un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

クリストフ・メンケ『芸術の力』(2013)の目次と序論

[Christoph Menke, Die Kraft der Kunst, Frankfurt a.M.:Suhrkamp 2013, S.11-14. 前著『力-美的人間学の根本概念』(2008)で注目された「力の美学」をさらに展開したメンケの最新著。本著ではさらに政治学までをもその射程に収めている。] 

  

 

           芸術の力

 クリストフ・メンケ

 目次

 まえがき

 芸術の力 七つのテーゼ

 第一部 美のカテゴリー

 1.芸術作品:可能性と不可能性の間で

 2.美:直観と陶酔の間で

 3.判断:表現と反省の間で

 4.実験:芸術と生の間で

     付録:実験と制度

 第二部 美の思考

 1.思考の-審美化

 2.美的自由:意志に反する趣味

   付録:美的自由の概念構造に関する六つの命題

3.美的平等:政治の可能化

 

 

芸術の力 七つのテーゼ

(1)モデルネ[と言われる時代]になって今日ほど数多くの芸術が存在した時はけっしてなく、また今日ほど社会において芸術が目に付くようになり、その存在感と創造力を増した時はけっしてなかった。それと同時に、芸術が今日のようにますます社会のプロセスの一部に、つまり商品、意見、知識、判断、行為といった社会を構成するいくつものコミュニケーション形式のうちの一つに成り果てた時はけっしてなかった。

 目下の時代はその豊かな始まりには「ポストモダン」と呼ばれ、いまや規律[社会]以後の「管理社会」[ドゥルーズ『記号と事件』]としてますます鮮明に示されているが、モデルネになってこの目下の時代のように美的なもののカテゴリーが文化的な自己理解にとって中心的となった時はけっしてなかった。それと同時に、[目下の時代ほど]美的なものが(生産力として直接的に利用されるのであれ、生産消耗の回復のために間接的に利用されるのであれ)経済的な利用プロセスにおけるたんなる手段にすぎなくなった時はけっしてなかった。

 広汎に拡がった芸術の現前と社会における美的なものの中心的意義は、私が芸術のと呼ぶことを提案するものの喪失、つまり力としての芸術の喪失と美的なものの喪失を伴って生じている。

 

 (2)芸術や美的なものを知識や政治の媒体として、もしくは社会へのその同化吸収に対する批判の媒体として配置したところで、こうした状況からの逃げ道にはならない。むしろその逆に、芸術ないし美的なものを知識として、政治として、批判として理解してしまうなら、それらをいっそう社会的コミュニケーションのたんなる一部にしてしまうだけである。芸術の力は知識、政治、批判となることで成立するものではない。

 

 (3)雄弁家のイオンとの対話の中でソクラテスは、芸術が力(陶酔する力ないし熱狂する力)を興奮させ伝達させるものであると表わした。まずこの力は芸術家たちの中にいるミューズを高揚させ、芸術家たちはその高揚したミューズを自らの作品によって観衆や批評家に伝える。それは、磁石が「それ自体鉄のリング[を引き寄せる]だけでなく、そのリングとも力を共有しており、 []石そのものが別のリングを引き寄せるように、リングはちょうどこの磁石を引き寄せることができる」[プラトン『イオン』533d]のと同様である。「またちょうど同じようにして、まずミューズ自身が人々を高揚させ、この高揚した人々によってその他の人々までもが数珠つなぎにますます高揚させられる」[533e]。芸術の連関は力の伝達の連関である。「彼[詩人]が高揚させられ、無意識となり、もはや理性を失うようになるまで」[534b]、高揚、恍惚の力は芸術家、観衆、批評家へと伝えられる。

 

(4)芸術が有する力への洞察からソクラテスが引き出した帰結は、理性に基づけられるべき共同体から芸術を追放しなければならないということである。この帰結に対して芸術は、すでに二つの互いに相容れない方法で守られてきた。その第一の方法は、社会的実践に関わる芸術を明らかにする。この方法はソクラテスに反対して、芸術においては意識を失わせるほどに[人を]高揚させる力が作用していることを主張する。むしろ芸術においては、したがってその制作、経験、評価においては、ある社会的に獲得される能力が実現している。つまり、芸術は主観性の実践的な活動Aktでなければならないというのである。これはアリストテレスが創設した「ポイエーシスの学poïétique」(ヴァレリー)としての「詩学」の意味であり、言いかえれば作ることとしての芸術の教説、主観が教育や社会化や規律化によって獲得しいまや意識的に行使可能な能力の行使としての芸術の教説である。これに対して、一八世紀に「美学」と名づけられた第二の芸術の思考方法がすでに存在している。美学によるこの芸術の思考は、ある力が芸術において展開しているという経験に基づいている。その力とは主観の背後に隠れたり越え出たりしながら主観をその外部に連れ出す力であり、それゆえに無意識的な力、「不明瞭」な力(ヘルダー)である。

 

 (5)力とは何か。力は(「ポイエーシス的」な)能力に対する美学上の反対概念である。「力」と「能力」は、芸術活動をそれぞれ相容れない仕方で理解するものの名である。活動とは原則の実現化である。「力」も「能力」も、この原則実現化についてそれぞれ相容れない理解をしている。

 能力を有することは主体であることであり、主体であることとは何かをなし得るということである。主体の〈なし得るKönnen〉は、何かを首尾よく達成すること、何かを実行することである。能力を有することと主体であることが意味するのは、訓練と学習によって行為を達成させることができる状態にあるということである。さらに言うなら、行為を達成させることができるとは、新しい状況やそのつど個別の状況で一般的な形式をくり返すことができるということである。どの能力も、一般的なものをくり返すことのできる能力であると言える。一般的な形式はつねに社会的実践の形式である。したがって芸術的活動を能力の行使として理解することは、この活動を行為として理解することであり、この行為において主体は、特殊な社会的実践を構成する一般形式を実現する。それはすなわち、芸術を社会的実践として理解し、主体をその実践の参加者として理解することである。

 能力と同様、も活動において実現される原則である。だが力は能力とは別物である。

  • 能力が社会的な訓練によって獲得されるのに対し、主観に仕込まれる前からすでに人間は力を有している。力は人間のものであるが、主観以前のものである。
  • 能力が意識的に自己コントロールしながら主体によって行使されるのに対し、力はおのずから作用する。力の作用は主体によって導かれるものではないため、主体に意識されることがない。
  • 能力が既存の社会的な一般形式を実現するのに対し、力は形式化の途上にあるがゆえに形式をもたない。力は形式をつくるが、それは以前自分が作った形式すべてをふたたび作るという仕方によってである。
  • 能力が首尾よく達成されるのに対し、力には目的もなければ基準もない。力の作用は戯れであって、その戯れにおいては、つねにすでに力によって凌駕されているものが産み出される。

 能力は社会の一般的な形式を再生産することで、われわれを社会的手法にうまく参与する主体として作り上げる。の戯れにおいて、われわれは主体以前で主体を超えた存在、主体ではない行為主である。それは活動的であるが自己意識をもたず、創意に富むが、目的をもっていない存在である。

 

 (6)ソクラテスと共に美学の思考は、芸術を力が展開され伝達される領域として表わす。しかし美学の思考は、このことをソクラテスとは別の仕方で評価するのみならず、ソクラテスとは別の仕方でも理解している。ソクラテスによれば、芸術は力のたんなる興奮と伝達であるにすぎない。しかし[そこに]わざKunstは存在しない。むしろ芸術は、能力力との、力と能力とのでなされる移行のわざである。芸術は力と能力との分化のうちに成立する。芸術は、〈できること〉と〈できないこと〉、可能と不能とが逆説的に関わる〈できる〉のうちに成立する。芸術はたんなる能力の道理Vernunftでもなければ、力のたんなる戯れでもない。芸術は能力から力へと戻ってゆく時間空間であり、力から能力が発生する時間空間である。

 

 (7)それゆえ芸術は社会の一部ではないし、社会的実践でもない。というのは、社会的実践への参与は行為の構造、一般的な形式を実現する構造を有しているからである。またそれゆえにわれわれは芸術において、その制作ないし経験において主体ではない。というのは、主体であることは、社会的実践の形式を実現させることであるからである。むしろ芸術は社会における自由の領域ではなく、社会から自由な領域、正確には社会にありながら社会から自由な領域である。美的なものは規律[社会]以後の資本主義における一つの生産力となるや否や、その力を奪われる。というのは、美的なものは活動的で影響力のあるものであるが、生産的ではないからである。美的なものは、猛威を振るう資本主義の生産性に対して持ち出される社会的実践の一つであるべきだとされる場合にも、やはりその力を奪われてしまう。たしかに美的なものは解放的で変容させるものであるが、実践的ではなく「政治的」でもない。「あらゆる象徴の力の全面解放」[ニーチェ『悲劇の誕生』]としての美的なものは生産的でもなければ実践的でもなく、資本主義的でもなければ批判的でもない。

 芸術の力において問題となるのはわれわれの力である。生産的もしくは実践的な意味であれ、資本主義的もしくは批判的な意味であれ、問題となるのは社会による主体性の形成から自由になることである。芸術の力において問題となるのはわれわれの自由である。

 

 

[出版社の紹介文]

 今日ほど芸術が目に付くようになり、その存在感と創造力を増した時はけっしてなく、同時に芸術がますます商品、歓談、意見、知識、行為といった社会プロセスのたんなる一部に成り果てた時はけっしてなかった。芸術の社会的偏在は、われわれがその美的な「力Kraft」と呼ぶことのできるもののますますの喪失を伴って生じている。「理性的な能力Vermögen」と区別される「力」はここでは無自覚的で、戯れのような、そして熱狂的でもある状態を意味しており、そうした状態なくしては芸術も存在できない。クリストフ・メンケはこの状態を哲学的に反省することによって、芸術、美、判断などの美のカテゴリーに至り、また美の政治学、すなわち社会的なものからの自由と規定なき平等との政治学の概観に至るのである。