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un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

マルティン・ゼール「細分化された倫理学の部門としての美学」(1992)

Martin Seel, »Ästhetik als Teil einer differenzierten Ethik. Zwölf kurze Kommentare«, in: ders., Ethisch-ästhetische Studien, Frankfurt/M.:Suhrkamp 1996, S.11-35. [ ]で本文中に挿入した解説は訳者による。また〈 〉のくくりは文意をはっきりさせるために訳者が挿入したものである。

 

 

 

     細分化された倫理学の部門としての美学

 12の短いコメント

 

 

1.排他的な倫理学か包括的な倫理学

 

  現在の倫理学の活況はその危機の結果である。今日、倫理学はがっちりと現代思想に囚われた自らの限界を見渡すところで、すなわち善き生の倫理学と「応用倫理学」とにおいてとりわけ活況を呈している。現代倫理学は、特にそのカント的な流儀で道徳的義務の意味を解明しようとしたが、そのさいこの解明は事実的な道徳状況への態度決定や、善き道徳的生へのあらゆる仮定にも関わらなかった。現代倫理学はまさに具体的な生の遂行への問いすべてから自律している点にその強みを見ていた。それは純粋な道徳哲学になろうとしていた。倫理学という学科が先ごろふたたび得た栄光は、こうした[道徳哲学にならんとする]惨めな意図の裏返しである。古典-現代倫理学はそのもっとも神聖なところを純粋なかたちで保持することができなかった。この倫理学は道徳的に適切な生の根本命題を絶対的に基礎づけることができなかった、つまり人間の健全さとその歴史的状況についてのトリビアルな仮定ばかりでこれを基礎づけることができなかった。それは、個人倫理学と具体的な倫理学という両方の構成要素を含んだ倫理学が存在しないからである。

  倫理学がこれらの構成要素をすっかり遠ざけることができないといっても、それは〈倫理学が具体的な道徳の問題状況の解釈や真なる健全さ以外にありえない〉ということを意味するわけではない。倫理学はこれらの領域をその圏域内から締め出すことができないだけではない。道徳的行為とは何かを解明しようとするなら、倫理学は具体的な道徳状況と個人の健全さという二つの観点において説明されなければならない。倫理学にはこうした細分化という新規定が要請されているのであって、カントはこうした新規定によって倫理学を純粋な企てとして基礎づけようとしたのだった。倫理学は自らがその領域外に置こうとした倫理的なもののさまざまな次元の間の緊張を、自らの圏域のうちで言葉にしなければならない。しかしそれが意味するのは、〈現代倫理学は細分化を断念せずに、むしろそれを先鋭化しなければならない〉ということである。

  今日、バーナード・ウィリアムス、マーサ・ヌスバウム、チャールズ・テイラーその他において「包括的」な倫理学を求める議論が多くなされている(1)。〈倫理学は道徳哲学としての自給自足を当然ながら失った、もしくはよく考えてみるなら、そもそも自給自足などしていなかった〉という見解をもつ者、つまり〈個人倫理学(と共に美学)はどんな倫理学にとっても不可避的な部門である〉と考える者は「包括的」な倫理学の企てに味方する者である。とはいえ、彼らはこの倫理学によって、善、正義、美の主題を(これらがなんとかして関わるように)脱細分化するという要件にまだ従事してはならない。包括的な倫理学は総合的になってはならない(私はそうなるべきではないだろうと考えている)(2)。善、正義、美は「ひとつに」結びつけられたり、何らかの基幹によって結びつけられたり、もつれた「家族的類似性」を越えたところで結びつけられたりするのでなく、むしろそれらの重要性の連関(それらの内容上および概念上の相互的な依存性)が現状の差異からのみ理解されるべきである。美学は倫理学の一部門領域であるという事実から、狭い意味での美学と道徳哲学との同一性が生ずることはない。美学は善き生の倫理学に属するという事情から、美学が倫理学に、もしくは倫理学が美学に吸収されねばならないということにはならない。

 

 

                  2.賛否

 

 現代倫理学の危機は美学の活況ともなったが、それは倫理学であることをほとんど要求されたためしのない美学であった。美学と倫理学との接近は原則的に二つの仕方で行われる。美学は価値評価の倫理学もしくは規範的倫理学の部門ないし基礎として捉えることができる。価値評価的な倫理学(もしくは「個人倫理学」)は、個々人にとって(もしくは個々の共同体にとって)好ましい生き方や自己理解を問う。規範的倫理学ないし「社会倫理学」は、万人を鑑みて「道徳的」に(言葉の狭い意味で)正しい生き方や行為のあり方を問う。ソクラテスソフィストたちとの対立以来、争いは〈幸福な生を求める反省的努力は正義の命令によってかならず承認されるか〉をめぐってなされている。これに対応して美学もカントやシラーの時代以来、倫理へと開かれるところで、倫理的自己同一性のテーゼや善と正義の基本的な倫理学的相違を擁護する役割を担い始める。美学と道徳哲学とのあらたな対話は、善はどの程度独自なものかをめぐって正義とふたたび争われた論争を表われである。

  こうした道行きで古典的な対立にあらたな光が当てられるなら、それは美学が倫理学に開かれるのみならず、倫理学も美学へと開かれることでもある。その一方で、今日そうした開かれをさまざまに捗らせる方法にもっともな疑惑が向けられている。たしかに美学は(広く理解された)倫理学の部門である。しかし両陣営がこの結びつきによって消滅してしまうべきではないなら、美学は引き続き美学としての独自性が認識できる、細分化された倫理学の部門でなければならない。

  美学が(さしあたり道徳外の意味で)善き生の条件を分析する部門として理解されるなら、あらゆる美学は、個人にとって好ましい暮らしを扱う伝統的に広く解された倫理学の当然の部門である。それと同時にこのように理解された美学は、個人が何らかの仕方で義務づけられている行為のあり方をテーマとする狭義での道徳哲学とも真正なつながりを有している。美学が首尾よい生の根本形式を扱うことが本当なら、そして〈道徳とは善き生の根本条件と根本形式を尊重するものである〉という理解が依然として正しいのなら、美的な生は道徳の庇護の下で設定される現実存在の可能性に属する。美学は、道徳的考慮の中心的な領域についての解明を道徳哲学にもたらす。

  だからといって、倫理学全体にとってであれ、個人倫理学だけにであれ、美学を倫理学の基礎にまで格上げすることは重大な誤りであろう。第一にそれは正義(また連帯)の問いすべてを、十分わきまえた幸福への努力の問いに還元することが不可能であるからである。古代倫理学を切れ目なく[美学に]継ぎ足すことはできない。第二に、美学は善き生の条件を十分に分析することができないからである。最高の「存在の美学」であっても「存在の倫理学」の半分でしかないだろう。くり返すなら美学は、社会倫理学の持ち分であれ個人倫理学の持ち分であれ、その一つだけを受け継ぐのではない。

 
 

 

                 3.美学

 

 「美学」は知覚の教説を意味する。もちろん哲学的美学は知覚一般を扱うのではなく、感覚的ないし少なくとも感覚に定位する知覚のあり方を扱い、そこで「自己目的的なものとして」問題とされるのはこうした知覚の遂行である。このとき「知覚」は感覚における注意と同時に、情動や想像における注意をも意味している(こうした注意はしばしば知識の真正なあり方を含んでいる)。美学で厳密に言うところの「美」は、われわれが知覚しつつ交渉するものすべてにとっての言葉である(そのさいわれわれにはこの知覚に関係づけられた交渉自体が問題となっている)(3)

  美的知覚の優遇対象は、美的直観のための際立った機会となるため「美」と呼ばれる。美学における「美」という言葉によって参照されるのは、感覚・情動・想像において注意が決まった方向に向けられるさいに満足に値する対象ないし状況である。しかし美の瞬間と異なり美の対象ないし範囲は、自己目的的に感覚に定位する知覚の永続的な機会である。この機会の意味を理解するには、それが何のための機会であるのか、すなわち自分自身のためにこの機会に従事する知覚の実践のための機会であることをふたたび理解せねばならない。そのさい「自分自身のために」ということが意味しているのは、〈知覚することのため〉と〈そのように知覚されるもののため〉の両方である。事柄の知覚ないし知覚的滞在が何らかの状況ですんなり価値をもつことと、状況や事柄が独自に知覚されるに値することは、美的な連関では同一である。美的な実践は[知覚と知覚対象という]これら二つの構成要素の厳密な相互依存のもとで始まり、終わる。

  哲学的美学はこの実践を二重の観点において分析する。まず哲学的美学は、歴史的に始まる美的知覚の根本可能性を差異化・体系化しつつこれをはっきりさせようとする。その一方で哲学的美学は、美的実践に専念する理由があることを解明しようとする。哲学的美学は美的実践が何であるのかを言おうとするだけでなく、何のためにそれは善であるのかをも言おうとする。もっと言えば哲学的美学は、美的実践の〈何のため〉に答えようとしないなら、その〈何であるか〉にわかりやすく答えることはできない。〈何のため〉に対する哲学的美学の答えは(そもそもその答えがあるのなら)単純である。つまり美に向かうことが善であるのは、物を作りその物と関わることが善であるからであり、物は自己目的的にのみ価値をもつだけでなく、価値あるものの感覚的な意識をも開いてくれる。それゆえ私がここで単純化して語っている「美」は、たんに感覚的な仮象であるにすぎないものではなく、善であるものの感覚的な現実存在といってよい。もちろん、まさにここで問われるのは〈美はどのような類の善であるのか〉や〈美は道徳上、善とどのように関わるのか〉という問いである。

 

 

             4.存在の美学と存在の倫理学

 

 このわずかばかりの指摘がなんといっても示しているのは、細分化された倫理学の部門であろうとする美学はそれ自体、細分化されたやり方をとらねばならないということである。しかし先の指摘はまた、細分化されたやり方をとる美学がつねにすでに細分化された倫理学の部門であることをも示している。美学が扱うのは実践の遂行に定位する形式や機会であり、首尾よい生の可能なかたちである。それゆえ美学は、その支持者たちの望むか望まぬかに関わりなく、価値評価的な倫理学の部門である。自己目的的な現実存在の形式の分析は、以前より個人倫理学の考察の中心に位置している。自己目的的に評価され得る行為において首尾よい生が本質的に実現しないのなら、そうした生は一体何であるというのか。

  シラーの水脈のうちで、もしくはその奇妙な同盟者であるフーコーの水脈のうちで、美的な態度のとり方は自己目的的な存在形式すべての頂点であるかどうかについて熟慮することすらできよう。直観による自由としての美的実践か、主体の明確な自己規制としての美的実践かという観点で見るなら、シラーとフーコーという二人の著者の相違はそれほど大きくない。いずれにせよ、倫理的に動機づけられたシラーとフーコー(もしくはショーペンハウアーニーチェ)は規範的倫理学を調整するか、変形するか、その代わりとならねばならないという「存在の美学」を求めているが、そうした彼らの声は、美学の魅力が現代の個人倫理学にとってどれほど大きなものかを示している。美学は、個人倫理学が道徳主義化して狭隘になることすべてから解放するのに適しているように思える。だとすれば、個人倫理学は本来的に美学なのではないか。

  とはいえ、こうした主張はひどく誇張されている。第一に、遂行に定位する行為すべてが同時に特殊な意味で美的な行為であるわけではけっしてない。会話においても、理論においても、たとえばスポーツにおいても、美的な構成要素がかならずそれらの中心にあるというわけではないし、これらの活動が自己目的的になされる場合でも同様である。友情の例はもっとはっきりしている。友情がなぜ美しいものであるかは、たとえば感覚的に互いに同情しあうというような美的な把握では十分に説明されない。友情が美しいのは、良き友情に(それゆえ狭い意味での道徳的な関係の連続性には)信頼や信用のような側面が属しているという理由だけに限られない。友情にはまた共にすごし共に予感した時間という実存的連続性が属しており、そうした連続性は美的な承認の紐帯よりも持続的である。美しいと感じられる互いの親近感が欠落することによって、あらゆる友情がどれほど危機となるにせよ(また互いの親近感と世界の事物に対する親近感の二つの契機が当てはまるあらゆる愛情がどれほどその死となるにせよ)、良き友情はこの危機を乗り越えることができる。美しいと感じられる連続性において友情が示されることはない。おそらく、良き友情はそうした美しいと感じられる連続性(それなくして愛情は存在し得ない)など期待していないとさえ言わねばならない。

  第二に、自己目的的な現実存在形式について熟知していれば、それだけで生の首尾のよさが決まるというわけでもない。そうした現実存在形式は好ましい生にいたるには違いないが、好ましい生がたいてい自己目的的な行為において実現するとは限らない。また何らかの手段を講じることによる首尾のよさや[自己目的以外の]目標に定位した行為のたぐいはけっして軽蔑されるべきではない(4)。〈目標に定位して行為することはすべて美的な仕方で遂行されねばならない〉などと要求するなら、それはまったくの不条理であろう。その他の点からしても目標に定位して行為することは、あらゆる段階が自分のためになされる美的な行為を定義することすらない。美的な行為は自己目的的な知覚の遂行を目指すが、そうした知覚の遂行を(芸術家としてもしくは鑑賞者として)可能にし達成するにはひどく厄介な手段、広範な方法、持久力がしばしば必要となるのであって、それは美的行為以外の多くの好ましい要件においても同様である。

  それゆえ自己目的的な現実存在の中核が美的実践である場合でさえも、もはや美的実践は首尾よい生の普遍的な中心ではないだろう。このことが意味しているのは、美学は生きてゆく上での倫理学の部門ではあるが、それ以上のものではないということである。善き生という美学的概念は、たとえそれが実行されるべきものであっても、重要な概念ではあれ一面的であるがゆえに、それだけでは不十分な概念であろう。ヘーゲルが正しく見ていたように、現代美学は自らの扱う制作形式や知覚形式と共に救いがたく部分的になっている。ただしそれは弱みではなく大きな強みである。美的知覚が生の現実性を浸透力を有し心を揺さぶるものとしてめったにかさ上げしたり美化したりすることのない月並みなものに成り果てた結果、美学は倫理学の内的な調整方法となるが、そのさい美学は個人の暮らし全体にとって有意味である倫理学との限定的な関わり方という非機能主義的な意味を貫き通す。

 

 

          5.美的な自己同一性vs存在の自己同一性

 

 多くの著者たちが倫理学に対する美学の限定的な関わり方を認めているにもかかわらず、生きてゆく上での倫理学のうちでの主導機能を美学に認めてしまうのではないだろうか。たしかにそうした著者たちは、美的行為が善き生の中核を構成することはないが、美的直観は(たとえどんなに脆く壊れてしまっても)人間的生を感覚的に統一する特権的な意識を伝達すると述べることができよう(5)。それはつまり、美的実践は首尾よい生活実践にとって代ることができないとはいえ、人生全体ないしそうした全体のあり得るかたちを眼前に髣髴とさせることがこの美的実践の構成的な内実である、ということなのであろう。結論的に言うなら、とりわけ芸術作品との交渉において個人はたんなる思想、たんなる想像、たんなる感情、たんなる直観ではあり得ないような仕方で自らの存在全体と対面する。遂行に定位する感性よりはむしろこうした芸術的な全体性とのつながりにおいて、倫理学と美学の近さが求められるべきだというのである。

  倫理学に対する美学の適切性を基礎づけるこうした試みは、純粋に芸術理論的な理由からすでに挫折している。この試みの支持者は(どのような作品であれ)芸術作品が存在の全体を呈示すると考えるよう強いられている。このことは、芸術作品が差し出し得るものを可能な限り自由に理解してよい場合でも説得力をもたない。芸術作品は倫理的な全体を呈示しないし、その逆もまた然りである。第一に、芸術作品の統一性がその差し出すものの統一性だけであることはごく稀にしかない。第二に、芸術作品がその手法全体において呈示するものが当の作品の統一性であることは極めて稀であり、むしろそのように呈示できるのはこの作品の統一性のおかげである。第三に、芸術作品は自らの統一性を提示するさいに、さしあたりその美的統一性を呈示するのであって、事実的な生や可能な生の存在の統一性を呈示するのではない。芸術作品は自らの形式によっていまの自分であり、自らが示すものを示す――これがすべてである。芸術作品は全体を意味せず、一つであり、それによって特別に(また自らの仕方で)意味を有する。

  このことを正確に受け取るなら、先の議論の根底には二重の歩みがある。まず芸術作品は存在の全体性のかたちを差し出していると述べられ、次に人間の生の統一性は何らかの仕方で芸術作品の統一性に似ているとも述べられている。しかしもし第一の歩みが誤りなら、第二の歩みも正しくない。またその順序が逆なわけでもない。それは、美による全体論を標榜する者たちが目指す存在の全体がまったく説得力をもたないからである。そうした全体は(現代的な)生の統一性に属するように見えるが、そもそも表現可能ではないし、芸術作品によっても無理である(6)。そうした生の統一性の表現とのつながりが重要であるのと同様、統一性のイメージは人間の生の遂行にとってたしかに重要である。しかし生の統一性はそのイメージや表現に吸収されることはない。むしろ生の統一性は統一性形成の形式に参与しこれと関わるプロセスにあるのであって、統一性の最終的な獲得や、よもやこの統一性の表現を獲得することのうちにあるのではない。生の統一性をたとえば物語り的な全体として理解するなら(それはたしかに限定的な説明であるにすぎないが)、この統一性が大きな物語の形式のうちに存するのでなく、むしろ原則的に開かれた一連の並列的な歴史において企図され活性化されるということが直ちに示される。こうした歴史にとって本質的なのは、物語の時間・空間によってそのつど変わってゆくことである。このように理解された「全体」は物語の可変的な地平であり、われわれはこの地平のうちでさまざまなかたちで自分自身と出会うが、われわれはこの地平の外へ出ることはできない。それは、この全体地平を単独化してしまう表現で示す芸術作品に出会うのでなく、(部分的に差し出されたものを用いて)好ましい場合にその全体地平を開くことのできるような個々の芸術作品と出会うとしても不可能である。芸術はその作品が多様化すると、存在その他の全体を表現する自らの役割を失う。これがいまの芸術の状況や芸術経験ではないだろうか。

 

 

 

              6.芸術作品という手本

 

 「芸術作品という手本」という見出し語ですでに暗示されているように、ここでは美的な自己同一性と存在の自己同一性との同一視によって倫理学と美学とを関連づけようとする別の試みが退けられる。さきほど批判されたイメージが〈個人の生は全体として一個の芸術作品のようなものである〉と主張するなら、ここでの別の提案は〈個人の生は唯一のものかもしれない〉主張する。私がここで考えているのは、ニーチェと古代に遡ったミシェル・フーコーによって刷新された思想であり、その思想は自身の生を芸術作品に仕立てることを重要視する(7)

  フーコーの言葉が向けられるのはとりわけ、制度に支えられた社会的道徳が個人の自己同一性の中心を形成するという思想である。この批判的なモティーフは説得的であるものの、先の提案の維持不可能性は何ら変わらない。「誰もが芸術家である」というヨーゼフ・ボイス[1921-1986, ドイツの芸術家]のテーゼが芸術によって規範的概念をすべて括弧に入れようとも、納得づくで実行されることがほとんどないとすれば、ここでもその実行はすでに困難なものとなっている。[人生は芸術作品であるという]倫理的な芸術作品テーゼ自体が明白に支持されるところでも、この芸術作品テーゼは不可避的に[誰もが芸術家であるという]倫理的な芸術家テーゼと頻繁に関連づけられる(8)。とはいえここでは倫理的な芸術作品テーゼに対ししっかりとコメントしておきたい。私の考えでは、フーコーにおける個人倫理学的な「存在の美学」の批判的な意味が救い出されるとすれば、それは倫理的な芸術作品テーゼが完全に断念される場合だけである。

  [フーコーに対する]根本的な異議は〈主体と主体自身との関係は、原則的に芸術作品が制作されることとも芸術作品に対する関係とも別のものである〉となる。しかし[芸術作品テーゼと芸術化テーゼという]両側面の一方は主体と芸術作品との類比を含まねばならない。第一の側面[芸術作品テーゼ]に関して言えば、アドルノその他によって主張された芸術作品の「プロセス性」に遡って話を始めなければなるまい。そしてその「プロセス性」は規制されない生の遂行の可変性と実験好きにとって手本となるはずである。そこでは〈開かれた意味プロセスを有する芸術作品は、個々人の自己同一性形成の開かれたプロセスを実演する〉といったようなことが述べられるに違いない。とはいえ[芸術作品受容と自己同一性形成との]こうした同一視はそれが担うべきものを担えていない。芸術作品はプロセス的な意味ないしプロセス的な内的組織を有しているが、自分の意味プロセスに関係づけられるプロセス的な存在は有していない。芸術作品は自分自身と関わることがない。芸術作品とその部分とを関わらせ、他の作品やそれらの世界と関わらせるのは知覚し解釈する主体である。主体は芸術作品がけっして実際には有することのない統一性と関わる。逆に[主体によって]芸術作品は自らが実際には関わることのない統一性を有することになる。倫理-美学的な全体論は、芸術作品を主体に、もしくは主体を芸術作品に一致させてもよい場合にのみ芽生えるのではないか。しかし芸術作品を主体に一致させることは美学の名で禁止され、主体を芸術作品に一致させることは倫理学の名で禁止される。もしわれわれは芸術作品にならんとするなら、フーコーが宣言した自己規制の能力をクロークに預けてしまわねばならないだろう。

  さらに、芸術作品テーゼで〈われわれとわれわれ自身との関係は芸術作品とわれわれとの関係のようであるべきだ〉ということが考えられているとしても、事態はほとんど改善しない。それは、まさに芸術作品との出会いがわれわれとわれわれ自身の関係を拡大させ、何らかの仕方では破壊すらするがゆえに、芸術作品がわれわれの関心となるからである。芸術作品によってわれわれは、自分と世界との関係や自分と自分自身との関係に対し特別な仕方で関わるようになる。しかし芸術によって与えられるわれわれ自身との実験的な関係の可能性は、われわれが芸術作品に対するように自分自身と関わり始めるや否や、抹消されてしまうだろう。われわれは芸術作品との出会いによって行為遂行上の方針を選ぶ自由を得るが、そうした自由がわれわれの日常的な存在へと移行することはないのであって、もしそうなれば日常的な意識と芸術に関連づけられた意識との差異と一緒にこの自由も消滅してしまうだろう。

  幸運にも、われわれは芸術作品に対するのとは違う仕方で自分自身と向き合うことができる。芸術作品は本質的に閉じた構築物であり、作品が生き生きとしているのはその閉鎖性による。作品のつねにあらたな解明や解釈への「開放性」はその内的な緊張の結果である。たしかに主体としてのわれわれは限りある存在であっても、有限な(表意的な)構築物ではないので、先に出されたわれわれとわれわれ自身の関係を審美化することはまったく不可能である。芸術作品と向き合うことは生の重要な可能性であるものの、生の有意味な理想ではない。芸術作品と向き合うことが有意味となるのはさまざまな実践によってそれがなされ、その実践が芸術作品という媒体のもとで距離化されたり変容されたりする場合だけである。ここでふたたび美的実践が示しているのはその本質的に対照的で調整的な意義であり、そのエネルギーや対象が生全体の理想ないしモデル、現われないし後光となるべきところでこの意義は表立って知られる。人間が芸術作品になり得るのなら、多くのことが人間から逃れ去り、芸術はもっとも確実に人間から逃れてしまうだろう。

 

 

               7.美的実践のモデル

 

 先の二つのコメントは、美的な全体論を挫折したものとして考えるよう勧めている。そのさい「美的な全体論」ということで私が理解しているのは、存在の統一性を説明する十分なモデルとして(とりわけ芸術作品の)美的な統一性を引き寄せる思想である(9)。この思想によれば、美的全体の形式は存在の全体の形式にとっての具体的なモデルになり得るという。個々人の生の全体性に注目することが人間の首尾よいあり方にとって重要であるのだから、美学は個人倫理学の基礎理論になる。しかし私が示しておきたいのは、美学も主体理論もこうした捉え方に反対する理由を有しているということである。

  しかしだからといって、美学の全体性との関わりが倫理学的に適切であるかの問いはまだ用済みとなったわけではない。それは、〈美的な構築や知覚が有する全体性の契機の可能性はどのように把握されるか〉ということが結局問題となるからである。美的全体論の誤りは、生の全体そのものを美的な仕方で考えるだけで、その(「開かれた」)全体にとって美的実践がどのような価値を有するのかを問わなかった点にある。この誤りは生の全体をいわば美的実践の内実にしてしまい、この実践がなす生の方針への寄与を全体的に規定することがない。美的実践の寄与は、すぐさま価値あるものとして機能するものの代替不可能な形式(同時にこの形式には他の多くの方針を調整する重要性がある)を開くことのうちにある。

  大まかに言って美的実践はその他の生活実践に対し、感覚に導かれる集中によって際立ち、また直観に関連づけられながら距離化することによっても際立っている。美的実践は遂行に定位しつつ、とりわけ目的に拘束されないその他のあらゆる現実存在が感覚的に自分と関わるよう仕向けるために、積極的な自由の状況を開く。しかし美的実践はそうした自由を完全に規定された仕方でのみ開き、その積極的な自由も善き生が構成するものすべてではないため(第四コメントを参照)、事実的にも観念的にも首尾よい生活実践にとって代わることができない。

  この議論はさらに強化されたかたちで支持される(10)。美的実践に関して示されるのは、それが極めて多様で共通化できない態度を善き生の緊張に満ちた統一性に対し有意味なものとして実現するということである。ここで美的実践は、とうぜん美的な可能性としては十分に説明され得ない基本的な生の可能性を知らせるものである。このように理解するなら、美的実践は実際のところ、首尾よい生の統一にとっての一事例(自分自身にとってのみという点で一面的な事例ではあるが)として引き寄せられる。とはいえこの統一性は、ここでは内容上の関連によってでなく美的な知覚遂行の多様性においてのみ与えられる。だとすると、包括的な美的実践は生の全体を指し示すものではなく、生の多様性を妨害されることなく開いたままにする一形式(しかしまたまさに唯一の形式)である。したがって美的実践の価値の可能性を個々人の存在の首尾のよさのために規定するにあたって、美的な主体は芸術作品に格上げされてならないし、芸術作品も捉えがたい全体の呈示になってはならない。

 

 

            8.存在の倫理と承認の倫理

 

 どれほど右往左往してみたところで、生きてゆく上での美学と倫理学は互いに吸収し合うことはない。同じことは価値評価的な倫理学と規範的な倫理学との関係にも当てはまる。美的実践と道徳的実践との関係にとってのいくつかの結論を引き出す前に、そこから個人倫理学と社会倫理学との関連について指摘することは有益である。

  これまでのところ「善き」生ないし「首尾よい」生が問題となるにしても、それは道徳以前の意味においてであった。そのさい善ということで単純に理解されているのは、個々人の健全さにとって善であるものや、十分理解された自分固有の関心のうちに存するものであって、この善の理解がどれくらい道徳的な命令と一致するかはどうでもよい。個々人に勧められるものとしての個人倫理学的な善の概念は、他者への道徳的な考慮がこの概念に差し出すものとの関係に関して仮決定を下してはならない。そのようにしてのみ、善と正義との連関を予断なき哲学的議論が可能となる。ここではこの哲学的議論を取り上げることはできない。しかしながら(個々人にとっての)善と(他者に対しての)正義とがどの根本において同一であるという見解が今日あちこちで復活し、これに対し多くのことが語られている(11)。道徳的に善であるものは、それが道徳的に善であるということを除けば、(たしかに必然的ではないものの)必ずしも私にとって善であるわけではない。どんなに望ましいかたちで収束させたと思っても、ここには止揚しがたい相違があることが正義の概念のもとではっきりする。正義が正義であるのは、正義の行為が私の関心事となっているからでなく、そうした行為が他者と共有される関心を尊重もしくは要求しているからであり、そのさい正義の行為がどの程度私の関心事になっているかはどうでもよい。正義が妥当性を有するのは、基礎的な(すなわち歴史的な共同体や社会において基礎的と理解された)生の可能性を考慮することによってであり、この可能性は私自身にとって重要であるように、そのつど関わる他者にとっても重要である。道徳の見地はこの対称性を承認することのうちにあり、その承認によって承認の対称性の地平が開けてくる。

  そうした承認の対称性によって特徴づけられる社会的関係への参加はおそらくすべての個人にとって善であるとしても、そこからただちに価値評価的な倫理学から規範的倫理学への移行が導かれるわけではない。それは、いま私がちょうど関わっている人々に対してだけでなく、万人に対して道徳的な承認が妥当するからであり、こうした承認の普遍化は私の方から推奨するものではなく、他者を考慮することで他者の方から差し出されるものだからである。しかしこの[二つの倫理学]相違を強調することによって同時に、善と正義との連関が示される。それは、道徳と正しさにおいて考慮されるべきものが個人の善なる生の意味だからである。この生の意味を守ることが個人の善の名において示されている(もちろんそれは個々人の息災の名においてではなく、万人の名においてである)。

  このことが意味しているのは、道徳哲学は公平で正義の行為において何が問題となっているのかを解明しようとするなら、もっとも可能性のある善の形式的な概念を前提としなければならないということである。たとえばカントが理性的人格の概念において、功利主義が幸福の概念において、そして討議倫理学が暴力なきコミュニケーションの理念において善の概念を自由に扱っているように、善の概念なくしては正義の概念も存在し得ない(12)。事態がそうである以上、生きてゆく上での価値評価的な倫理学はつねにすでにあらゆる規範的倫理学の一部、もっと言えば切り詰められない一部である。価値評価的な倫理学は規範的倫理学の課題を引き継ぐことはできても、その逆、つまり規範的倫理学は価値評価的な倫理学の課題をほとんど引き継ぐことができない。規範的倫理学は、(文化的・歴史的な観点においても概念的・体系的な観点においても)比較を用いた分析で善の形式的概念を獲得しようとする個人倫理学の知識に飛びつかざるを得ない。これによって価値評価的な倫理学は、道徳的な考慮の卓越した対象である、もしくはそうあるべきとされる首尾よい生の一般構造を指摘する。こうした労苦において存在の倫理学はあらゆる道徳哲学や法哲学の中心的な場を占める。それは、個人の善の形式的概念だけが社会正義の理論の跳躍点を言い表すことができるからである。かつてジョン・ロールズが的確に述べたように、「正義は限界線を引き、神は地点を示す」(13)

 

 

       9.(存在の倫理学の部門としての)美学と承認の倫理学

 

 美学の方から見てそれが個人倫理学の切り詰められない一部であるということが正しいのなら、美学は規範的倫理学にとっても適切である。美学の側からすれば、道徳哲学は首尾よい生の特殊な意味の解明を含んでいる。『判断力批判』以後、シラー、ヘーゲルショーペンハウアーニーチェウィトゲンシュタインアドルノらが道徳について記したことの多くはこのことを証明しているといえよう。美的経験や美の理論は道徳や道徳哲学に自己目的的な生の真正な可能性についての情報を与え、その「情報」は人が関わるもののあらたな知覚としばしば分かちがたく結びついている(14)。とはいえ、美的実践(とその理論)の側から道徳(とその理論)に知らされる暴露された事実はいつも進んで受け入れられるわけではない。そんなことは期待されるべくもない。というのは、美による「情報」は美的知覚と道徳的考慮との解消しがたい相違をめったに開示することがないからである。美的実践は自ら自身において自分の目的を有しているのに対し、道徳的実践はそうではない。道徳的実践は人間の自由の中心形式として美的実践を承認せねばならず、いまや道徳の方から[自らを]承認せよと概括的に要求する資格をもたない(15)

  なぜそうなのかは、それぞれの価値づけに関わる語彙を比較してみればわかる。美的に価値を有するものは、それ自体のために価値を有している。道徳的に価値を有するものも、それ自体のために価値を有する。たしかに二つの命題は類似しているが、その意味するところは異なっている。手段としての価値が認められないものはすべて、それ自体のために価値がある(「固有の価値」を有する)(16)。とはいえ実のところ、このことはさまざまなことを意味し得る。二つの基本的な意味が区別されなければならないだろう。

  第一の意味については、〈美的知覚はそれ自身のために状況や事柄に関わる〉と述べたさいに、当初より(第三コメントにおいて)すでに語られている。ここで言うところの「それ自体のために」という表現は二重の意味を有している。すなわ地美的知覚は私がそれ自体のために知覚する知覚物と同時に、私がそれ自体のために遂行する知覚をも意味している。美的なコンテクストにおいてこれら二つの構成要素は厳密に相互依存の関係にある。ここで言うところの、状況ないし事柄をそれ自体のために知覚するとは、この知覚をそれ自体のために遂行するということであり、逆もまた然りである。知覚行為もその行為が向き合うものも共に固有の意味を有している。何かに対する美的な献身はこの献身の快楽と切り離すことができない(17)

  「固有の価値」が認定されるさいの第二の意味は、知覚行為とその対象という二つの構成要素が切り離されるところで与えられる。だからこそ私は(人間であれ動物であれ)生き物をそれ自身のために尊重することができるのだが、そのさい必ずしもこの考えをそれ自体のために実行することはない。ここにおいて手段となることのない価値が生まれるのは、この生き物に特定の生き方があることによる。われわれは自分以外のものに対するこの価値を承認するなら、自分のためにではなく、それらのためにその当該のものを尊重する。美による尊重のうちでは知覚行為とその対象という二つの構成要素がつねに一致しているのに対し、道徳的尊重においてわれわれは、生き物の「固有の価値」を知覚できるが、そのさいこの固有の価値に知覚を与えることはない。もちろんこのことが意味しているのは、自分以外のものに対する尊重をそれ自体のために遂行することが道徳的に望ましいということである(18)

  第一、第二の意味の両場合において「固有の価値」はつねに「誰かにとっての価値」に関わっている。両場合においてそれは手段とならない価値である。第一の美的な場合においてある物は固有の価値を獲得すると同時に、その知覚は誰かにとって固有価値を獲得している。第二の道徳の場合においてある物は、自分以外のものにとって卓越した価値を有するがゆえに固有の価値をもつ。いまや美的な現実存在の形式は、私にとってのみならず自分以外のものにとっても(自分以外のものがどういった仕方でどの程度この価値を知覚するかはまったくどうでもよい)そうした固有の価値を有するものの領域に属している。したがって美的知覚の内在的価値は、道徳が尊重すべき価値となる。たしかに美による道徳の基礎づけはほとんど存在し得ないが、自己目的的な美的実践の可能性はよりいっそう道徳的に考慮されるべき事柄となる。

 

 

         10.美に関する合理性と道徳に関する合理性

 

 美的方針や道徳的方針において主導的である手段とならない二種の価値に対応するのが、当該行動にとってのさまざまな根拠である。根拠づけられる行動を行い得ることとして合理性を理解するなら、美的な心構えと道徳的な心構えとはそのあり得べき合理性の観点においても区別される。そのさい、美に関する合理性も道徳に関する合理性も倫理的な合理性の変種として、すなわち自らの生き方を説明できる能力の構成要素として理解され得る。とはいえこれら二つの構成要素は、その方向性の点でもその射程の点でも区別される。美に関する合理性は、特定の対象や身近なものがどの程度美の現在性への関心に対応しているかもしくはしていないかを判断しようとしている。道徳に関する合理性は、われわれが人としてお互いに期待し合い要求し合ってもよいものへと向けられている。つまり道徳に関する合理性は具体的な場合においても、この普遍的な考慮に照らされて根拠づけられるふるまい方を確立しようとしている。美的な議論では(結局のところ)いつも個別の善が問題となるのに対し、道徳の議論ではやはりいつも普遍的な善が問題となる。そうした訳で美の根拠は道徳の根拠となることはないし、道徳の根拠が美の根拠となることもない。

  美の根拠は、美的実践における特定の知覚のあり方と一緒に対象や身近なものに認められる価値に関連づけられる。この美の根拠は、美的知覚の目的にとって与えられる対象に適していたり欠けていたりする質を指示する形式を有している。しかし美を批評するさいの根拠と並んで美に関してなされる議論は美的実践それ自体の価値にも関係づけられ、そのさいこの美に関する議論は、美的実践の条件や意義に関しての少なくとも体系的な反省として理解される美学に結びついている。私自身は集中と距離化の活動余地(美の議論は他のあらゆる活動形式に対しこの活動余地を開く)によって美的実践の遂行を規定しようと試みたさいに、そうした美の議論を第七研究[「著述家の仕事について」]で定式化しておいた。単純化しないで言うなら美に関する合理性は、感覚的・自己関連的な能力を越えたところで構成される、知覚活動のこの個別の活動余地にとっての意味として規定され得る。すなわち美に関する合理性は、直観を満たす現前性の内在的価値にとっての意味をさらに越えて、この活動余地の開かれが生の息災な遂行に対してもつ決定的な価値として理解されるのである。

  これに対し道徳の根拠は、特定の相対的なふるまい方をとるよう指示するのでなく、人々の間でやり取りされる(彼らに対してだけでない)(19)交渉の非相対的な質を指示する。私と他者との対称性を承認することによって生ずるのは、なぜ他者の息災の基本的条件を考慮しなければいけないかの根拠である。他者の根本的尊重を期待するなら、私も他者に対しそうした尊重を合理的に拒否するわけにはいかないが、それは私が幾人かの他者に根本的尊重を認めさせるなら、すべての他者に対してもそうした尊重を説得的に拒否することができないのと同様である。したがって道徳に関する合理性が問題となるのは、形式的に理解された善が守るに値するものであるという名目のもと、あらゆる関係者に対して正当化され得るものにわれわれのふるまいが定位する場合である。それゆえ道徳に関する合理性も人間の存在の活動余地にとっての意味として理解され得るが、それは特定の活動余地(とその遂行)にとっての意味としてでなく、個人の息災の基本的な範囲一般(とそこから万人に対して生じる義務)にとっての意味として理解され得る。

  しかしもし私が正しければ、いまや美の活動余地はこのように順調に生きてゆける一般的活動範囲に属しているのだから、美に関する議論は道徳的熟慮の内部でのみ役割を果たすことができる。道徳的熟慮において美に関する議論は、評価されることのなかった美的な知覚実践を実際の存在に関しても適切なものとする。美に関する議論は、個人の首尾よい生にとって美的な自由がどのような意味をもつのかを詳述する。結局のところ、道徳の文脈での美に関する議論はいつも生の可能性を守ることに関する議論であり、この生の可能性にとって美的実践以外のところにその代用品や等価物は存在しない(20)

 
 

 

              11.美学と道徳の非対称性

 

 一言でいって、美的知覚の適切性を道徳的に承認することは幸福の可能な形式にも当てはまる。美が道徳に対してもっている価値はそれが道徳的に善であることから出てくるのでなく、実際の存在に関する高い価値を美に認めることから出てくる。

  ある啓発的な非対称性がここにある。体系上、道徳哲学は美学に関心をもち、いずれにせよ関心をもつようになる一方、美学はもっぱら散発的に道徳理論に関心をもち、いずれにせよその理論で間に合わせる。美的実践の可能性は善き生の条件に属し、道徳はこの条件を守る制度である以上、道徳によるどんな説明もこの条件に関連づけられねばならない。これに対し美学が道徳に結びつけられるのは、美学が自らの領域内で偶然道徳と関係するようになる限りにおいてのみであり、それはたとえば美学が、それ自体道徳的な要求を掲げる芸術形式と関わる場合である。同じ非対称性は理論においてだけでなく、実践においても当てはまる。体系上、道徳的実践は自発的に美的実践を考慮し、いずれにせよ考慮することができ、そうすることになる一方、美的実践は道徳的考慮の形式にもっぱら散発的にしか自発的に関心を抱くことがない。道徳的実践は自らが守ろうとするものを少なくとも承認してやれるくらい詳しく知っていなければならないが、これに対し美的実践は道徳的考慮の承認を介して定義されることはできず、自分が実際どの程度道徳と衝突しているかしていないかはどうでもよい。美的な心構えと道徳的な心構えとの衝突可能性によってふたたび真正に道徳的(もしくは道徳哲学的)な問題が現われる。この衝突に関しては美的な解決は存在せず、ただ道徳による解決だけが存在し得るのだが、もちろんその解決は道徳的実践が美的実践の価値を知れば知るほど、ますますうまくいくようになるだろう。しかし美的な心構えから提起される道徳的にもっとも良い解決が引き受けられるかどうかはまた別問題である。概してさしあたり言えるのは、道徳は美的経験になりやすいが、美的経験は道徳になりにくいということである。

  とはいえこれほど美しい現代的な文句もやや単純化されている。というのは、細分化されているとはいえ美的実践も、極端に両義的なものではあるが道徳への傾向性を有しているからである。第七研究で示すように、高度な美的意識は世界や自己への疎隔の契機を一緒に含んでいる。美の複合的な充実は美の複合的な距離化と共に生じる。強制されない美的知覚では、自分以外の生き方を気に入ることもある。まさに自分自身の見方から距離をとることのできる能力はなるほどけっして十分な条件とはいえないが、不偏不党な道徳的意識の絶対に欠くべからざる条件である。とはいえ、こうした能力を美的に使用することは道徳からすれば両義的なものにとどまる。それはちょうど道徳的な考慮も、美的に距離化され得るふるまい方であり得るからである。

  とはいえ、道徳はちょっとした幸福によって現代の美的実践を救うこともできる。どのみちそれは美的モデルネの精神を裏切ることなく可能である。美的経験は一般的に道徳になりやすいと述べることが誤りであるなら、美的経験は道徳になりにくいと大まかに述べることも誤りであろう。美的経験は人間的実践の形式において/に対して充実した疎隔となりやすい。充実と距離化が結びつくために、美的経験の逸脱、修正、乗り越えが向かう先は原則的に開かれている。美的なものは、真逆であるが必ずしもライバルではないものとしての道徳的なものと関わる。美的なものはあるときは友好的に、あるときは敵対的に、またあるときは無関心なまま道徳的なものと出会うことができる。

 
 

 

             12.非連続性と連続性

 

 しかしこれによってもう一度だけ先に看取された非対称性が証明される。美的実践が何らかの仕方でリベラルな道徳を当てにし、どのみち原則的に自らが承認されていることを承知しているのに対し、現代の美的実践は逆にまったく道徳的に信用ならず、どのみち原則から言っても信用ならない。

  道徳的な心構えはその理念によれば持続的な心構えである。だがこのことは美的な心構えには当てはまらない。道徳的な心構えは、あらゆる他者への考慮に等しく関心をもちながらいつでも行為できるよう目指す。これに対し美的な心構えは、感覚・情動・想像の面で遂行に働きかける(あるがままの)活動の多様で広範な機会を求める。ここで体系的な関心と散発的な関心との相違にそれぞれ対応しているのが、永続的なアクチュアリティとそのつどのアクチュアリティとの相違である。それゆえにまたこれら二つの心構えが一つになることはあり得ない。またそれゆえに両者の葛藤の可能性が取り除かれることもない。

  もちろん倫理の説得的な理解は、その潜在的な葛藤を道徳化して歪曲することなく説明することに多く依存している。たとえば〈葛藤のさい命令権は道徳にある〉という規則にしたがってあたかも葛藤の勝者が誰かいつもすでに決まっているかのように説明されるなら、道徳による歪曲が行われるだろう。そしてこれにより美的実践の価値が道徳によってふたたび広く承認されるかもしれない。それに対し非抑圧的な道徳の意識は、葛藤であるかのように思われるいかなる場合でも、そうした葛藤を産み出す道徳的解釈が実際に適切かどうかを問うことがあり得る。というのは、たしかに美的な行動は道徳の根本命題を損なうことがあるが、道徳の方も美的な生の形式や認識の形式を抑圧できるからである。それゆえ美的なふるまいと道徳的なふるまいとの葛藤を突き止めるさい、どちらを修正するべきかについてあらかじめ決断してはならない。

  もちろん、そうした葛藤が審理される審級はやはり道徳である。とはいえもっとも好ましい場合では、道徳は美学と自らとの葛藤を承認している。それは道徳による美的実践の承認が、自分自身の規範と判断を修正する準備のある道徳を要求するからである。これにより美的実践(とはいえもちろん美的実践だけではないが)は、一方で(そのつど通用しているこうした規範解釈と共に)生きられた道徳の規範と、他方でそうした規範を承認したり非難したりする道徳的考慮の見地とをはっきり区別するきっかけを与える。とりわけ「美学と道徳との葛藤の道徳」なるものは、そのつどの美的実践とそのつどの道徳的ふるまいとの許容された葛藤の道徳といえよう。そうした葛藤が起こるということは道徳的・政治的実践の欠如のしるしなどではなく、むしろそうした実践の強さのしるしであり、それは美的な事象の場合に限られる話ではない。それは一般的に道徳の審級が、目指される幸福と生きられた道徳との間の裁判官として把握されなければならないからである(21)

  結局のところここで示されているのは、道徳的視点からなされる美的実践の承認を言われるままに認めてはならないということである。というのは、美的行為や美的知覚の形式が「倒錯して」現われる場合でも、われわれはそうした形式を道徳的実践のうちで守ってやると同時に、そうした倒錯の危険から自らの道徳を守りもするからである。美的実践とその合理性を尊重するだけでなく、ある程度までそれらに関わることは、こうした見地からすればまったく道徳的に合理的である。美的実践と道徳的実践との一致が(美的もしくは道徳的に)それほど合理的でないなら、両者の移行が達成されることはほとんどない(22)。美的意識は世界の持続的な解釈を有するわけでも、そうした解釈を目指しているのでもない。美的意識にとって重要な経験は、意味、伝統、社会の連続性と思われていたものを突破するものとして示される。そうした非連続性において美的実践は文化の連続性(悪い連続性と同じく良い連続性にも)に逆らう。このように統一性を、それどころか文化的了解の持続をも構造的に疑ってみるところに、美的意識の修正力の長所がある。

  しかしながら非連続性の生産的意味と、道徳が周知なほど当てにならないこととは一枚のメダルの両面であるにすぎない。その一方を保障しておきながら、他方を切り捨てることはできない。理にかなった道徳はこうした道徳の当てにならなさを、それが人間の生の重要な可能性に属するからというだけで尊重し要求しようとするのでなく、むしろ道徳の当てにならなさを抑圧するならばとりわけ道徳的実践は(重要な修正手段を奪われて)ほとんど当てにならなくなるだろうという理由からも尊重し要求しようとする。それゆえ美的実践と道徳的実践との止揚不可能な相違を承認することは同時に、道徳的見地と道徳的実践とのあり得る相違を間接的に承認することでもある。

 このようにして示されるのは、美的実践と道徳的実践との消しがたい非連続性が同時に、両者の倫理的連続性のメルクマールでもあるという事実であり、両者は共に倫理的な生にとって意味を有し、包括的な倫理学の主題領域に属しているのである。しかし美学と道徳のこうした連関を承認することは〈美学と道徳の相違の倫理学〉を要求する。美学は善き生の倫理学の切り詰められない一部であり、逆にこの善き生の倫理学は承認の倫理学の切り詰められない一部である。

 



(1) B. Williams, Ethics and the Limits of Philosophy, London 1985 [邦訳『生き方について哲学は何が言えるか』森際康友、下川潔訳、産業図書 1993]; Martha Nussbaum, The Fragility of Goodness. Luck and Ethics in Greek Tragedy and Philosophy, Cambridge 1986; Ch. Taylor, Source of the Self. The Making of the Modern Identity, Cambridge 1989 [邦訳『自我の源泉近代的アイデンティティの形成』下川潔・桜井徹・田中智彦訳、名古屋大学出版会 2010].
(2)逆にこれに関するH・クレマーの著作(『総合倫理学1992年)は、こうした用語法での「総合」ではなく、むしろ明白に「包括的」なプログラムを支持している。たとえばS.9ff.S.75を参照。
(3)「美」の一般的な意味は美学での使用を越えている。「美」という表現はすんなり価値あるものと感じられる状態ないし活動を表しており、そのさい先に示された類の自己目的的な知覚の関係づけが与えられているかはどうでもよい。これ以降、私は「美」という美的な述語を、美の肯定的な価値述語の異質な一群を代理するものとして、それゆえ極めて平凡な意味でそのまま用いようと思う。したがって私の注記は「美の美学」への支持をいささかも含んでいない。[一般的な]知覚と美的知覚との差異に関しての詳細は、本書収録の第二研究「美学とアイステーシス-美的知覚のいくつかの特殊性について」を参照せよ。
(4)加えて以下も参照。M. Seel, Versuch über die Form des Glücks. Studien zur Ethik, Frankfurt/M. 1995, Kap.2.5.2.
(5)このことは(きわめて)さまざまな仕方でF・カムバーテル、Th・レンチ、F・コッペ、H・J・シュナイダー、U・ヴォルフらによって支持されている。彼ら全員については以下を参照。F.Koppe (Hg.), Perspektiven der Kunstphilosophie, Frankfurt/M. 1991.
(6)いずれにせよ、個々の芸術作品には無理である。むしろ作品が多様化すると芸術はそもそも何も表現しなくなる。
(7)この提案の擁護者はヴィルヘルム・シュミットである。Ders, Auf der Suche nach einer neuen Lebenskunst. Die Frage nach dem Grund und die Neubegründung der Ethik bei Foucault, Frankfurt/M. 1991. フーコーにおける存在の美学に関しては『快楽の活用 性の歴史2』田村俶訳、新潮社 1986年を参照。また[バークレー大学で1983年に行われた対談である]「倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要」に関しては以下を参照。H. Dreyfus, P. Rabinow (Hg.), Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hermeneutics, The University of Chicago Press 1983 [邦訳『フーコー・コレクション5-性・真理』浜名優美訳、ちくま学芸文庫 2006].
(8)詳しくは以下を参照。Schmid, a.a.O., S.301ff.
(9)R・シュスターマンの考察もこの方向に向かっている。R. Shusterman, Pragmatist Aesthetics. Living Beauty, Rethinking Art, Oxford 1992, Kap.9 〔邦訳『ポピュラー芸術の美学』秋庭史典訳、勁草書房 1997年〕.
(10)この強化された形式を私は以下で支持した。ゼール『自然美学』(加藤泰史・平山敬二訳、法政大学出版 2013年)、第六章を参照。まさにこのように解釈された美的実践という切り詰められたモデル性格については同書のS.341, 348, 352を参照。
(11) A. MacIntyre, After Virtue. A Study in Moral Theory, London 1985 [邦訳『美徳なき時代』篠崎榮訳、みすず書房 1993]. R. Spaemann, Glück und Wohlwollen. Versuch über Ethik, Stuttgart 1989. こうした見解への批判は私の以下の著作を参照。Ders., Versuch über die Form des Glücks, a.a.O., Kap.2.7.1.2-3.
(12)これに関しては本書の第11研究を参照。
(13) J. Rawls, The Priority of Right and Ideas of the Good, in: Philosophy and Public Affairs 17 (1988), S.251ff., 252.
(14)ヌスバウムもこのように述べている。M. Nusbaum, Love’s Knowledge, New-York-Oxford 1990, bes. S.27 u. 53.
(15)このことはクリストフ・メンケが説得的に詳述している。Christoph Menke, Distanz und Engage- ment. Zu Zwei Aspekten ästhetischer Freiheit bei Nietzsche, in: Deutsche Zeitschrift für Philosphie 41 (1993), S.61ff.
(16)より正確に考えてみるなら、主観的、客観的、間主観的な「固有価値」が区別可能であろう。主観的な固有価値は特定の個人の視座からのみそのまま善であるものを有し、間主観的な固有価値は(不特定の)多数者もしくは万人の視座からその身分を獲得するが、両者に対し客観的な固有価値は価値づけを行う主観の(事実的もしくは可能的な)視座に依存することなくそれ自体で価値をもつと言えるだろう。主観的な固有価値の仮定と(なおのこと)客観的な固有価値の仮定とが係争中である以上、私は以下、もっぱら観主観的な解釈に定位する。
(17)とはいえすでにプラトンが『国家』の第二巻(357b-d)で詳述したように、それ自体のために評価される行為や対象や状況は、同時に(その自己目的性格を低下させることなく)その結果のために評価されもする。(たとえばプラトンにとってまさに正義は、それ自体のためと同時にその結果のためにもぜひ得るに値する美に属している)。したがって美的実践の自己目的性は、その一貫した自己満足とけっして同一視されてはならない。同様に私の性格づけも、〈美的知覚の自己満足的な遂行は、知覚状況そのものを越え出る(たとえば認知的ないし社会的なたぐいの)外的な名声を同時にもたらす遂行よりも何らかのかたちで「より良い」かもしくは「より高度」である〉ということを勧めているわけではない。
(18)しかし、これら二つの構成要素の一致はまた別の意味を有している。ここで自己目的的に行動するということは自分以外のものに対する自己目的を知覚するさいの帰結であるが、その一方で美的な場合では自己目的的になされる行動は問答無用で価値あるものに対する注目と同一視されるために、直接的な自己目的として与えられる。
(19)私は道徳の受取人に関する問いを以下で詳細に取り上げておいた。M. Seel, Moralischer Adressat und moralisches Gegenüber, in: Versuch über die Form des Glücks, a.a.O.
(20)その事例は第九研究「自然倫理学における美に関する議論」である。
(21)このことを私は自らの以下の著作で正確に詳述しておいた。Versuch über die Form des Glücks, a.a.O., bes. Kap. I.5 u. 4.2.3.
(22)第十三研究「どうすれば合理的に暮せるか」が詳細に論じているように、あるタイプの根拠から別のタイプの根拠(と方針)に関わり合う可能性は、合理性一般を構成する。