un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

ポール・リクール「ジャン・ナベールによる行為とシーニュ」(1962)

 

[以下は Paul Ricœur,  «L'acte et le sign selon Jean Nabert» (dans: Le conflit des interprétations. Essays d’herméneutique, Paris:Seuil 1969.) の試訳]

 

 

 本稿は、ナベール哲学における困難について比較的詳細に、また比較的緩やかに調査するのだが、かつて私はこの難しさを『倫理学要綱』(1st.1942, 2nd.1960)の序文であまりに性急に触れたのであった。その困難は、動機と価値の問題を提起しているナベールの『自由の内的経験』(1924)のうちに初めて登場する。その際、『倫理学要綱』におけるナベールの困難は十分に定式化され、より徹底的な解決が到達されている。もっとも広義の一般性の観点からみた場合、この困難は、意識が自分自身を措定し生成する行為と、意識がその行動の意味を自分自身に提示する際のシーニュとの関係に関わっている。この問題はナベールの思想に限定されるものではない。この問題は、理念や表象や了解や、その他どんなものでもいいのだがそうしたものの客観性を、意識による基づけ行為(この行為が意志や欲求や行動と呼ばれるようと、呼ばれなかろうと無関係に)に従属させようとするあらゆる哲学にとって共通の問題である。スピノザが実在の理念からそれぞれの存在が実在するためになす努力へと移行した際に、ショーペンハウアーが表象と意志とを結びつけた際に、ニーチェがパースペクティヴと価値を力への意志へと従属させた時に、またフロイトが表象をリビドーへと従属させた時に、これらの思想家たちはそれぞれ表彰の運命に関してある重大な決断を下している。それは、もはや表象は第一次的な事実、第一次的な機能でなく、心理学的な意識や哲学的反省にとってもっともよく知られているものでもないということである。表象は努力や欲望の第二次的な機能となっている。もはや表象は了解をもたらすものではなく、了解されねばならないものなのである。

  ナベールがこの問題をそうした抽象的で一般的な用語で提起したのは、『フランス百科事典』に収録された彼の担当項目においてだけであるが、その中でナベールは反省的方法の系統樹を素描している。カントよりはむしろメーヌ・ド・ビランから下ることを主張しつつ、ナベールはわれわれがあとで分析するつもりの問題を定式化し、彼は詳細かつ限定された用語法でこの問題を定式化している。メーヌ・ド・ビランから発する伝統において、能動的意識の諸操作は知識や学問を統御するものに切り詰めることはできず、行動に適用される反省は、認識論の支配権から解放されなければならない。『自由の内的経験』はこうした用語法で、コギトの「客観性の機能と真理の機能」(EL, x)についての探求と、「知識の真理の基底にある諸範疇では説明することのできない意識のあの生産性」(EL, xi)に関する反省とを区別する。ナベールもまた以下のようにメーヌ・ド・ビランを信頼している。

    「もしメーヌ・ド・ビランがその文字通りの信仰の類においてより、彼が創造しようとしていた哲学の観念の観点で解釈されるなら、彼の霊感に立ち戻ることが適当であるとわれわれは信じる。それは、メーヌ・ド・ビランが表現したかったことが、行為のみが意識を生み出すという理念であるからであり、また能動的な意識において本質的に自己を措定するコギトが、了解の行為かもしくは、知識の客観性の基礎づけのための方法と混同されるべきではないという理念を彼が表現したかったからである」(EL, 157)

    「意識が表象や外的世界の知識から借用されたモデルより解放され得るということが、これほどまで十分に理解されたことはかつてないことであった」(EL, 169)

  こうした意識を理解する上での解放こそ、われわれが本稿で関わる問題を生み出すものである。それは、もし真なる知の構成的操作がこの意識の「産出性」を解明することができないのなら、問いは〈反省的方法において表象はどうなるのだろう〉となるからである。

  多様な「反省への開け」、すなわち真理への開けや自由への開けを区別し並置する暫定的な解決法では不十分である。確かに、こうした意味で書かれたナベールの著作が存在するもの事実である。しかし、こうしたテクストは意識や実在の徹底した構成を説明しようとするものでなく、むしろ反省哲学の歴史的な進展関係を記述しようとするだけのものである。さらに重要なことは、彼が〈「独立性」や「相補性」は、真なる知の統制的規範と自由な行動の構成的操作との間に確立されなければならない〉と提案していることである。この教訓は、カントとメーヌ・ド・ビランとを寄り添わせるような折衷を招来するものではない。むしろ、行為それ自体のうちで客観性や真理を説明するような行為の哲学を導入している。ナベールは、客観的なコギトを能動的で産出的な意識へとこのように再統合することによって、反省哲学の最終的な均衡点を期待している。『自由の内的経験』の1924年の序文では「こうした釣り合うための重しがなければ、われわれが自然の構成のために用いる諸カテゴリーには切り詰められない内的な経験の具体的形式を直接発見しようとしている探求は、哲学を実りのない非合理主義へと傾けてしまうだろう」(EL, x)と続けている。注目すべきは、一九五七年の『フランス百科事典』の項目が同様の警告を繰り返していることである。

    「知識の批判的理論が、客観性や真理の機能を「私は考える」の第一段階に位置づけているのは、必然的なことであった。それは、内的経験の具体的な形式に直接関わっている探求が実りのない非合理主義の共犯者であるかもしれないという状況を回避するためであった」(p.19.06-1)

  しかし、ナベールの著作の二つの端で同一の用語法においてなされたこの宣言は、それが解決法を素描する以上に、その問題の輪郭を浮き彫りにしている。第一の解決法は、より限定された問題、そして一見したところでは異なる問題の文脈で浮かび上がってくる。この問題はまさに古典的で学術的な問題であり、そこでは行為シーニュの広大な問いが、すなわち意志の心理学における動機の役割の問題が問われている。『自由の内的経験』は、心理学的な因果性の問題の観点から自由を説明しようとする書である。「決定主義か非決定主義かを選別すること以上に困難なことは、自由がいかに自らを見失うことなく、意識の活動に参与し、またそこで展開される心理学的事実の体系に参与するかを示すことである」(EL, 63)

  しかし、ナベールはすぐにもわれわれにこう警告する。「自由と心理学的因果性の意識が断言される時、解決法は現われない。むしろ問題が浮かび上がってくるのだ」(EL, 64)。実際、われわれはコギトの二つの機能、すなわち決定論において働く真理の機能と、能動的で産出的な意識において働く自由の機能というコギトがもつ二つの機能の二重性をただ単に聖化するにすぎない危険を冒している。これはカント的教説において起こっていることであって、その教説は動機の連鎖を現象の水準に引き戻し、客観性を目指して思考している主体の所有物となるものはすべて聖化するのである。あらゆる物は保存されるが、得られるものは何もない。それは、このようにして避難場所を与えられた主体が私自身でも他の誰でもないからである。もしわれわれが、何らかの表象や理念の質において行動を生じさせる能力を見出そうとするなら、もはや何一つ得られない。われわれはこの動機理念の能力について何も知らない。また表象がわれわれの出発点となるべき基礎的な現実かどうかの問題が残っている。

  ナベールは、〈われわれは行為から決然と出発し、この行為がどうして事後的に一連の経験的事実として了解に現われるのか(EL, 123-55)を、決断する行動のうちに再び見出すようにしなければならない〉と考える。この理由は、後にわれわれが「表象の法則」と呼ぶことになるものである。

  しかしこの法則が現われるのは、行為から表象へとわれわれが移ってゆく場合だけであって、その逆ではない。もしわれわれがこの読解に忠実であるならば、われわれは、決断の充実した行為に先立つと考えられている動機においてさえ、その素描や大まかな概略や行為の初期湧出を再把握しなければならない。これらの素描は、出来事の後に生じる、表象に残された行為の痕跡のように思われる。またわれわれが行為を生み出すことができる先行的表象として動機を扱うようになるのは、このやり方においてである。しかし、充実した行為に先立つものは、始まったばかりであり、不完全であり、充実していない行為である。遡行的回顧のお陰で把握されるこうした非充実的な行為は、表象のうちではあたかも前進してつながりを有するもののように現われる。非充実的な行為がこのように表象となることを、われわれは動機と呼ぶ。このような仕方で客観化されることで、熟慮はわれわれにとって必然性の身体のように現われ、そうした身体においては、自由な精神がどこに適合することになるのかもはやわれわれは分からなくなる。しかし、こうした動機は意識の因果性の効果か、あるいはむしろその結果にすぎない。そのどちらにおいても「われわれの意識が行為する以前にある不完全な状態での行為は置き換えられてしまっている」。しかしこの置き換えは、われわれの責任性を撤退もしくは撤回することに由来していて、そうした責任性は、最終的な行為に没頭することによって先の表象の法則への道を廃棄してしまうのである。

  このように、困難の全体は動機の二重の性質から成り立っているのだが、その動機は一方で「行為に参与し」、他方で「あっという間に心理学的決定主義の一要因と結びついてしまう」(EL, 127)。こうした動機の二重性こそが、叡智界の自由と経験的な因果性とのカント的アンチノミーから脱却させるのみならず、持続と表層的自己とのベルクソン的対立からも脱却させるのである。

  しかし、われわれとしては問題を名づける以上のことをしただろうか。この際立った能力(その奇妙な美点は「表象において行為を配置すること」なのだが)はどのようなものなのか。もちろんわれわれは、劇となることで行為はわれわれに認知可能なものとなることを理解している。動機ということでわれわれが知っているのは、われわれが意志したことである。しかしなぜこの動機に関するわれわれの理解は、実際の意志の知としてのシーニュにおいてではなく、目立たぬ所与のうちで廃棄される意志の知として表明されるのだろうか。それ自体で暴露し、顕現するこの機能は、因果性(この因果性によってこれらのシーニュは本来あるべきものになる)を廃棄し忘却することを招来するとまで言わねばならないのだろうか。ここには奇妙な魔術がある。それ自身に自分についての「コメント」(EL, 130)をさせる、すなわちテクスト自身に解読させることで、行為は認知されると同時に認知されなくなる。そして、意識が自分自身の表現において自らをとり戻さねばならないのは、いつも痛みを伴う引き離しによる。しかしながら、行為からシーニュへ、シーニュから表象へというこの移行を転落と捉えることほど、ナベールの思考法から遠いものはない。決定論の法則の下で意識のテクストを読めるかどうかは、われわれが知りたいと思うものを知るのに必要な明解さと真摯さという努力に正確に一致する。さらに、もしそうした明解さと真摯さがよどみない語りに包み込まれないのなら、われわれの行為は一瞬のきらめきにすぎず、歴史を作ることもなく、持続すら作らないだろう。それゆえ、行為が自ら言葉となることのうちで再び把握される瞬間に、そのシーニュにおいて行為を忘却し、決定論における心理学的因果関係の意味を不毛にしてしまう傾向がもっとも強くなる。

 

(中略)

 

 『自由の内的経験』はこうしたシーニュの一般理論を二度素描している。一度目は動機の水準で、二度目は価値の水準である。これら二つの水準は心理学的説明の観点と規範的倫理のかんてんという、当時は排他的なままであった二つの観点に対応している。そして結局のところ、これら二つの観点は悟性と理性の観点である。

  『倫理学要綱』の第五章「価値の促進」は、この二つの観点を凌駕することと同時に、それら相互の排他的関係を克服することをも目指している。心理学的な因果性と倫理学的な規範性は、もはや反省の外部で構成される観点ではない。さらに言えば、反省の水準の多様性という認識論的な問いはより徹底的な問題系、すなわち実存の問題系の関心へと超出される。もしそれ自体で作動する意識と自分自身を注視する意識との相違が残るなら、それは実存それ自体が二重の関係によって構成されているからである。その二重の関係とは、意識を成り立たせその意識自体を凌駕する肯定作用との関係と、過失、過ち、孤独の感情によって証しされる存在の欠如と関係である。「実存が実存自体にとって不十分であること[実存が実存そのものと同一にならないこと](EE, 57)というのが、反省の水準の複数性との関連で第一義的となる。世界もしくは歴史のうちで自らの活動のシーニュを通じて根源的な肯定を自分自身に自己化するという課題を哲学の中心に据えるのは、まさにこの実存の不十分さ、その自己同化の欠如である。この反省哲学を一つの倫理学とするのはまさにこの自己同化の欠如であって、この場合の倫理学とはスピノザがこの学に与えた強く広範な意味、すなわち存在しようとする欲望の模範となる歴史という意味での倫理学である。

  しかし、われわれは1924年の『自由の内的経験』のうちで動機と価値の理論という二重の背景に対抗してシーニュの理論が素描されているのを確認したが、先の倫理学ではこのシーニュの理論はどうなっているのだろうか。いまや第二の主題が第一の主題を包み込んでいる。いまや価値の理論がこの役割を果たせるのは、この理論自体が先の規範の理論から分離されているからである。こうして価値の理論は、自由が作品を中核として世界と共に確立する関係性というただ一つのことだけを前提にする。

  事実、実存において自分自身と同化することの欠如ということから直接に出てくることは、「自らの源泉で自己に集中すること」と、「自ら世界へと拡散してゆくこと」という二つの動きの「二者択一」(EE, 57)である。こうした二者択一の領域に置き直されることで、価値の問題はあらたな意味を受け取る。

    「自己は、反省が自己の純粋な意識として把握し肯定するものを価値として自己化するのだが、その際、価値は価値自身を生み出し、それ自体で現実になる。このことが意味するのは、自己の純粋な意識が界へと向かって行為の原則ないし規則となると同時に、具体的な意識における満足の尺度にもなる時、価値は実存の観点において現われ、実存にとって現われるということである」(EE, 58)

 われわれがシーニュにおける行為の存在を忘却してしまっていることを再発見するのは、まさにこの動きにおいてである。

    「価値は自分が依拠し自分を維持してくれている原則のある種の混乱とつねに結びついている。この点で、価値の発生的な原則の混乱は人間精神のあらゆる顕現に影響する法則の表明である。メーヌ・ド・ビランがシーニュについて述べていること、つまりその構成的な能力を意識に顕示する作用は、価値についても述べられなけばならない」(ibid)

 しかしながら、知性的なものに関する真プラトン主義的哲学の場合のように、こうした混乱は「価値の原理を減退させるか脆弱化させるものではない」(EE, 58)。欺瞞の危険があるのはまさに試練ないし証明の道においてであって、そうした試練がなければ自己同化も決して存在しない。

  われわれはこのシーニュの法則を越えて進むことができるだろうか。「勇気ある」とか「高慢な」といった価値の述語から「勇気」や「高慢」といった本質への移行は、「自分自身が生み出したものから影響を受けることが人間精神の特徴である」(EE, 66)という事実を忘却してしまっているところから生ずる、とナベールは提起する。すでにカントが『純粋理性批判』の第二版で喚起していた、自己の自己に対する活動があることによって、発生的な運動とこの運動の内的法則との区別が可能となる。つまり本質が生まれるのは、創造的な行為がその創造から、その内的実在のリズムから離れ、結果的に観相に供される時である。自己の自己に対する活動は産出的想像力の惰性のようなものに思える。

    「明らかなのは、価値―本質の観念性は創造物の観念性に他ならないこと、つまり行動にとっての規則と個々の意識にとっての価値づけとなってきた、産出的想像力から生ずる不変の傾向の観念性に他ならないということだ。なるほど、そうした産出的想像力の不変の傾向は、個々の意識の偶発的な動きを超出する権威に包まれている。だが、自らの創造行為によって創造と自己触発を同時になすことができる、人間精神の二つの特徴だけが、本質の超越性に見せ掛けの性格を与えるのである」(EE, 67)

  恐らく、ここで見出されるべきはあらゆる象徴の法則、すなわち精神分析が示してきたように、隠蔽すると同時に暴露する、表明すると同時に偽る象徴の法則である。ナベール自身は同様の象徴についての一般化を素描しているが、それは彼が、かつての著作と同様の動きによって、心理学的傾向性から動機と行為へと戻りながら価値に導かれて欲望という逆の道を探求するときである。その場合、欲望から出発することでわれわれは、すべての意味やあらゆる価値要求は「あらゆる表現とその現実化を超越する創造的な意図の表現を、現実や生から獲得している」(EE, 60)と述べるだろう。しかし価値によって欲望をこのように高めてやることは、象徴への移り行きとなる。

    「増大する苦難、規則、形式、記号、言語という諸条件は、知覚や新しい行動のための行動や本能に根ざした知覚の代替となる。苦難というこの努力に従って生み出される各々の象徴は、それが直接的な意識に供される際には、何よりもまず現実を分解させる方法である」(EE, 75)

  純粋な作用を客観化しつつ自然な欲望を象徴化するというこうした価値への二通りの接近法によって、われわれは長らく探し求めてきた水準にたどり着く。カントにおけるように、「想像力は…媒介者である」(EE, 76)。想像力は表現の二重の力を隠蔽してしまうが、それは想像力が苦悩を目指す意志によって欲望を象徴に高めるからである。この想像力は「価値それ自体を創造するのと同様に、価値の道具、価値の要件を創造する」(EE, 77)。こうした想像力のうちに、また自己による自己に対する影響効果の法則(これは想像力に属し、時間そのものでもある)のうちに探し求められねばならないのは、われわれが本稿で取り組んできた分裂への鍵であり、その分裂とは、作用の純粋な産出力とシーニュのうちにそうした作用が隠れてしまうこととの分裂である。創造が湧き出るのは時間の流れとして、持続としてだが、人間の作品がこの時の流れの中に沈殿し、生気のないままになって、観相のための対象、模倣のための本質として人の目に供されるのは時間そのものとしてである。

  もし動機と価値における顕現と隠蔽とのこうした遊動についての要約がなければならないなら、記しておこう、「現象」は望まれた表現であるべきだ、と。

  現象とは「把握可能な表現における」内面的な操作の顕現であって、「現象は自分が何であるのかに関して、この表現へと自らを押し進めることによってのみ自ら確証することができる」(EE, 77)。現象とは、自分自身との差異のうちにある自己のそうした確証の相関項である。われわれは直接の自己-所有を享受できず、つねに完全な自己同一性を欠いており、『自由の内的経験』によれば、寄せ集め絶対的な選択の理想において企投する全体的作用を生み出すことは決してないのだから、われわれは、存在しようとする自らの欲望の多様な表現という媒介を通じていまある自分を際限なく自己化せざるを得ないのである。その際、現象という回り道は、純粋な意識と実際の意識との差異でありまた関連であるものとしての根源的肯定の構造に基づいている。現象の法則は、個別的には表現の法則であり、隠蔽の法則である。

  かくしてわれわれは、「感覚的世界の全体とわれわれが関与する存在者すべてが、しばしばわれわれにとって解読されるべきテクストとして現われる」(EE, 77)ことを理解する。ナベールの言葉ではないが彼の著作を突き動かしている別の言葉を用いるなら、反省は自己による自己の直観ではないのだから、反省は解釈学になることができ、またそうならねばならない。