un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ミッテルシュトラス、コゼレック、ヤウス他『人文科学は、いま』(1991)目次と序論

[以下は Wolfgang Frühwald, Hans Robert Jauß, Reinhart Koselleck, Jürgen Mittelstraß, Burkhart Steinwachs, Geisteswissenschaften heute, Frankfurt/M 1991 の目次と序論。第一章のミッテルシュトラス論文が、18世紀の百科全書派による「学問の体系」の成立から1980年代のO・マルクヴァルトが提起した「補償理論」に端を発する「人文科学論争」までの、人文科学の位置づけをめぐる問題を丹念に調べ上げていて、非常に有益な印象。逆に第五章は目新しい主題ではあるが、いかにも科研の報告書という体で残念な感じ。]

 

 

             人文科学は、いま

 

                 目次

 序論

 第一章 学問の体系における人文科学(J・ミッテルシュトラス)

    第一節 学問の体系は存在するか?

    第二節 二つの文化

    第三節 人文科学という観念論的遺産

    第四節 補償か方向づけか

    第五節 人文科学と文化

 第二章 学科どうしの対話における人文科学のパラダイム論(H・R・ヤウス)

    第一節 人文科学の統合的パラダイム

    第二節 あらたなる〈学部の争い〉における対話的統一

    第三節 境界を乗り越える人文科学の機能:間文化的で人間学的な研究の手段

 第三章 人文主義による人間形成と自然科学・技術による人間形成:十九世紀の経験(W・フリューヴァルト)

    第一節 人文科学の正当性の危機

    第二節 研究と講義、理論と実践 

    第三節 人間形成としての学問

 第四章 学問の精神はどの程度、社会的か?(R・コゼレック)

    第一節 学問の実践の限界?

    第二節 〈精神〉の変貌と社会科学の成立

        a) 人文科学に内在する社会論

        b) 社会科学の相対的自立化

        c) 精神概念の切り詰めと、真正の人文科学の解放

    第三節 人文科学と社会科学に共通する人間学的・文化科学的含意

 第五章 人文科学とメディア(B・シュタインヴァックス)

    第一節 人文科学における電子情報処理

    第二節 学問というメディア

    第三節 メディア科学

             

 

                  序論

 ここに公刊された報告書が呈示するのはある研究プロジェクトの最終報告なのだが、その研究プロジェクトは科学評議会と西ドイツ学長会議の奨励に基づき、連邦研究・技術省の後援を受け一九八七年二月から一九九〇年三月にかけてコンスタンツ大学で遂行されたものである。コンスタンツ大学のプロジェクト・グループ(その構成員は報告書の執筆者と同一である)は、ビーレフェルト大学で並行して遂行された企画と連動していて、この企画の方は西ドイツにおける人文科学の外面的状況、すなわち制度や[研究者]個人の状況の分析に取り組んだ。数量的な科学分析という社会科学上の基準におもに基づいて遂行されるその探求は、『一九五四年から一九八七年にかけての西ドイツにおける人文科学の情勢と展開にかんする報告』というタイトルの原稿にまとめられ、この報告書と同時期に公刊された。

 コンスタンツ大学のプロジェクトの要点となったのは人文科学の研究であった。作業グループは学科間にまたがって広範な問題領域の探求に取り組み、学問史や学問体系や学問論のパースペクティヴからなされたそれらの探求は、人文科学研究の正当性と将来の役割にとって特別の重要性を有している。

 コンスタンツ大学の作業グループは、報告書を準備するに当たって合計六回の学術コロキウムを行った。それらのコロキウムの目標は、プロジェクトの見地にしたがって学科間で対話するために、異なる学科や専門領域からそのつど二〇人から三〇人の卓越した代表者たちを集めることであった。

 一九八七年二月十二日から十三日、ビーレフェルト大学の学科間研究センター(ZiF)で行われた第一回のコロキウム「他学科からみた人文科学」は、〈他の学問からみた場合、人文科学の個性もしくは各個人の専門分野の個性をつくっているのは何か〉という問いに取り組んだ。まさに企画の当初、人文科学の自己了解を規定する試みにとって重要だったのは、他の学問領域から人文科学に対しどういった期待が寄せられているのかを知ることであった。

 第二回コロキウム「啓蒙主義以来の学問体系の歴史的細分化プロセスにおける人文科学と社会科学」は、一九八七年十一月十三日から十五日にフォーアアルルベルク州の州都ブレゲンツにあるシュロース・ホーフェン州立教養センターで催され、科学論的、理念史的、方法論的、制度的な観点において人文科学の成立史とその段階的な自立化、学科間の相互排除[というテーマに]に取り組んだ。

 第三回コロキウム「現在の学問体系における人文科学と社会科学との関係」は、一九八八年九月一日と二日にリングベルク城(テガーン湖)で行われた。人文科学と社会科学の関係の歴史的変遷を問うことが前回のシュロース・ホーフェンでの会議の要点であったのに対し、今回はこれら二つの学問領域の関係、その境界と交差、その理論形式、機能、認識関心などが議論の中心に据えられた。

 第四回コロキウム「人文科学とメディア」は一九八九年四月二十四日と二十五日にバート・ホンブルクのヴェルナー・ライマース財団で行われ、諸メディアの発展に結果における人文科学の変化への問いが取り組まれた。議論の中心となったのは、呈示形式や伝達形式の変化、人文科学の公共性、自立的なメディア学の可能性などへの問いであった。会議にはラジオ局やテレビ局の編集者、学術出版社や全国版の日刊新聞社や劇場監督や劇場支配人の代表などが参加した。

 第五回コロキウムと第一回ドイツ・ドイツ語圏コロキウム「学問体系の歴史における社会の科学、文化科学、人文科学」は一九八九年六月九日と十日にベルリン(東独)の東ドイツ科学アカデミーで催された。コロキウムは長く粘り強い交渉の末にようやく実現し、今回はじめてかなりの数の学者たちが東西ドイツからやってきて、人文科学と社会の科学との関係についての対話のために集まり、学問の文化の複数性、将来の文化科学のための実践的基盤を創出する可能性、社会科学の研究を制度化する形式と東ドイツにおける講義について話し合われた。

 作業グループが第二回ドイツ・ドイツ語圏対話として第六回コロキウムを開催したのは、「ドイツ・ドイツ語圏の学問対話:それほど多くの発端はなかったのでは?」という主題のもと、一九九〇年四月八日から九日の期間にかけて、ふたたびブレゲンツ近郊のシュロース・ホーファーにおいてであった。[そこでは]東ドイツの改編プロセスにおいて社会の科学と人文科学がどういった役割を果たしたのか、両科学は今後どういった役割を果たしえるのかについて問われた。「ドイツ再統一die Wende」は[自国の]自己主張と[西ドイツへの]統合との間の文化的自己了解にとってどういった帰結をもたらしたのか。また学問の体系にとってどういった帰結をもたらしたのか。大学にとってはどうか。一九八九年十月/十一月[*1]のドイツ再統一以後、いまや一九四五年という発端は一九八九年というあらたな発端によって照らし出されることができた。こうした議論から、[東西統一した]あらたな連邦国家において人文科学の研究のはじめての総決算を共同作成する目標といっしょに研究プロジェクトの計画が成立したのだった

 報告書の対象は人文科学の研究の分析と視座であり、それらは学問の体系における、そしてそれを越えた自らの能力、役割、正当性に関わっている。各章の執筆者は、第一章:ミッテルシュトラス、第二章:ヤウス、第三章:フリューヴァルト、第四章:コゼレック、第五章:シュタインヴァックスである。文献目録(「付録」をみよ)はアンゲリカ・ヴィートマイヤーの助力のもとで作成された。分析の行程は以下のとおりである。

 

 第一章「学問の体系における人文科学」ではまず、人文科学が後に自らの学科上の座を見出した学問の体系への一般的問いに答える試みがなされる。そのさいに明らかとなるのは、〈諸学が関係づけられる体系という概念(もしくは統一という概念)が統制的な概念としてのみ意味をもつ〉ということである。とはいえ体系概念はその統制的な形式において、専門分野や諸学科の個別化してゆく傾向に対し自ら批判的かつ構成的であろうとする。同じことは、学問が自然科学と(社会科学を含む)人文科学という二つの文化に解体していったおなじみの事態に対して当てはまるのだが、こうした解体によって、さまざまな学問発展をもはや統一的な学問文化の表われとして把握できない状況がはっきりしたのである。こんにち、こうした統一の不可能性は[O・マルクヴァルトによって提起された]いわゆる補償理論Kompensationstheorie(補償の学問としての人文科学)によって確固たるものになっている。この補償理論は人文科学を近代化のプロセスから取り出し、人文科学を周辺化するのだが、人文科学はときおり承諾の学問Akzeptanzwissenschftenとして組みこまれることもある。そのさいこうした組みこみに対応しているのは、〈人文科学は方向づけの学問Orientierungswissenschaftenであるべきだ〉とふたたび誤解する過大要求である。

 (補償理論の枠組みにおける)過少要求と(方向づけの学問としての)過大要求に対し、連綿と続く人文科学の観念論的遺産、とりわけその強い理論的自己了解のうちに現われている観念論的遺産を背景にするかたちで、文化科学としての人文科学にあらたな視座を拓く文化概念が展開される。この視座において人文科学は、自然科学の発展を含んだ人間のあらゆる仕事と生活形式の総体概念としての文化に従事する。したがってその限り自然科学をも含みこんだ文化の対象は、世界の文化形式である。

 第二章「学科どうしの対話における人文科学のパラダイム論」は、〈どういった点で人文科学は、その問題設定、対象、方法によってまさに今日ふたたび学科どうしの対話にとって、また学問的に反省された文化の共通課題にとっても模範的となり得るか〉という問いを立てている。第二章は人文科学のこれまでの正当性や文化的遺産の保護を超えてゆくが、それは〈人文科学の前史が印象深く証言しているように、自らの要件そのものにおいて越境的でありつつも、ふたたび統合的で、とりわけ対話的であることが、学問の規律を形成するプロセスにおける人文科学固有の能力である〉というテーゼに基づいてである。人文科学の伝統を文化科学としてあらたに規定することによって現代的なものにする機会は、[越境的・統合的・対話的という]これら三つの機能を刷新するさいに了解され説明される。このように理解された人文科学は、間文化的な人間形成や人間学的な知識の道具として、技術文明を未来の社会的文化に再統合するという問題(この問題は、目下のあらゆる学科どうしの対話においておそらく最優先事項である)に対し真正に寄与することができるであろう。

 第三章「人文主義による人間形成と自然科学・技術による人間形成:十九世紀の経験」は、十九世紀を特徴づけていた〈言語的・人文主義的な人間形成と総合技術的な人間形成とのアンチノミー〉から、近代の大学の誤った発展の歴史的根底を明確化しようとする。そのさい、十八世紀後半以来、幾度となくくり返された人文科学の正当性の危機は、台頭してきた目的合理性の時代と関連づけられる。フンボルト流の大学改革における研究と講義との緊密な結びつきは、理論/実践問題の一部として示されていて、講義から切り離された研究の偏重に対し〈研究しつつ学ぶ〉というあらたな形式が要求される。学問による人間形成Bildungというフンボルト流の要求は拡張されて現代にまで及んでおり、人文科学は啓蒙する学として理解されているために、人間形成の学として、現代の再神話化傾向に対するバリケードとして、学問による自己反省の統合的要素として作用するまでになっている。

 テーゼにすれば次のようになる。すなわち、学問のそもそもの人間形成機能を断念することができないのは、すべての学問、とりわけ公共性へと向けられた人文科学が〈現代の「重要な問題」の解決に寄与しているかどうか〉ではかられ、講義と研究は互いに統御しあっていて、大学の「道徳的危機」はこの絶えざる相互の制御によって取り除くことができるかもしれないからである。人文科学による人間形成の独占なるものは存在しないが、その人間形成概念は、〈個々人と文化の自己反省がもっとも大事な学問の課題の一つであり、この自己反省がそのつどさまざまな学問の対象と方法に取り組むなかで自己同一性の発見や自己同一性の形成を問う〉ということを教えてくれる。

 第四章「学問の精神はどの程度、社会的か?」がまず指摘するのは、研究実践において自然科学、社会科学、人文科学の境界が絶え間なく踏み越えられているということである。方法の上で専門化してゆくことは理論的にみて共通のことであり、そうした専門化がなければ革新的なことは達成できない。第二の歩みでは、ドイツ観念論精神概念の変貌が述べられる。以前は共通のものであった精神は実証的な個別科学の細分化とともに部門化され、自らの共通の認識理論的な要求を失った。自らの問題領域のうちで研究する個別科学は、精神にとって代わる機能上の等価物を獲得するが、それは依然としてあらゆる学問の連関を前提としている。このように狭い意味での人文科学の内部でも、その社会的機能はつねにつきまとっている。あらたに成立しつつある社会科学は(新カント主義とパラレルな仕方で)精神を主観的に操作可能な認識能力にまで切り詰めている。そのさい客観的な精神は(とりわけ事実として)統一を打ち立てる力を失う。統一を保証する別の、生活や文化のようなたいていのところ前学問的な概念が正面から迫ってきている。最後の歩みでは、文化概念のメリットが素描される。とくに文化概念は、自然科学的な問題設定を含めた、人文科学と社会科学に共通の挑戦を主題化するのに適している。

 第五章「人文科学とメディア」はあたらしいメディアによるコミュニケーション世界の変容はどの程度、人文科学を挑発するものであるかという問いから始まり、この問いはさらに次の三つの観点で問われる。[①]あたらしいメディアは記憶媒体として、人文科学の知識のやりくりWissenshaushaltに大きな影響を与えている。[②]あたらしいメディアは伝統的な学問メディアの役割を変容させ、それによって人文科学と公共性との関係をも変容させている。[③]あたらしいメディアは人文科学に対し、あらたな対象領域を切り拓く。一方で電子情報処理の活用によって知識は爆発的に増加し、人文科学はますます寄る辺のないままこの爆発的増加に相対している。他方で電子情報の活用はテクストの処理システムを用いることで、人文科学の文献の作成と受容をかなりの程度変容させた。

 公共性に向けた人文科学のメディアは、今後も話題となり著作となるだろう。電子メディアの急激な拡大、とりわけマスメディアによって、人文科学は公共性において自らの効力をかなりの程度失った。人文科学による反省の対象となったのは、さしあたり「文化産業」や「意識産業」という文明批評的な視座で捉えられるあらたなメディアであった。文芸学や芸術学といった学科は遅ればせながら、また散発的に大衆コミュニケーションの分析へと方向転換した。コミュニケーションの文化をその構造や機能、影響力や歴史において調査するメディア学は、成熟した学科の境界を乗り越えることで学問をあらたに打ち立てるための模範になるだろうし、同時に人文科学を文化科学によってあらたに方向づけるための模範にもなるだろう。

 ここに公刊された人文科学の内部体制と展望の分析から、人文科学の研究の将来にとっての組織的で構造的な帰結が得られた。それらの帰結は本書の報告書の枠内で具体的な推奨提言となり、おのおのの推奨提言はアクチュアリティという根拠から、また(ドイツ全体の学問風景の挑戦をすでに見ることで)いま流通している印刷原稿から取り出されたか、すでに出版されたものである**。これら推奨提言はとりわけ、大学制度として文化科学の研究講義を創設することや、人文科学における大学外の研究制度の問題や、とくに学術図書館の情勢に関係している。ここに公刊され、一九九〇年夏に終了した試みは、すでに提起された分析によって人文科学の展望をも同時に定式化しようとするものであったが、この試みは人文科学そのものの領域においても味方だけなく敵をも見出すことだろう。報告書の執筆者たちはそのことを自覚している。人文科学に関する人文科学からみたイメージの多様性にも直面しなければ、あらゆる人文科学研究者の同意を得るような人文科学報告書でなく、人文科学のための報告書はおそらく可能ではない。したがって本報告書はその分析の部分においてもその展望の部分においても、人文科学のための報告書であろうとし、また人文科学を友好的かつ批判的に促進しようとするすべての人のための報告書であろうとしたのだった。

 

 

コンスタンツ、一九九〇年十二月

 

                     ヴォルフガング・フリューヴァルト

                     ハンス・ローベルト・ヤウス

                     ラインハルト・コゼレック

                     ユルゲン・ミッテルシュトラス

                     ブルクハルト・シュタインヴァックス

 

 

 

[*1] 1989年10月9日、東ドイツでは南部のライプツィヒでの反政府運動「月曜デモ」への弾圧を不可能と判断しホーネッカーが失脚、11月9日にベルリンの壁を開放せざるをえなくなった。

Steinwachs, B. (Hg.), Forschungsbericht: Geisteswissenschaften in der ehemaligen DDR. Berichte und Projekte, Konstanz 1991.

『人文科学は、いま:推奨提言Geisteswissenschaften heute: Empfehlungen』が再印刷されてドイツ研究・技術省に引き渡されている。