un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ハンス・ローベルト・ヤウス「文学的解釈学の境界確定のために」読書メモ

[以下はHans Robert Jauß, ”Zur Abgrenzung und Bestimmung einer literarischen Hermeneutik” ( in: hrsg. von M. Fuhrmann, H. R. Jauß, u. W. Pannenberg, Poetik und Hermeneutik IX. Text und Applikation. Theologie, Jurisprudenz und Literaturwissenschaft im Hermeneutischen Gespräch, 1981, München.) の読書メモ]

 

 

1.文学的解釈学の研究状況について

 ●問い:文学的解釈学は、法学や神学における伝統的な解釈学の派生物と見なされ、その始源は宗教的解釈学と同一視されているが「そもそも文学的解釈学の独自性はどこで始まるのか。もしこの解釈学が、そのテクストの美的性格を正当に評価しようとするなら、それはかつてどのように振舞い、いまどのように振舞っているのか」(459)

 ロシア・フォルマリズムやテクスト記号論、スーザン・ソンダグの『反解釈』といった動きは、解釈学に頼らずに文学の美的性格を扱おうとしている。

  「ソンディが残した文学的解釈学は、確かに未完成のようにも見えるが、理解、解釈(Auslegen)、適用(Anwenden)という解釈学の三つの問いの方向性を示した。この三つは教育上はこのように言われるが、根本的には敬虔主義のトリアーデである。理解する厳密さ、説明する厳密さ、適用する厳密さ(subtilitas intelligendi explicandi, applicandi)がこれに代わる。ソンディはこの第二のもの[解釈ないしは説明]を自らの関心の背景に置くのである。このことによって彼の企てを再び取り上げる際に疑問が生じる。それは、文学的解釈学の独自性は理解する厳密さという第一の解釈学的な作用のうちにもすでにあって、ここに求められねばならないのではないか、さらにいってそもそもそうした独自性適用する厳密さという第三の解釈学的作用に関係しており、これは法学や神学の説明する厳密さをそのクライマックスとするものなのではないか、という疑問である。ハンス・ゲオルク・ガダマーは、適用は理解と解釈と同様に解釈学の行程を統合する構成要素であると主張した。この主張はどういった権利で文学的解釈学にも当てはまるのだろうか。この問いは議論の余地の残るものであるが、その一方でそれ以降の文学的解釈学は、美的に構造化されているテクストの構成、作用、解釈という自らの特別な問題を様々な観点から[イーザー、ヤップ、リクール]解決してきたのである。したがって私の関心の背景にあるのは、一方では近接する解釈学との絶え間ない連関のうちで、まさに文学的解釈学の美的な対象から、理解という第一の行程に対するどのような洞察が得られるのかを説明する試みである。 他方では、なぜ美的な態度のうちにある理解が純粋な芸術享受や反省的な解釈だけでは終わらず、同様に適用にまで達するのかを明らかにする試みである」(461)

 

 

2.理解、解釈、適用の統一としての解釈学的行程

    ●この統一の歴史的過程について

   「今日のテクスト論の方法論的反省は、ハンス・ゲオルク・ガダマーの哲学的解釈学によって決定的な機会を迎えた。それは解釈学の行程を、理解、解釈、適用という三つの契機の統一として把握し、どんなに対象領域が異なっていようともあらゆる解釈の実践が有する共通の課題を実現してきたし、また再度そうするべきである、という理念であった」(461)。「文学的解釈学は、歴史主義や作品内在主義の理論を解釈にまで切り詰め、その理解概念をはっきりさせることなく、適用の問題は完全にそのままにしてしまったために、1960年代にその遅れを取り戻し始めた受容美学への展開は、〈パラダイム・チェンジ〉という思わぬ成果を得たのである。理解においてはいつも既に解釈が始まっていて、このことから解釈とは理解の明確化された形式であるという洞察と、他方で〈理解においてはいつも既に理解されるべきテクストを解釈者の現在の状況に適用するたぐいのことが行われている〉[ガダマー]という洞察を、法学的解釈学と神学的解釈学はけして失っていない。……それゆえこうしたことを考慮するなら、ガダマーに従ってわれわれの現在の課題は〈精神科学の解釈学は、法学的、神学的解釈によってあらたに規定することである〉というのがもっともであるように思われる」(462)

   Cf. 敬虔主義が三つの契機を区別し、ロマン主義が前二者を統合したが、適用はなおざりにされてしまったこと。シュライアーマッハーによる歴史的(内容に関わる)、文法的(形式ことばに関わる)と精神的理解(作者や時代精神に関わる)の区分。

 「啓蒙以来の解釈学からではなく、既に解釈の技法(ars interpretandi)という古代の実践から理解、解釈、適用の統一の理解は基本として存在しており、重層的な解釈方法という新たなモデルが重層的な書物の意味を単に解体したのではなく、その機能を補充しさらに展開してやったのである」(464)。「ギリシャ語の解釈する(hermeneuein)という語は、三つの方向性を含んでいる。それは、言い表わすこと(表現すること)、解釈すること(説明すること)そして翻訳すること(通訳すること) である。そもそもこのことばが宗教的に使用されていたことを考えれば、神話の薄暗いことばや神の意志は解釈によって理解されるにとどまらず、現在の状況に告示されるよう翻訳されねばならなかったのである」(463)。「理解が困難となったいにしえの表現を現在のことばによって解明するか、もしくはこれを実際的で大抵は道徳的な解釈によっていわば二重化してやるといった様々なやり方は、まかり間違えば過小評価されることになる。それは、この二つの方向性から生じた論争、解釈の歴史において時代から時代へ様々な旗色の下で何度も活気を取り戻してきたこの論争を一つの進展する受容プロセスの両側面としてみなければならないのである」(ibid)

   cf. 字義通りの意味(sensus literralis)アレゴリー的意味(sensus allegoricus)。また古代の適用においては、古の意味を理解することと、それを権威づけるという意味もあった(ソンディ)

 

   ●ルターにおける解釈学的特徴

 神の真なることばを適用することで正しい「理解」を目指す。正しい「理解」が同時に信仰という実践の場面に適用されること。「解釈のすべての差異はすでにテクストにおいて実体的に与えられているか書き込まれているとする重層的な書物の意味の教説から、テクストの意味を課せられたものとして新たに何度も適用できる条件として理解し、変化する生の連関と共にある歴史的立場を多様な理解の相違点とする重層的な解釈方法へと歩みだすことはルターによって始められ、18世紀においては(既に言われたように)敬虔主義の解釈学によって、三つの厳密さの教説にまで拡張されたのだった。人文主義の教養人の解釈実践はこれとは独立に発展し、古代の偉大な著作者のアレゴリー的解釈は、ルネッサンスの文献学以降はもう古臭いものとして使い古されていた」(465)

 

   ●シュライアーマッハーの意義

  ソンディの評価:「シュライアーマッハーが解釈学を書物の意味の概念にではなく、理解の概念に基づかせる限り、解釈の方法を[三つに]区別する可能性が生じ、この仕方は解釈されるもの自体の多様性を前提しなくてもよくなったのである」(Einführung)。「その際、これによって重層的な解釈方法のあらたな教説は、神学的な書物釈義が有していたかつての機能を引き受け、あらたに定式化するのである」(466)

  ・字義通りの意味:歴史的理解、文法的理解

  ・精神的な意味:心理的理解

 「シュライアーマッハーが心理的解釈と同時に技術的解釈と呼ぶ際、恐らくそれは、彼にとってこの心理的解釈がよそよそしいあなたと直観主義的に同一視することに基づいているのではなく、ポイエーシス構成主義的な原理に基づいているからで、この原理の認識能力は最終的にはヴィーコ変換された真実と事実(verbum et factum convertuntur)という命題まで遡る」(466)

  「テクストの様々な解釈可能性が与えられた意味の次元やその変容の仕方に引き戻されるとしても、どのような意味の具体化であれ、それは理解と解釈と適用を同一のものとして把握することを前提している。この三つの契機がそれぞれに評価されることもあろう。例えば、理解はその歴史的再構築において、解釈その作品内在的な解釈によって、適用はそのアレゴリーにおいてという具合に、個々の契機が解釈学の行程の目標にまで高められとしても、そう言えるのである」(467)

 

3.理解の前提としての問いと答え

   「あらゆる理解の端緒とそれによる共通点は、哲学的解釈学に従えば、問いと答えの関係に基づいている。ハンス・ゲオルク・ガダマーが定式化したように、理解とは「答えとして何かを理解する」ことなのである。答えとしてテクストはその問いから開示される。というのもテクストの本質は、「可能性の公表と保留」であるからである」(467)。理解を「問いと答え」として捉えることはハイデガーから(SZ.§2)。「文学的解釈学は、この問いと答えの関係をその解釈実践から知っている。それは、過去のテクストをその他性において理解することが問題となる場合である。即ち、もともとそのテクストが答えとなっていた問いを再び獲得し、そこから出発して作品が当時そもそもの受信者に対して発した問いとその期待の生活世界的地平を再構築する場合である」(468)Cf. 文学的テクストの場合、必ずしも問いと答えによって構成され、理解される訳ではない。例えば詩。

 

   ●ブルトマン『解釈学の問題』(1950)の理解概念批判

  ブルトマン:「問う者のこの関心も、何らかの仕方で解釈されるべきテクストにおいて息づいており、テクストと解釈者との間にコミュニケーションが設定される」(Bd.2, S.217)。「人間存在はその可能性のうちでも、理解する者であるという固有の可能性としてあるが、そうした存在は真の詩の作品を考慮しなければ獲得されない」(Bd.2, S.221)

 問い

 テクスト(過去・異文化)         解釈者(現在・自文化)

 答え

 問いと答えによって両者が媒介される

  しかしこうした理解概念は、あらゆる解釈行為に適用可能だろうか。宗教なら宗教的テクストと宗教的な問い、美学であれば美的なテクストと美的な問いが、それぞれ固有の問いと答えの関係があるのが実情ではないか。「とはいえ実際には、この存在に関する根本的な問いに従属する問いの位置こそが、テクストに対する解釈学的通路を区別しているのではないか。問いの「~に向かって」(Woraufhin)は、宗教的テクストもそうだが、法学的、美的テクストの性格にも拘束されているのではないか」(469)。「あらゆる宗教的解釈学の共通の前提は、理解を区別する際に、神学的、法学的、美的テクストの先行基準に則って行なわれ、それらの解釈や適用の多様な目的設定を作成しなければならないテクスト遂行論に基づくだろうし、そうすべきである」(ibid)。「美的テクストの形式的な分析によって、「本来的理解」は準備されるにすぎず、まだ遂行されていない。今や文学的解釈学もまた、テクストの理解における先行理解それ自体を批判的に検証し、「これを作動させてみる」ことが解釈者によって要求されねばならない。言い換えれば、テクストそのものを問うことにおいてテクストに問わせることが、テクストの要求に耳を傾けることが求められねばならないのである」(470)

  神学的解釈学批判:「神のことばに対して問いと答えの運動を逆転させようとする神学的解釈学は、どのようなものであれ、テクストによる私への問いかけ(その神学的「要求」)に私自身による問いかけよりも優位を与える。そうした解釈学には、パンネンベルクがガダマーの古典テクストの概念に対して行なった(また神理解に優位を認める彼のテーゼも結局は同じことにならざるを得ない)殆ど異論の余地のない反論が跳ね返ってくる。即ち「テクストが我々に向ける問いという問題は、ただのメタファーに過ぎない。問う人間に対してのみテクストは問いとなる。テクストは自ずからそのようになる訳ではないのだ」(471)

 「神学的解釈学が前提とする人と神との関係によっては、必ずしも、理解することと過去の信仰世界という他性とを架橋することはできない。キリスト教的異端迫害や審問の宗教的テクストは、せいぜいのところ歴史的にしか説明されず、「理解」されない。とはいえ、我々が問いながら理解することのうちに、神の名の下で行為し苦しむ葛藤に関して何ものかを開示する、文学的テクストや芸術作品が存在するではないか。この開示を可能にするのが、美的経験の媒介的連続性である。その固有の能力は、遠くはなれた生活世界の地平を発見し、超越し、現在の地平と融合することであって、文学的解釈学の前提でありまた利点でもある」(472f.)

 

4.理解し、解釈し、受容的に読解する地平変化における詩的テクスト

     ●構造主義批判

  「しかし今や、テクストの美的構成をその受容の前提として捉え、この前提によって初めて我々の理解は時間の隔たりを超えることが可能となるのであれば、先ず最初の美的に知覚する読解の地平を第二の回顧的で解釈的読解の地平から際立たせ、これに第三の歴史的読解が接続するのが適切であり、こうしてテクストをその古代性の地平においてと同様、我々の経験との差異においても見えるようにするのである。こうした歴史的読解は期待の地平を再構築することで始められ、この地平においてテクストは、その当時の読者に現われる。しかしこの歴史的読解が先に要請された解釈学のトリアーデの統一を完璧に評価できるのは、テクストと現在の問いの歴史的隔たりが再度取り払われ、最も新しい適用に道を用意した読解の伝統が解明される場合である」(473)。「今日において構造主義的テクスト記述は、解釈学的に受容プロセスの分析において基礎づけられるべきであったし、そうできる」(ibid)。「詩的テクストが、その美的機能において把握可能となるのは、既にある美的対象のメルクマールとして読み取られる詩的な構造が、記述の客観化から再び読者を美的対象の発生の場に参加させるテクストの経験のプロセスへと戻される場合だけである」(474)。「構造主義詩学は、テクストを、そこで実現される手段の終点、総体として記述するが、テクストは今やその美的作用の出発点として考察され、美的知覚の行程を操作し、それによってただ主観的な読解と思われていた恣意性を制限する一連の受容の先行基準においてこの作用を探究されねばならない」(ibid)

 

   ●解釈学的トリアーデを文学的解釈学に引き付けること

  「詩的テクストの場合、美的経験は先ず知覚のプロセスに向けられ、さらに解釈学的には第一の読解の経験地平に関係付けられ、これはしばしば(歴史的に離れたテクストの場合、もしくはとりわけ意味深な韻文の場合)テクストの形態を一貫させ意味を充実させる重層的な読解によってはじめて気づかれる」(474)。適用を可能にするためには、第一の地平と第二の地平を関係づけなければならない。「詩的テクストの解釈は、その先行理解として美的な知覚をいつも既に前提している。この知覚が具体化できるのは、自分よりも前の読解の地平のうちに可能なものとして解釈者に現れている、ないしは現れ得たであろう意味だけである」(475)。アイステーシスにおける革新可能性はどうなるのか。アイステーシスが歴史的意味を明らかにする第一の読解に固定されているのであれば、読者の立場がテクストの意味を規定するという恣意性はなくなるが、歴史的意味の実体化(伝統)という厄介な問題が生じてくる。

  美的知覚は解釈の段階、すなわち問いと答えの段階とは明確に区別される。「とはいえ、アイステーシスという感覚的に理解するこの能力は、即座に解釈を要求することはないし、それ故やはりまた暗示的ないしは明示的な問いへの答えという性格を必ずしも有している訳ではない」(ibid)

 理解    美的知覚的理解(初読) アイステーシス

   解釈的理解(再読) 解釈・反省

  「読解が美的に知覚している地平のただ中で受容するものは、解釈の回顧的な地平において主題化される。付け加えれば、解釈それ自身は再び適用の基礎になり得る。更に過去のテクストが解釈されるのは、現在の立場に対してその意味を新たに開示するためである。こうして明らかとなるのは、理解と解釈と適用というトリアーデの統一は、解釈学的行程のうちで遂行されるように、主題的な地平と解釈の高揚と動機の高揚という三つの地平と完全に一致するということである。A・シュミッツによれば、この地平の相互交換関係は、生活世界における主観的経験の構成を規定している」(476)

 理解       解釈      適用

 当時の意味    問いと答え    生活世界

  ・ヤウスが提起する読者のあり方:「この歴史的な読者の役割が前提することになるのは、読者は韻文とかかわりながら経験するが、その文学的・言語的能力はひとまず留保され、その代りに読むうちで時折迷い、この迷いを問いの中で表現する力をもってくることができる、ということである」(477)

  ・イーザーの「未規定性」の議論を受けて:「イーザーが『読書行為』において……虚構テクストの美学的性格を未規定(また再規定)という主要なカテゴリーの下で再び有効なものとしたのなら、私に残されているのは、第一の知覚的読解によって受容の流れを、増大しながら美的に強制する明証性の経験として記述し、この経験が、実際に具体化可能なものの活動領域を第二の解釈的読解の既に与えられた地平として開き制限する、ということである」(ibid)。第一の読解と第二の読解の関係は以下のとおりである。「韻文的作品の意味総体がもはや実体として、無時間的に予め与えられる意味としてではなく、課された意味として読解されるべきであるという解釈学的な前提を承認する者は、次のような洞察を読者に期待できる。即ち、今や読者は、解釈しながら理解するという行為において、詩の別様に可能な意味のうちの一つを具体化することができ、そうした読者にとっての意味の重要性は、他者に対する討議可能性を除外することができないのである。今や読者は、[美的知覚によって]充実した形式からまだ充実していない意味へと回顧的に、結末から始まりへ、全体から個々の点へと逆行しつつ、新たな読解によって探究し、事を成し遂げるであろう。理解に対して最初に立ち現われてくるのは、第一の通過では背後にあった、開かれた問いのうちに示される。この問いが解決されることで期待できるのは、様々な観点の下でまだ未規定である個々の意味の要素から、解釈の作業によって、形式の次元と同じように意味の次元で充実した全体が生じてくる、ということである。この意味の全体が選別しつつ視点を設定することによってのみ見出されるのであって、客観的と誤解された記述によって獲得できる訳ではないということは、部分性の解釈学的前提の下で当てはまる。この前提と共に、生起する(geschichtlich)地平への問いが立てられる。この生起する地平が作品の発生や作用を条件付けたのであり、現在の読解の解釈を制限するのである。ここでこの地平を捜索することは、第三の歴史的読解の課題である」(477f.)

 

   ●第一の読解はテクストを現在に対して他者化するために必要となること

  「……美的な理解と解釈も、歴史的に再構成する読解が有する統御的な機能に従うようになっている」(478)。「文学的テクストの現在においてその〈他性〉を調査すること、それ固有の遠さを調査することは、再構築的な読解を要請する。それは、テクストがその当時に答えであった問い(これは大抵不明瞭である)を探求しはじめるのである。文学的テクストを答えとして解釈することは次の二つのことを含むことになるだろう。それは、テクストの答えがどのように文学的伝統をその答えが現れる以前に下書きしていたか、その形式的な期待へ答えること[テクストが想定していた答え]と、答えが最初の読者の歴史的生活世界においてどのように考えていたのかという意味の問いへ答えること[実際に引き出されていた答え]である。(中略)もし文学的解釈学が神学的解釈学や法学的解釈学のように、理解から解釈、適用にまで至るべきであるのなら、ここで適用は確かに実践的行動に入り込んでしまうが、これによってまさに、過去との文学的コミュニケーションにおいて自分自身の経験に即して測定し、拡大する正当な関心が満たされるのである」(478f.)

  歴史的でも美的でもない構造主義と比べて文学的解釈学は、次のような仮設をもつ。すなわち「文学作品の意味が歴史的にどんどんと具体化してゆくことは、美学上のカノンを形成したり改編したりするこののうちに表れるある論理に従っていること、また解釈の地平が変わることで、恣意的な解釈と同意可能な解釈、ただの奇抜な解釈と規範形成的解釈とが決然と区別されること」(479f.)である。「一方で、読者によってすでに確保された詩に対する距離が別の美的知覚を生じさせ、意味を規定的に具体化してしまえば、別のまったく矛盾のない解釈を必然的に無視せざるを得なくなってしまうことが判明して、次のような驚くべきことが確定したのだった。それは、個々の解釈はそれがどんなに多様なものであろうと、矛盾することがないということである。このことは次のような結論へと行き着いた。それは、やはりこの〈複数主義的なテクスト〉そのものが、第一の読解の地平において知覚しつつ理解することを、統合しながら美的に導いてやることができるという結論である」(480)

 「美的知覚は、無時間的な妥当性をもった普遍的なコードなどではなく、歴史的な経験を美的経験として緊密に関係づけるのである」(ibid)