(22)。とはいえ実存的企投としては失敗しても、美的経験の制作可能性としては失敗するわけにはいかない。芸術作品の内部空間で生ずる美的な全体化を描写する試みは、美的なものの可能性であり、そうした可能性はたとえばフランツ・カフカ錬金術的な芸術において実現されたものである(23)。芸術の内部空間での美的な全体化は、美的な実存の構想と重なるわけではない。むしろ芸術的可能性としての錬金術は、欲求を美的に分節化する特別な形態である。この特別形態は美的な芸術経験の可能性としてのみ与えられる。その他の生のつながりを徹底的に否定することで、美的な全体性を産み出す試みがなされる。

 ところでこうした錬金術的な手法が、美的な視座を永続的に(それゆえわれわれすべてにとって)設定しない者に対してもそもそも重要でありえるには、この試みを美的に享受し、これに驚嘆し、これを先のように経験する鑑賞者の独立性を前提とする。この美的な視座は、道徳的視座の考えられ得るすべての要求から自由ないし解放された無道徳的な視座である。実際、[道徳的視座と美的視座との]対比一般を把握するにあたって、われわれは道徳的な視座を生活実践上よく知っていなければならないが、〈[美的な]解き放たれBe-freiung〉が存在するのはまさにこの点においてである。こうした解放において鑑賞者、聴衆、感得者は、自身の欲求の無道徳的な次元へと彼らを引きさらう美的なものの次元を経験する。外的世界を美的に経験可能にし、何の要求を飲む必要もなくするという趣旨でこの外的世界を純粋に利用せんとする欲求は、おそらく誰もが知っている欲求ではない。しかしその欲求が可能なことを知ることはできる。この欲求は道徳的なものの個々の契機ではなく、道徳的視座そのものの否定であり、その点で隔絶Isolationのラディカルな形式である。

 この無道徳の欲求はいまや美的経験において呈示され得る。この欲求に結びついている快は美的な制作においてのみ直観的に交感可能となる。さらにここでは、生活実践的もしくは道徳的な判断から決定的に区別される形式においてこの快が経験されている。すなわち経験が価値から自由に体験されているのはなく、われわれはこの経験をせいぜいのところ美的に価値あるものとして考えている。とはいえ美的な評価は破綻した評価である、もっといえば生活実践の評価が記憶の痕跡としてのみ採用されていて、自らの拘束性を奪われているという意味で破綻した評価である。ここでは生活実践に拘束された生活世界の評価が失効しているということを知らないなら、美的経験もほとんど追体験不可能となる。この経験形態では欲求の美的な分節化は代替不可能である。どのみちこの分節化は、当該者の自己中心的な考え方が表われたような態度とはまったく別の質を有している。それはそうした自己中心的な態度が(当然ながら)道徳的判断の下にあるからである。

 こうした思考の歩みが(ほとんど極端な例で)示しているのは、美的経験が経験の内部空間で道徳的視座を否定する場合でも、美的経験はわれわれの欲求の理解に不可欠の寄与をなしうる分節化の可能性であるということである。人間欲求へのこうした通路を経なければ、道徳的判断はそもそも潜在的に道徳的保証を要求する自らの対象を失ってしまうだろう。道徳的に正当なかたちで保証されねばならない欲求への道徳的な問いは、この欲求が何らかのかたちで知られるときにはじめて問われるようになり、そこでほとんど分節化不可能な限界状況にまさに直面することで美的なものが成立するので、美的なものは格別に重要である。まさに分節化できないものという限界状況において、とりわけ保証の困窮が示されるという推測は少なくともすぐつく。欲求ないしそこで分節化されるものが美的な枠組の外で保証要求をも正当に掲げることができるかどうかは、美的なものの内部空間を逸脱し倫理的言説の対象であるような問いである。

 

 

6.自然の美的体験

  自然の美的経験は、その他の美的経験と共有する多くの特質をもっている。マルティン・ゼールは「自然美学」に関する比較的最近の議論をとりわけ活気づかせた(24)。ゼールによれば、多くの観点で自然の美的経験は人間の首尾よい暮らしに意義をもっているという。一方で自然の美的経験の可能性は、善で首尾よい生の潜在的な構成要素である。他方で自然の美的経験は人間の文化的な意味企投に対し、美的経験の他の形式とは異なる距離化の可能性を提供する。芸術の美的経験がそれだけで人間の文化創造の一部として理解できるのが、自然の美的経験にはこのことは当てはまらない。たしかに文化的・歴史的条件に依存する自然の美的経験のさまざまな形式が存在している。しかし自然の美的経験は文化的な意味企投それ自体に対して距離化の可能性や〈関わりの作用空間〉を提供する。ゼールが論ずるところによれば、この観点で自然の美的経験は首尾よい生を構成し得る部分Komponenteであるのみならず、同時に非美的な実践の特別な調整手段Korrektivでありまた首尾よい実存の理解にとってのモデルでもあるという。

 自然の美的経験の特別さは、人間学的な観点においても示される。アンネ・ケンパーは、自然の特別な美的性質が理解されるのは〈自然の積極的な偶然性〉への関心によることを認める議論をした(25)。芸術的な意図によってわれわれはそのような美的経験をしようと思うわけではないにもかかわらず、美的に尊重された自然においてわれわれは美的経験をなす。それゆえわれわれが自然の美的経験のうちに発見するのは、まさに自然の非制作物が、つまり人間の造形力から逃れたものがわれわれに美的な仕方で訴えかけてくるような経験性質である。

 美的に経験された自然の積極的な偶然性はわれわれにとってそれほどまでに重要であるのだが、その根拠はわれわれ自身の身体的存在の偶然性eigene leibliche Existenzにある。われわれは自然と出会うさいに、われわれ自身の存在の仕方に対応した表現の可能性を発見する。まさにわれわれは自然の美的経験において、作られたのではない自然と対峙するがゆえに、われわれの文化的な意味企投をたんに反映したのではない表現の質を見出す。自然の偶然性はむしろ汲み尽し得ぬポテンシャルを隠喩的な世界解釈や世界の見方に提供し、文化的な意味企投や世界解釈のあらたな視座をわれわれに開いてくれる。

 ケンパーによれば、自然の美的経験のこうした次元がわれわれにとって有意義であるのは、自然の偶然性において人間の身体的存在に対応するものがあるからである。この思想の意義を充分に理解するには、どういった重要性が身体性に認められるのかをはっきりさせなければならない。現象学・解釈学による自己意識の構造への反省において、自己意識は命題的な知識を手本として理解されるべきではないということが示されている(26)。自己意識を構成する〈認識する者〉と〈認識されるもの〉との合一は、主観がその反省以前に統一されていることを前提としており、この統一は人間の身体的存在を基礎としている。これに関して言えば、身体性は自己意識にとって、また人間存在の人格的次元にとっても構成的である。人格性が行為能力や道徳能力にとって構成的であることをもう一度考慮するなら、ここにも倫理との基本的な連関があることがはっきりする。

 したがってわれわれは自然の美的経験を自己目的として遂行するさい、自然の偶然性において、われわれ自身のうちにある偶然的な自然[本性]の表現形式に出会うのである。とはいえ外的自然のうちにこうした表現性質を見出すにあたって、われわれは自然を人間によって(のみ)作られたものとして経験しない仕方でこれに出会うよう指示されている。自然の美的経験においてわれわれは人間から独立した自然に関心を抱く。こうした自然の独立性においてのみ自然美的なものはわれわれに反省のポテンシャルを開き、そのポテンシャルにおいてわれわれは文化に抗する自由空間を獲得すると同時に、文化のあらたな見方や解釈のポテンシャルを経験するのである。

 

 

7.総括

  私は美的経験がもつ道徳的重要性のアスペクトのごくわずかを示唆したにすぎない。美的経験はわれわれに行為の作用空間を開き、日常の拘束から解放された、われわれの日常的な世界観や生活方針との特別な関わりを可能にする。美的経験のこうした可能性は美的なものの孤立的な契機から出てくるのではなく、その内的構造から出てくる。ぜひとも指摘しておきたかったのは、まさに美的なもののこの道徳疎外的な(極端な場合には無道徳的な)次元においてこそ道徳に対する美的経験の重要性があるということである。もっとも、美的なもののこうしたポテンシャルが道徳的に擁護するに値するのは、道徳的に擁護されるべき善が道徳的権利として基礎づけられ、また行為能力の必然的な善がこの擁護の対象である場合にのみ限られる。また私が美的なものの構造分析と道徳哲学的基礎づけに[議論を]限定したことをどう考えているのかについて、なお方法的に明らかにしておくべきだろう。倫理と美学との関わりについての議論は十数年来、両領域の境界を解消せんとするポストモダンの試みの影響下ですっかり動いてきたため、両領域の区別に固執したとしても、それはそれでこの議論にとって有益になり得ること示す必要があるように私には思われたのである。

 



(1)以下を参照。Martin Seel, Kunst, Wahrheit, Welterschließung. In: Franz Koppe (Hg.), Perspektiven der Kunstphilosophie. Texte und Diskussionnen, Frankfurt a.M. 1991, S.36-80.

(2)これに関してはロラン・バルト『神話作用』(篠沢秀夫訳、現代思潮社 一九六七年)を参照。

(3)美的経験と道徳との関わりを私は以下の本で詳細に扱った。Marcus Düwell, Ästhetische Erfahrung und Moral. Zur Bedeutung des Ästhetischen für die Handlungsspielräume des Menschen, Freiburg i.Br./München ²2000. このテーマでさらに重要な寄与をなしているのは、Jean-Pierre Wils, „Ästhetische Güte“. Philosophisch-theologische Studien zu Mythos und Leiblichkeit im Verhältnis von Ethik und Ästhetik, München 1990. Martin Seel, Eine Ästhetik der Natur, Frankfurt a.M. 1991 (ゼール『自然美学』加藤泰史・平山敬二訳、法政大学出版 二〇一三年). Josef Früchtl, Ästhetische Erfahrung und moralischers Urtiel. Eine Rehabilitierung, Frankfurt a.M. 1996. Hans Krämer, Das Verhältnis von Ästhetik und Ethik in historischer und systematischer Sicht. In: Bernhard Greiner / Maria Moog-Grünewald, Etho-Poietik. Ethik und Ästhetik im Dialog: Erwartungen, Forderungen, Abgrenzungen, Bonn 1998,1-13. Hille Haker, Moralische Identität. Literarische Lebensgeschichten als Medium ethischer Reflexion. Mit einer Interpretation der „Jahrestage“ von Uwe Johnson, Tübingen / Basel 1999.

(4) GWFヘーゲル『美学講義』(Werke Bd.13, S.13)

(5) Ebd. S.157-202.

(6)この議論に関しては以下を参照。Rüdiger Bubner, Ästhetische Erfahrung, Frankfurt a.M. 1989 (ブプナー『美的経験』竹田純郎監訳、法政大学出版 二〇〇九年). Martin Seel, Zur ästhetischen Praxis der Kunst. In: Ders., Ethsich-ästhetische Studien, Frankfurt a.M. 1996, S.126-144. Reinnold Schmücker, Was ist Kunst? Eine Grundlegung, München 1998. Bernd Kleimann, Das ästhetische Weltverhältnis. Eine Untersuchung zu den grundlegenden Dimensionen des Ästhetischen, Berlin 1999.

(7)アドルノの作品美学も、作品が形式にしたがいながら分節化によって特殊な形態にいたるところに作品の特別性をみている。作品概念の特色は、解放的で社会批判的な特定の作用を実現する作品の調和性に関連している。芸術作品にある「精神的なもの」を把握することはまさに作品そのものの経験のプロセスにおいてのみ開かれ、それゆえに作品概念の規定は美的経験を参照させる。ThWアドルノ『美の理論』(大久保健治訳、河出書房新社一九八五年S.125-132.

(8)芸術の制作アスペクト、つまりポイエーシス的アスペクトが美的経験という広範な概念においてどの程度把握され得るかについて考察することもできよう。以下を参照。Hans Robert Jauß, Ästhetische Erfahrung und literarische Hermeneutik, Frankfurt a.M. 1982, S.103-124. もっとも、美的経験と芸術とのこうした連関が芸術概念の獲得にはほとんど不充分であることは注意されてよい。Schmücker (1998) S.17を参照。

(9)カール・ハインツ・ボーラーとヴォルフガング・ヴェルシュとの論争を参照。Karl-Heinz Bohrer, Die Grenzen des Ästhetischen, München 1993, S.48-64. Wolfgang Welsch, Das Ästhetische - eine Schlüsselkategorie unserer Zeit? In: Ebd. S.13-47.

(10)ゼール『自然美学』S.38-88.

(11) Ebd. S.89-134.

(12) Ebd. S.135-184.

(13) Martin Seel, Die Kunst der Entzweiung. Zum Begriff der ästhetischen Rationalität, Frankfurt a.M. 1985, S.281.

(14) Ludwig Giesz, Phänomenologie des Kitsches. Zweite, vermehrte und verbesserte Auflage, München 1971.

(15) Peter Weiss, Die Ermittlung. In: Ders., Stücke I, Frankfurt a.M. 1976, S.257-449.

(16) Hnas Krämer, Integrative Ethik, Frankfurt a.M. 1992. 以下も参照。Martin Endreß (Hg.), Zur grundlegung einer integrativen Ethik. Für Hans Krämer, Frankfurt a.M. 1995.

(17)以下も参照。Günther Bien (Hg.), Die Frage nach dem Glück, Stuttgart-Bad Cannstatt 1978. Martin Seel, Versuch über die Form des Glücks. Studien zur Ethik, Frankfurt a.M. 1995 Holmer Steinfath (Hg.), Was ist ein gutes Leben? Philosophische Reflexionen, Frankfurt a.M. 1998.

(18)基本的なのはとりわけAlan Gewirth, Reason and Morality, Chicago 1978. われわれの文脈にとって同様に重要なのは Alan Gewirth, Self-Fulfillment, Princeton 1998. Klaus Steigleder, Grundlegung der normativen Ethik. Der Ansatz von Gewith, Freiburg i.Br/München 1999. Ders., Gewirth und Begründung der normativen Ethik. In: Zeitschrift für philosophische Forschung 51 (1997) Heft 2, S.251-267. Deryck Beyleveld, The dialectical necessity of morality. An analysis and defense of Alan Gewirth’s argument to the principle of generic consistency, Chicago, London 1991.

(19)ドイツ語訳はStegleder (1991) S.127による。

(20)アドルノ『美の理論』S.208.

(21)美学と欲求の分節化については以下も参照。Franz Koppe, Grundbegriffe der Ästhetik, Frankfurt a.M. 1983.

(22)これについてはゼーレン・キルケゴール『あれかこれか』(I,1-II,2. 1979)を参照。

(23)これに関してはアドルノカフカについての覚書」(ちくま学芸文庫版『プリズメン』収録)を参照。

(24)ゼール『自然美学』S.288-346. この議論に関してはさらに以下も参照。Gernot Böhme, Für eine ökologische Naturästhetik, Frankfurt a.M. 1989. Ders., Natürliche Natur. Über Natur im Zeitalter ihrer technischen Reproduzierbarkeit, Frankfurt a.M. 1992.

(25) Anne Kemper, Ästhetische Naturerfahrung – Anthropologische Überlegungen im Rahmen einer Naturschutzethik. In: Jean-Pierre Wils (Hg.), Anthropologie und Ethik. Biologische, sozialwissenschaftliche und philosophische Überlegungen, Tübingen 1997, S.110-147.

(26) Manfred Frank, Ist Selbstbewußtsein ein propositionales Wissens? In: Ders., Selbstbewußtsein und Selbsterkenntnis. Essays zur analytischen Philosophie der Subjektivität, Stuttgart 1991, S.206-251.