un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ローマン・インガルデン「美的経験の認識理論的な考察の諸原則」(1960)

[以下は Roman Ingarden, »Prinzipien einer erkenntnistheoretischen Betrachtung der ästhetischen Erfahrung«, in: hrsg. von Dieter Henrich und Wolfgang Iser, Theorie der Kunst (Frankfurt a.M.; Suhrkamp 1982, S.70-80) の試訳。芸術作品と美的対象との区別や美的価値に関する問題など、彼の『文学的芸術作品』(1930)での議論が前提となっているため、これを踏まえていないと理解はキツイ。]

 

 

 

      美的経験の認識理論的な考察の諸原則

 ローマン・インガルデン

 

 

 A.[ 論及領域の確定 ]

  第二回美学会議(一九三七年)で私は美的体験の詳述を行った。その詳述はとりわけ次のことを突きとめている。それは、美的体験が完成するところでは、そうした体験は比較的多くの段階を踏んで遂行され、その体験全体で特別の機能を及ぼす異質の諸契機を含んでいるということである。美的体験は芸術作品に備わる美的に働く質(1)によってその鑑賞主体のうちに生ずる或る特別な根源的感情でもって始まって、美的対象を構成するに至り、この対象は直観的に価値感得しながら把握される。このような把握は感情的な価値応答[*]において、もしくは当該の美的価値の実在への、つまり言語化された価値判断において把握されうるものへの洞察においてその頂点に達する。

 美的体験にはさまざまなバリエーションがありうる。すなわち、①とりわけ美的体験をする者は美的な解放を達成せんと身構えていて、そうした解放によって自分が芸術作品を正しく評価しているかどうかに関心を抱くことがない。②しかし次にこの体験者は芸術作品の価値認識Werterschauungのうちで作品を美的に享受することを断念せずに、その作品とその価値をとりわけ正しく評価しようと試みることができる。③最後に、美的体験はまったく自由に推移し、偶然に委ねることができる。確かにこれらすべての場合において美的経験が成立しえるが、②の場合においてのみ体験者は特別な認識を獲得しようと身構え、目標達成のために特別な措置をとっている。①と③の状況はあまりに見通しが利かないために、体系的な考察を行うことができない。そうしたわけで、本論では②の場合に限定しようと思う。

 

 

B[美的経験を成立させる5つの要因]

 美的経験が問題となる状況の基本要素がとりわけ区別されなければならない。美的経験の初めには(a)物理的な基礎(2)を背景にして現象する芸術作品と(b)体験者が存在する。そして両者の相互交渉のうちで美的対象の構成が問題となり、(c)そうした対象のアスペクトのもとで芸術作品が現象するようになる。(d)これら三つの要因の相互作用から価値把握と価値応答が生じ、(e)最終的にそれらを概念把握にもたらす価値判断が生じる。

 (a)美的対象の構成という点で芸術作品を評価するさいに本質的なのは、比較的多くの未規定箇所が含まれる一方で、ある特定の観点においてだけは明確に規定されている図式的な形成物schematisches Gebilde[*]が存在するということである。どの未規定個所にもそれらを充足可能にするにあたってははっきりとした多様性があり、そのうちの一つだけがそのつど充足実現することによって、芸術作品は美的対象へと移行する。その一方、芸術作品には体験主体によって実現可能になる剥き出しのままの潜在的契機(たとえば文芸の芸術作品における準備段階のアスペクトdie paratgehalten Ansichten)が存在する。けっきょくのところ芸術作品にはつねに美的に働く質が存在しているはずであり、その質は体験主体によって把握されることで美的に価値ある対象へと構成される。

 (b[作用を及ぼしうるという]能力のある美的経験が問題となるべきなら、美的に体験する者にとってとりわけ際立ってこなければならないのは、当該芸術作品の実現された規定部分への率直さOffenheitと、芸術作品に現われる美的に働く質に対しての格別な敏感さである。だが美的対象の構成は体験主体に対しさらなる能力を要求する。それは芸術作品において把握された規定部分に基づきながら、その未規定箇所を取り除きまた美的対象をより詳細に規定するさらなる具体的な契機を突き止めて構築するという能力である。けっきょく、芸術作品において剥き出しのままの潜在的諸契機を実現することも、芸術作品を明確に規定している実現された諸契機を直観的に再構成することも、ともに美的対象のうちでうまくいくことである。先の三つの能力[*]を関連させながらなされる体験主観の操作を私は美的対象の具体化と呼ぶ。けっきょくのところ決定的に重要なのは、すでに現象している価値の質ないし価値に対し十全にadäquat感情的な仕方で価値応答することができる能力が主観にあることである。

c)美的対象は価値を備えた具体的容貌であり、その容貌のもとで芸術作品は現出すると同時にその完全規定の可能性を満たす。美的対象は、さまざまな鑑賞者と同一作品との出会いの成果としてさまざまな形態をとって具体化され得る。このように一つの芸術作品に対しさまざまな美的諸対象が存在し得、これら美的諸対象において芸術作品は自らを示す。

 (d)価値応答は、美的対象をしつらえることと、体験者の態度のあり方によって条件づけられている。芸術作品と美的対象との先に述べられた関係のおかげで、価値応答はしばしば美的対象に備わる価値を芸術作品に帰すのだが、それはとりわけ体験者が芸術作品の認識を得ようと身構えているがまだ批評するには不十分な場合である。

 (e)価値判断は価値応答の表出と成果として形づくられるが、そうなると価値応答からは自立し独立するようになる。美的対象に即して認識され感じられるものを言語的・概念的に把握する価値判断には特別な困難が伴うが、その困難が自らの間違いの原因を開示してくれる。

 

 

C.[美的対象と芸術作品とを区別することによって生じる疑問点]

 体験者と芸術作品とが出会うさいの五つのさまざまな要因が多様な関係のうちに相対しているのだが、そうした五つの要因を目のあたりすると、認識批判的な問題系がかなりの程度複雑化してくる。しかしこれら五つの要因を考慮してはじめて、問題の具体的な把握が可能になる。本質的なのは以下の問いである。

 (1)美的経験に基づいてなされる価値判断は、原則的に芸術作品にも美的対象にも関係づけ可能である。価値判断が美的経験から生じてくるなら、当然それは美的対象に関係づけるべきだろう。ところがたいていの場合、価値判断はなんなく芸術作品に関係づけられてしまう。そのさい鑑賞者によって構成された美的対象は芸術作品と同一視されている。これがたいていの誤判断の原因であり、こうした誤判断は、価値判断にとっての材料を美的経験からつくりだしながら、無批判的にその材料を美的経験が突き当たる限界を超えて解釈している。この場合、芸術作品に認められるのは、もともとその作品には縁もゆかりもない特性や価値である。剥き出しのまま芸術作品によって承認されるか指図される多様な具体化可能性は、根本的に見過ごされるか意識的に排除すらされる。実現された可能性は芸術作品に固有の規定として解釈され、作品において先行規定されている多様な契機という剥き出しの潜在性は見過ごされてしまう。芸術作品の特殊なあり方はこうして誤解される。こうしたことすべてを回避するには、上で述べられた[美的対象と芸術作品との]区別が徹底されねばならないが、そのさい美的経験を認識批判的に考察する上で以下のような諸問題が生じてくる。

 (2-a)美的対象の枠内で実現化される諸契機は、はっきりと規定された芸術作品の実現された諸契機に対応すべきではあるが、前者の諸契機は後者の諸契機を現実に再構成したものであるのか、また芸術作品そのものにおいてそうであるように、両者は同一の関係において相互の下にあるのか。

 (2-b)芸術作品の実現された規定部分はもちろんそのすべてが把握されえるわけではないが、体験者のうちで芸術作品の未規定箇所を充実させてゆく質を実現化するのに十分示唆的であるような規定部分が、そうした多様な規定部分から再構成されるだろうか。

 (2-c)未規定箇所の除去に向けて実現化される質は、当該の未規定箇所が許容する可変性の限界内にあるのか。もしこの限界が乗り越えられるなら、芸術作品はそうした観点で具体化されるさいに歪曲される。しかしかりに限界が乗り越えられないとしても、実現化される質のすべてが作品を「その精神において」再構成するために等しく使用できるわけではない。第一の理由としてそれは個々の未規定箇所が相互のもとでつながり合っているからであるが、第二の理由として実現してゆく質は作品の様式全体と一致すべきだからである。そのため作品の未規定箇所の除去は鑑賞者の気ままな恣意ではなく、その美的な如才なさTaktgefühlに委ねられている。

 (2-d)再構成ないし実現化される諸契機が十分美的に働いて、根源的感情とそこから生ずる美的経験を惹き起こし、美的対象に備わる美的に適切な質を構成可能にしているか。こう問うのは、なにがしかの諸契機のそのような働きがなければそもそも美的に価値のある形成物の構成など問題にできないからである。またこの美的な働きの達成度合いに応じて、美的に価値ある質の点でより豊かであるかより貧相である形成物が保持されることになり、そこでは美的に適切な質どうしの相互作用もまた重要になってくる。

 (2-e)構成された美的対象に基づいて当該の芸術作品に読み込まれたその根本カテゴリーである価値は、芸実作品のあり方にしたがって十全であるか。こう問うのは、その読み込みにおいてまさに大いなる誤解釈が生じるからである。とりわけ芸術的な価値と美的な価値に本質的な相違があることは普段注意されていない。芸術の価値、すなわち芸術作品そのものに可能な仕方で認められている価値は操作的な性格を有している。芸術作品は工場のようなものであって、その工場が奉仕する目的は、美的に経験する者と出会うさいに美的対象とこれに結びついている美的価値とを直観的な自己所与性にもたらし、美的価値を経験する者にその価値を鑑賞させ承認させることである。(体験主体は、この目的に奉仕するもう一つの工場と解釈できよう。)そうした工場としての芸術作品は美的対象の構成と美的体験を開始させるだけでなく、美的体験を制御する役目も果たしている。作品の価値は、芸術作品にこの制御の機能を発揮させる規定部分のうちにこそある。機能価値ないし操作価値が本質的となるなら、芸術的価値は相関的になるのだが、それは価値が何かと、つまりそれを獲得すべき者と関係しているからである。これに対して美的価値は、それが美的に価値ある質そのものの具現化である場合には「絶対的」となる。自らのうちに安らい、価値あるものの内に含まれている美的価値は、たしかに誰かによって認識され承認されるべきものであるが、それが価値ありとされるのはこの認識のおかげでも、そうした認識を体験者のうちに呼び起こすもののおかげでもなく、もっぱらその価値自体のおかげである。美的価値とはまさに具現化した価値、完成した価値Verkörperungs-, Vollendungs-Werteである。だが美的価値が「美的」であるのは、それが見られているということのうちで自らを示すという意味においてである。人間と出会うさいに美的価値が自らのうちで何か価値あるものを呼び起こすことは、美的価値にとってまったく二次的なことであって、それ自らにとって構成的なことではない。

 芸術的価値の把握が美的価値の把握とは完全に別の経緯をたどることは明らかである。主観の極めて複雑な知覚的・感情的態度のうちにある美的価値の把握が、直接的に直観されている状態やひらめきにもたらされるのに対し、芸術的価値は最初から当該芸術作品の目的を現実化するという機能においてのみ看取され、作品としてのその能力において知られ得る。しかし芸術的価値の完全な把握は、ただ一つの芸術作品に基づきながらさまざまな美的対象にへと導いてくれるより多くの美的体験によってはじめてなされ得るのだが、それはそのようにしてはじめて当該芸術作品の遂行能力がその姿を現わすからである。芸術的価値は、一つの芸術作品を用いてその完成にいたる美的価値の多様さと豊かさから開かれて判断されるのであって、たんに所与としてそのまま経験されるのではない。言いかえれば、芸術的価値がただ一回の美的体験の遂行によって芸術作品に認められるなら、その成果は不正確か誤ったものであるとみなされるべきである。このようにみることで芸術的価値は美的価値から大きく区別されるのであって、[これに対し]美的価値はまさに根源的な所与として発見され、ふつうは一回の体験遂行のさいにその質的充実が把握される。

 (2-f)だがいま述べられたことと共に、当該芸術作品の「精神のうちで」美的対象を構成するさいに現実化されるもう一つの作品カテゴリーが区別されなければならない。さらに言えばどの程度、美的対象は芸術作品に「忠実」であるかということもはっきりされなければならない。美的対象が当該作品そのものの「忠実」な構成であるのは以下の四つの場合である。すなわち、①美的対象が事実上、芸術作品にふさわしく明解に実現された規定部分をみずからのうちに含んでいる場合。②美的対象が未規定箇所を除去する充填作業を行うさいに芸術作品によって規定されている可変性の限界の内部にとどまっている場合。③このことがとりわけさまざまな未規定箇所と作品の一般的様式との連関を保持しながらなされている場合。最後に④まさに実現化が芸術作品において潜在的な状態で待ち構えている諸契機を含んでいて、そのさいにこれら①から④の構成要素すべてが作品そのものと同一の関係・連関のうちにある場合である。体験者が美的体験において作品の認識をなそうと身構えている場合、体験者はまずその作品を「忠実」に具体化しようとするが、そのさい美的対象はこうした具体化の傾向のもとで構成されるだけでなく、忠実であり得たりあり得なかったりしながら主観によって観察・判断される。忠実であったりなかったりするなかで美的対象は、作品に対して忠実であるときは特別な価値を、忠実でない場合には無価値を得る。この「忠実である」ないし「忠実でない」という状態は芸術作品ないし美的対象の二様の契機に関係づけることができる。すなわち、芸術的価値を担う契機と美的価値を担う契機とに関係づけることができ、言いかえるなら、純粋に構築的な質ないし価値を形成する質と、価値をより詳細に規定する質とに(美的に適切な質か価値の質そのものに)関係づけることができる。[価値をより詳細に規定する質に関係づけられる]この二番目の場合で忠実だったり忠実でなかったりすることは、美的価値が問題となるとき(3)に非常に大きな意味をもつのに対し、[純粋に構築的な質ないし価値を形成する質に関係づけられる]最初の場合では芸術的価値が問題となるときに大きな意味をもつ。[価値をより詳細に規定する質に関係づけられるという]先の二番目の場合で忠実であり得ることの限界が乗り越えられるなら、そうした限界を乗り越えてゆく美的対象は否定的な価値をもつものとして判断されねばならないどころか、当該芸術作品の操作的なあり方という意味で形成されていない何かとして判断され、美的対象の「代理機能」ないし「具現化機能」のもとで芸術作品に対しその役割を果たしていないものと判断されねばならない。

 芸術作品を具現化するさいの「忠実である」という価値は認識価値のカテゴリーに属するものであって、美的価値のカテゴリーに属するものではない。これら二つのカテゴリーはただ相互に異なっているというだけでなく、両者に当てはまる諸価値も(少なくとも強くは)互いに依存することはない。とはいえ、芸術作品の忠実でない美的構成は美的に価値あるものになりえるし、その作品に対し忠実に形成される場合よりも高い美的価値を示すこともしばしばある。

 (2-g)それゆえ鑑賞者が直接に価値応答するさいになすか、[作品という]同じ基盤でなしている評価は、美的対象に向けられるか、芸術作品に「機能的」で「芸術的」価値を認めるかのどちらかであり、そのさい評価カテゴリーは二様でありうる。すなわち芸術作品に対して「忠実である」ことに関わるか、作品において具現化される美的価値に関わるかのどちらかである。これら三つの多様な評価[*]のどれもが、まったく別の批判的な問題系を開く。評価のこうした多様性に注意を向けなかったために、価値問題や評価形成の問題そのものを解決するどころか、そうした問題を適切に定式化するだけのこともこれまで不可能だったのである。

 

 

D.[価値応答の十全性について]

 だがいったん美的対象が構成され価値応答がなされるや否や、美的対象において構成され感得される価値に対する価値応答の十全性Adäquatheitに関してあらたな認識批判的な問題が開けてくる。たとえば、肯定的に規定された価値に対して(「愛」の特定のあり方である)承認行為で応答するのか、それとも拒絶行為で応答するのかと問われる。もっと一般的には、承認・拒絶の両方の応答が可能であるかと問われる一方で、価値と応答との間に不可避的な区分関係があるのかとも問われる。しかしこうした問いはまだ誤解の余地がある。一方で価値応答の多様な可能性について知っているという現在の立場があり、他方で美的な価値の質の可能性があるにもかかわらず、価値応答の「十全性」の意味を厳密に規定することはほとんど不可能である。しかし手始めの理解で次のように問うことはできよう。価値の質と価値応答とのどういった対が大枠で「対応している」ものとして(合理的に)共属しているのか。そのさい両者の明確な区分にしたがって問われるべきか、それどころかそうした区分一般が要請されるべきなのか。もしくはもっぱら価値の質の特定のグループに対して、ただ一つの特徴的な価値応答が要求されるべきなのか。またその場合、規定されるべき〈価値と価値応答のあり方に適した区分〉などまったくないのではないか。しかしこれらの問いにどのように答えるにせよ、いま述べた区分問題は、価値応答と価値の質との実際のreell関連に関わるまったく別の問題から区別されるべきである。この実際の連関で問題となるのは、価値応答がなされるさいに規定済みの価値の質が美的対象に現われるのを把握することで価値応答が明確かつ十分に動機づけられているなら、価値応答の成立はそうした仕方で条件づけられているか、もしくはこの動機づけが十分でなく、価値応答が美的に体験する主体によっても不可避的に条件づけられねばならないか、という問いである。けっきょくそれは、価値応答が把握される価値の質によってはまったく条件づけられておらず、この意味で偶然であって、価値応答が先行する美的対象(またそれに応じて先行する芸術作品)のもとでどのような経過をたどるかなどそもそもまったく予見不可能なのではないか、という問いである。

 いま述べた区分問題が肯定的な意味で解決される場合にのみ、遂行されるべき価値応答は明確に要請されるだろう。またその場合にのみ、美的に体験する者にとって価値応答するさいの万が一の誤りを咎めることができるだろう。そして価値応答が把握された価値によって条件づけられているとはいえ、まだ十分とはいえない場合にのみ、美的に経験する主体が自らの価値応答において所与の価値に適合することが合理的に要求され得るだろう。これに対し価値応答が把握された価値の質によって十分条件づけられているなら、その価値応答はいわば自律的であることがわかり、体験主体はわざわざ「正しく」十全な価値応答をする必要がなくなるだろう。その場合、体験主体の全労苦は、美的対象を「忠実」に、もしくは価値-最適な仕方で構成するさいになされるのであって、そこから「対応する」価値応答がおのずとなされるだろう。これに対し、価値応答が体験主体にも依存している場合には、「正しく」十全に価値応答できるようその主体を教育することについて語られよう。けっきょく、価値応答がそもそも把握された価値の質によって条件づけられておらず、じっさいどのような価値応答も先行する価値の質のもとで可能となる場合にはじめて、〈蓼喰う虫も好き好きde gustibus non est disputandum〉という立場を支持する懐疑者が正しいことになるだろう。

 これらの問題すべてとどう向きあっていくかについて、現在の美学の状況では語られていない。価値把握問題ないし価値応答の基礎づけのどんな解答も、目下のところ十分な基盤のないままである。

 

 

E.[価値応答から価値判断への移行に関する問題]

 最後に、美的な価値判断と場合によってはそれを基礎づける価値応答とを関係づける可能性という問題がある。そこでは、美的な価値判断の二つの構成要素という意味から純粋に生じる価値判断と価値応答の「対応関係」についても語ることができるできるだろうか。明確に把握された価値判断を規定済みの価値応答に区分することは可能だろうか。価値応答が当該判断をその真理値[真か偽か]において基礎づけるという意味で、価値判断と価値応答の間には基礎づけ連関があるのではないか。そこにはたんなる動機づけ関係があるだけなのではないか、もしそうならどういった類の関係か。だがとりわけ問われなければならないのは、〈美的な価値判断は言語的ないし概念的に定式化されて、先行する価値応答と厳密に「対応する」か〉という問いではないだろうか。もしくはその場合、言語的に形成されるどの美的な価値判断にも備わっているたんに事実的な非十全性や本質上不可避的な非十全性すらもが考慮されることで、美的価値は言語によってはまったく正確に規定されず、個々の場合で断定されるものになるのではないか。もしくはその場合、先行する価値ないし価値応答との相違をしっかり取り決めること(それは無害なかたちでなされる)がひょっとするとなされるかもしれないのではないか。価値応答の可能性や言語ないし概念形成の遂行能力に関するこれまでの知識は未熟な状態にあるので、こうした諸問題を解決しようとするあらゆる試みは根拠を欠いているか暫定的な見解であるにすぎず、そうした見解を真面目に受け取ることはほとんど不可能である。しかし広大な価値問題とそこに属する美的評価の問題が解決されるべきなら、不可避的なものとして扱われねばならない根本的に重要な問いの領域がここにも存在している。

 ここで示唆された諸区分を考慮することで、この領域でさらなる主導的な考察の道が開かれることを私は望む。

 



(1)ここではこうした個別のケースに限定する。

[*] [訳注1]「価値感得Wertfühlen」とはM・シェーラーの価値倫理学の用語で、価値それ自体を所与性にもたらすこと、ないし価値自体を感覚のレベルで感じ取ることの意。また「価値応答Wertantwort」はシェーラーの影響を受けたDヒルデブラントの用語で、それ自体で存在する価値を感得する意識の側の対応のこと。なおシェーラーにおいて「価値判断Werturteil」は価値を感得する「価値体験Werterlebnis」の後に成立するとされる。

(2)本稿では物理的な基礎から芸術作品への移行に関する問題を批評することは断念する。

[*] [訳注2] インガルデンの『文学的芸術作品』(1930)に次のような説明がある。「われわれは具体化とは別箇にそれ自体で現存する純粋文学作品と、これの具体化とを区別してきた。だが忘れてならないのは、このように孤立せる文学作品とは図式的な形像schematisches Gebildeであり、さらに、この形像には種々の要素が執拗に特徴的な潜勢態のままでいるという事実である。これら二つの事情があるために、作品自体における美的価値品質および形而上学的品質の、すべてとは言わずとも少なくとも多くは、十全な展開にいたらず、「予定Vorbestimmung」と「準備Parathaltung」という潜在状態のままでいることになる。文学的芸術作品が具体化のうちに適切な顕示Ausprägungをえてはじめて、理想的な場合のことだが右の品質すべては十全に確立され、直観的に展示されることになるのである。(中略)したがって、文学的芸術作品が真の意味における美的対象となるのは具体化のうちに顕示をえるときにかぎられる」(瀧内槙尾・細井雄介訳、勁草書房 一九八二年、322頁)。

[*] [訳注3] 「三つの能力」とは、①体験主体による美的質への価値応答、②実現された規定部分への率直さと美的質への敏感さ、③未規定部分を除去し美的対象をより詳細に規定することを指す。

(3)もちろん美的対象に現われる美的価値が芸術作品に「忠実」であるのは、作品そのものの具体化と自ら認める芸術作品があらかじめ規定するものの作用空間のうちに美的価値がある場合だけである。

[*] [訳注4] 「三つの多様な評価」とは、忠実か忠実でないかという認識価値に対する評価、美的対象の価値に対する評価、芸術作品そのものに対する評価を指す。