un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介。未発表の翻訳いっぱいあります。

ジャンニ・ヴァッティモ「解釈学的存在論における真理と修辞学」

[以下は Gianni Vattimo, La fine della modernità, Milano:Garzanti Editore 1985.に収録された第8論文の英訳・独訳からの重訳]

 

 

  われわれが「解釈学的存在論」と呼ぶものが何であるかは、現代思想において非常にはっきりしていて十分に展開された哲学的立場である。[これについては]ガダマーに加え、ルイジ・パレイゾン、ポール・リクール、もしくは(比較的最近では)リチャード・ローティといった哲学者によって前進せられた、独創的で高度に明瞭な諸理論について考えるだけでよい。これらの思想家は、しばしばそれぞれ異なった方向においてではあるが、解釈についての哲学に対して決定的な貢献をなしたのであった。それゆえ、私のここでの問題の考察は網羅的なものではあり得ない。私はもっぱらガダマーの特定の解釈学的パースペクティヴから真理と修辞学との関係について検討を試みることになるだろう。というのは、先に言及された著者たちの中でもなかんずくガダマーは、その著作の中でこの関係を――もっとも影響力のある仕方で――主題化したからである。

 ガダマーの修辞学への関心はその大著『真理と方法』(一九六〇年)の内に十分に立証されており、後年になって出された諸論文――それらは今日、彼の『小論集』と『科学の時代における理性』に収められている――においてさらに重大なものとして強調され考察されている。ガダマーはハイデガーが指摘した存在と言語との間の「つながり」もしくは「同一性」に戻り、熟考するが、それは存在よりもむしろ言語の極によりいっそうきっぱりと力点を置く方向においてである。これが、ユルゲン・ハーバーマスのそれに対する用語を借りれば、ハイデガーの哲学にガダマーがなした「都会化」の言わんとするところである。今日ではおそらくこうした都会化によってのみ、たとえば、ハイデガーウィトゲンシュタインとをますます明確な仕方で互いに接近させることが可能となり、これは哲学に対してよりはっきりとした成果をもたらす。そうした接近は、ピエトロ・チオディや、一九六〇年代の初めにK・O・アーペルといった著者によってかなり以前から提起されていた。とはいえ、とりわけチオディの著作においては、つねに強調点はハイデガーの著作において見られるのと同様、ウィトゲンシュタインの著作にも見られるとされる「非合理的」で神秘的な要素に置かれ、言語の分析哲学の光の下でハイデガーを読むだけで真剣な試みはなされていない。要するに、ガダマーの「都会化」の後に初めて、たとえばローティの『哲学と自然の鏡』が依拠している類の比較が可能となる。実際、同書は二〇世紀の哲学の内に、デューイとウィトゲンシュタインハイデガーというたった三つ名前の観点で規定されることになる下降線をみている。

 ウィトゲンシュタインハイデガーとの類似性を見るまさにその可能性は、言語の極そのものを強調することで、もしくは――少なくとも暗黙の内に――存在の極をすっかり分解することで存在の家としての言語という観念を「都会化」するハイデガーの読解に基づいている。存在の分解はハイデガー自身によって遂行されており、それはわれわれが彼の哲学的思考がもつニヒリスティックな適性について正当に語ることがあり得るほどである。ガダマーの根本的な議論は、「理解され得る存在は言語である」というものであり、このことは存在を言語へと分解しようとするか、もしくは最低でも存在を言語へと解消しようというハイデガー思想の展開を告知している。その証拠に、形而上学や存在の忘却といったハイデガーの中心的な観念は、ガダマーの著作の内にいかなる体系的な配置も見出さないことが想起されるだろう。

 しかしながら、<ガダマーによるハイデガー哲学の「都会化」は、この言語の極の強調という言い方で説明し尽くし得るのであって、この言語の極は、構造主義へと傾いてゆく人文諸科学のモデルとして(ガダマーが『真理と方法』を刊行したちょうどその時期の)言語学に広く認められた主導的役割とつながりがある>と考えるのは誤りであろう。もしくは<ガダマーの関心事の核心にある解釈と解釈学的伝統がはじめから彼の言語についての反省を規定している>という事実との関連においても、この「都会化」は説明し尽くされることはないだろう。『真理と方法』において既にはっきりしていること、また後になってさらにはっきりしだしたことは、<言語に与えられる拡大された役割は、ガダマーの解釈学を支配している倫理的関心事に付随するものである、もしくはそこにその真の本源をもつ>ということである。既に『真理と方法』において、地平の融合や影響史的意識といった鍵となる観念は、アリストテレス倫理学や「適用」という概念と共に構築されたものである。同著に続く諸論文においてよりはっきりするのは、世界のあらゆる経験と存在のあらゆる生起との全面的な仲介の場としての言語(「理解され得る存在は言語である」)が、純粋に言語学的な用語においてではなくむしろ倫理学的な用語においてよりいっそう根本的に――もしくは一様に独特な仕方で――特徴づけられていることである。ガダマーにとり、世界のどんな経験も言語の所有によって個人に可能となることを示すことはさほどもしくは原則的に重要ではない。そもそも言語とは個人が話すものではなく、個人について話すものである。ガダマーにとって、とりわけ言語は、歴史的に規定された社会の集団的エートスが具体的に実現する場もしくは場所であり、それゆえ言語は世界の経験を全体的に仲介するものとして機能する。この意味で、ガダマーは言語を、話すという一般的な人間の能力としてではなく、歴史的に規定された言語として理解している。言語のうちでわれわれは世界を経験をし、「その世界の内で言語はわれわれに属し、またわれわれは言語に属し、世界は過去の歴史と現在とを包み込んで、人が相互に語りかける言表においてその言語的分節化を受け取る」。この言語の内で分節化される共有化された世界は、合理性の特質を持っている。それはロゴスであり、ロゴスは言語であると同時に現実の合理性でもあると解され、言語と同一視されている。ガダマーによれば、自然の合理性というギリシャ的概念と歴史における理性の現前というヘーゲル的概念は、生きたロゴスというこの言語の概念において交差している。ポスト・ウィトゲンシュタイン分析哲学において見られる自然言語という見方も、この同じ言語の概念と交差していると付言されるだろう。ガダマーは経験を支配する言語的でありまた倫理的である次元について書いているが、それはテオリアの観念と関連するカロン[美しい]というギリシャの観念に遡及することによってである。ギリシャ人のそのもっとも早い用語法においてそもそもテオリアは、主体と客体とを分かつ「客観化」を伴う概念的に定式化された構築物ではない。むしろそれはある参入であり、神の行程への参入と関係づけられ、その参入において諸々のテオリアがさらにそのポリスの代理として機能する。したがってテオリアとは、「観る」ことでありまた「参入する」ことであって、ある意味では対象を所有するというよりはむしろそこに「属する」ことである。ガダマーが『科学の時代における理性』の論文の一つで記しているが、カロンは芸術的で宗教的な創造に指定されるのみならず、なんの疑いもなく望ましいもの、またその効用を証明することで正当化しないものを含んでもいる。「これがギリシャ人がテオリアと呼んだものである。それはすなわち、圧倒的に現前すればすべてのものに共通に明らかにされるあるものに引き渡されていることである」(『科学の時代における理性』、58頁)。

 言語とは、全体的な仲介の場所として、まさにこの種の理性のことであり、このロゴスは生き生きとした伝統の網もしくはエートスへの集団的帰属の内に生きている。このように理解されるなら、言語/ロゴス/カロンは善とある構成的な連関を持つようになる。つまり、両者は目的そのものとして、もしくは何か別の目的のために追求されるのではない最高の美徳として働くのであって、美は――ガダマーが『真理と方法』の最終段落で看取しているように――善のイデアの知覚可能性でありその輝きなのである。個人と集団が歴史の内で経験する合理性は、世界であると同時に言語でもあるこのロゴスに言及することによってのみ定義可能なのかもしれない。ロゴスは、ヘーゲル的な絶対精神がもつ自己透視性という無限の資質を持ってはいない。ロゴスが弁証法的なのは、歴史的な人間存在のいつも有限で制限された対話において生きる場合だけである。それゆえガダマーはロゴスを、「社会的了解」また「社会的意識」と呼んでいる。

 

  不幸なことに、言語と言語共同体のエートスとの連関をこのように強調することは、(ガダマーが明確に言及している)ハイデガー的思想に或る特定の意味を、すなわちハイデガー自身にとってさえ新しい意味を与えている。われわれが真理と修辞学との間の特殊なつながりを見ることになるのは、まさにこの地点である。よく知られている通り、『真理と方法』は芸術経験をそのモデルとする真理の理念と、公共的で制御可能な諸基準と一致する方法上の検証可能性としての真なるものという科学的観念とを対立させている。とはいえ、まず芸術経験について言及し、最終的にロゴス/世界とカロン(美しい)とを同一視すること、この両者の関係は言葉の論理学的な意味で悪しき循環である。逆に、カロンという最後の概念はもともと芸術に認められるモデル機能を説明し、承諾を与える。言い換えれば、真なるものの経験は生き生きとした集団意識における経験の全体的仲介の場所としての言語への帰属の経験であるというそれだけの理由で、芸術も真理の経験なのである。美学的な哲学の伝統の全部門はこの[真理の]理念とかかわりを持つのであり、この部門は――カントにとっての美的なものの特別な「主観的」普遍性から、芸術と民族の自己意識との間のヘーゲル的なつながりまで――芸術作品と集団意識との間のつながりに焦点を当ててきた。われわれが芸術作品と出会うとき、その出会いは確定した真理(それは所与の作品の「真理内容」を説明するあらゆる試みの明白な不手際を示している)との出会いではない。むしろこの出会いは、分析の最後において、われわれは言語それ自体によって代表され、言語の内で進展する伝統によっても代表される集団意識の地平に帰属しているという経験であり、また芸術作品の方もこの地平に帰属しているという経験である。

 では、これらのうちの何が真理と修辞学との間の関係に関わるというのか。「修辞学」とはここでは、ガダマーがそう捉えているように、言語表現を通じての説得の技法というもっとも一般的でもっとも総称的な意味で捉えられている。明証性と説得力――それと共に集団意識の継承が確固たる地位を占める――は、カロンであり、修辞学的な型の明証性である。ガダマーは「エイコス[類似]、もっともらしさ、明証性(説得的なもの)は証明されたものや既知のものの確実性や真理に対して自らの正当性を主張する一連の諸概念に属している」(WM, 460)と記している。解釈学的真理は、解釈学が言及する真理経験であり、解釈学が芸術経験によって例証されると理解している真理経験であって、この解釈学的真理は本質的に修辞的である。

   「もし古代から科学の確実性や確証性の要求に対して共通感覚の真実らしさやエイコス[類似]や明証性を保護するような真理要求の唯一の擁護者であり続けてきた修辞学に言及するのでないなら、理解についての理論的反省は一体何について言及していることになるのか。引証不可能なまま確信したり説明したりすることは、明らかに、理解や解釈の範囲内のことや目的であるだけでなく、言語表現や修辞的説得の技法の範囲内のことであり目的でもある」[WM,117]

  とはいえこれは、周到な分類においては科学に固有の方法的な類の真理とは異なって区別されると考えられるであろうような類の真理の問題ではない。ガダマーは、修辞的説得の内容は集団意識や伝統から作り上げられ、そうした説得の支配は科学的進歩に際して根拠を与えるのみならず、「科学に対する自らの権利を回復し行使するべく、新たな科学的発見がなされるたびに自らを拡大してもゆく」と付言している。このように理解されるとき、修辞学と解釈学だけが「科学を生の社会的要因」となす。共通のロゴス/言語が科学に対して自らの権利を再確認するのは、科学的な諸理念と用語法を日常言語や集団意識の内へと移し入れることによってだけではない。そうした移し入れは十分明らかに通俗化によって起こることであり、それゆえ科学的発言の意味が何らかの仕方で貧困化することによって、また科学理論すべてが持っている修辞的側面の強調によっても起こることである。しかしながら、ガダマーの『科学の時代の理性』の諸論文において見られるように、もっとより多くのことが問題である。ロゴス/集団意識は倫理的なスタンスで、科学の研究結果の使用や発展の方へと自らの権利を行使する。科学と技術が提供する実用可能性は、科学の確固とした社会的使用を独力で可能とするには決して十分でない。(たとえ暗示的なものであっても)倫理的な類の決定がつねに求められるのであって、そうした決定はしばしばわれわれを何らかの技術的発展の道筋を追及しないよう導きさえもする。ガダマーによれば、今日こうしたことは遺伝子テクノロジーに生じていることであり、道徳的な決定のために特定の方向へと発展しないようにされている。

  科学研究の結果をこのようにいわば集団意識に「再結合」することは、言語の生成の一側面というだけではなく、そもそも倫理的な事実である。そしてもっといえば、これら二つの現象は互いに分離できないものである。もし真理の場としてのテオリアとカロンに関するガダマーの言説を真剣に捉えるなら、われわれは<そもそも科学にとっての真理の契機は、科学的命題もしくは科学が発見する諸法則の検証の契機ではなく、むしろ集団意識との「再結合」の内にあり、したがってこの契機も、不可避的に実用的な用語で色濃く染め上げられるとはいえ、本質的には修辞学的な用語で特徴づけられるべきものである>と言わねばなるまい。科学は思考しないというハイデガーの議論もまたこのように理解されるだろう。それは、科学にとっての真理の契機は検証や論証といった、科学がそうであろうと信じているものではないからである。とはいえこうした観点からなら、(少なくとも原則としては)万人によって使用されている同意された基準によって公共的に制御可能なものである真理という観念にいったい何が生じているのだろう。ここでこれまで吟味してきた諸前提によれば、これは自然科学と精神科学との平和的な区別としても、クローチェ風に科学をそのまま「経済」活動に還元することとしても理解することはできない。

  逆に、修辞学と解釈学――すなわちロゴス/集団意識は、科学それ自体が本質的に持っている修辞的性質を徹底化するものとして、科学の論証的言説に対する自らの権利を再び要請する。これはいってみれば形式から内容へと進む方向をとっている。純粋に形式的な意味で、科学が持つ修辞的形式は、つねに歴史的で変化しやすいパラダイムに科学が実際依存していることにおいて見られ得る。少なくとも一般的に言って、トマス・クーンの仮説はもはや取り立ててショッキングなものではなく、少なくとも科学の解釈学的な観念はことさらに喜んで彼の仮説へと立ち戻ることができる。科学の理論は、同一の理論とパラダイムという制約の内部でのみ実施可能で意味を持つような観察に基づいて保証される。こうした理由から、あるパラダイムの出現もやはり、科学的証明という観点から記述され得る事実ではない。周知の通り、クーンはパラダイム・シフトという歴史的出来事をわれわれがどのようにして認知し得ることができるのかについての質問を放置したままでいる。解釈学は、力の純然たる遊戯としての歴史の観念、もしくは逆に曖昧な現実についての客観的な知識への前進としての歴史という観念の限界を超えることによってこの問題を考え抜くことに大いに貢献するかもしれない。クーンの理論の枠組みにどのような困難があろうとも、科学革命という彼の理論が持つ一般的な意味(恐らくより一般的に受け入れられ得る意味)は、科学の論理を修辞学に還元するという仕方で定式化されるのであって、このことは、<科学理論が「論理的」に検証不可能であるパラダイムの内部でのみ証明可能ではあるが、説得という修辞的な類のものを基礎として――実際それがどのような仕方で起ころうとも――受容可能である>という限定されて意味においてそうなのである。

  しかしながら、科学論理そのものが持つそうした意味での修辞的本質をこのように承認することは、大抵のところ、科学のパラダイムの慣習性を総体的に受け入れることに限定される。クーンの理論の主要な長所は、この一般的で総体的な慣習主義と歴史的パースペクティヴとを再びつなげたことにある。科学の証明方法が依拠する慣習は、「任意」に前提されたり、経済学や実用上の効用という抽象的な基準に基づいたりするものではなく、むしろそうした慣習が「生活形式」と「一致」していること、それゆえにまた歴史的に規定された伝統や文化と「一致」していることにに基づくものであると言われるかもしれない。解釈学は科学の修辞的性質のこうした一般的かつ総体的受容の点で徹底化を実現するのであり、その徹底化はまさにこの歴史化の途を追求することである。したがって、科学的命題にとっての検証の規則がもつ公共的性質が、形式的に普遍的なものではない(それはたかだか研究集団にとって当てはまるものであり、そうした研究集団は純粋な「学問主体」のモデルによって既にそれ自体把握されている)。これらの検証の規則がもつ公共的性格は、その実際上の基盤を歴史的また文化的に確定された公共的領域のうちにもっている。科学的命題の真理は、理想的には万人によって運用されるであろう公共的に取り決められた規則によって制御可能なその検証可能性ではない。そのように理解してしまっては、論理学と修辞学との結びつきを純粋に形式的な意味に還元することにつながってしまうだろう。むしろ科学的命題の真理とは、さまざまな学問上の公準における検証の支配的規則を共通のロゴス/言語である公共的な領域と再び結びつけることである。この共通のロゴス/言語が継続的に解釈学的で修辞学的な言葉で編み直されるのは、その実体が修辞学的な類の「明証性」に基づいて生ずる(主体の側の客体-伝承の、またはその逆の)領有化の過程を通じて維持されたり革新されたりする伝統の共同体であるためである。

 

 

  こうしたことすべてが提起しているようにみえるのは、真理と修辞学との間のよりいっそう本質的な結びつきであり、そのような結びつきの内で解釈学は経験主義や実証主義においてその起源を見出されるような類の哲学によりいっそう接近する。ガダマーは美なるものや真なるものや善なるものの輝きの力という仕方でロゴス/集団意識の内容によって供される説得的な明証性について記しているが、そのような明証性は結局のところ個々人の意識の内に生じる直観的な経験である。しかしこうした経験の場としての言語に関するガダマーの主張は――彼の著作においてははなはだ暗示的であり、ここでそのことを明示的にすることは新たな一連の諸問題を開示することになるのだが――、真理の世間一般に広まった公共的性格の力説を伴うものであり、そうした力説は意識の私秘的な明証性に言及することを恐らく制限するものである。真理に到達するということは、伝統的に「明証性」と考えられている明るき内面性のかの状態を獲得することではなく、むしろ(明証的というよりは)明白で問う必要のないように思われる、共有され共同で推敲された仮定の水準に達することである。それゆえ恐らく後者のような真理観は、語の強い意味で権威的な明証性として理解可能と思われることすらない。こうした文脈において、われわれは「エスが存在したところに、私が生成することになる」というフロイトのモットーに関するラカンの解釈を想起するかもしれない。つねにわれわれにとって明確である訳ではないものの、集団意識はわれわれの判断の基盤として働き、それは「無意識」のレベルにとどまってすらいる。それゆえ「背景」であることによって集団意識はこの意味で、ガダマーがカロンとテオリアという観念において看取する<見事さ><明晰さ>によっては真に理論化不可能な弱い性質を有している。背景としての集団意識の性質は解釈学の意義に関するあらゆるよりいっそうの反省にとっての中心テーマとして強調され、捉えられねばならないだろう。加えて、ロゴス/集団意識を言語と捉えることは、紛れもなく、明確に主題化された言語学的手続きを実行するものとして真理の経験を力説することを要求するのであり、そのような力説は学問的発言の公共的制御可能性の意味においてではなく、むしろその使用の観点から見られたさまざまな言語の分析として理解されるものである。このようにさほど定式化されていない意味においてさえ、真理の経験はその本性上、公共的である分析手続きと制御手続きの実践に再び結合される。解釈学が派生した哲学的伝統の観点からすれば、このことはあらゆる出来事の中でも重要な見解の獲得であるように思われる。ここにおいてハイデガーの思想の「都会化」はまさに文字通り、そのアプローチがもともと実存主義的であるような一部の哲学に基づく真理の内面的性質であるよりはむしろ、より「外面的」な真理の性質を受け入れることのように見える。ハイデガーの「都会化」とは、直観の契機に対する手続き的な契機の優位を受け入れることであると同様に、真理の内的ビジョンの契機に対して規則に従って組織された「市民的」共同体の契機の優位を受け入れることでもある。このような仕方でハイデガーの反ヒューマニズムはより見やすいものとなる。すなわちこの反ヒューマニズムはとりわけ意識を特別に強調するどんなやり方にも反対するものであり、またそれゆえに近代形而上学の主体にたいする不信をあらわすもののように思えるのであって、その不信はニーチェのうちに、また彼が意識の明証性の究極的性質を拒絶したことの内にその先駆をもっている。

  とはいえ、もしわれわれが<真なるものから直観や内面的明証性の支配を分離することは、引き続き十分に探求されるべき数々の点で、哲学にとっての重要な見解獲得を表している>ということを進んで認めるなら、それはまた解釈学がウィトゲンシュタインの仕事のいわゆる第二期から派生した分析哲学特定の諸成果と共有する少なからぬ諸問題に巻き込まれることでもある。というのは、ウィトゲンシュタイン<所与の言語の話し手の大多数が誤ることが果たしてあり得るかどうか>という問いをとりわけ深刻な仕方で立てるからである。

  ガダマーの解釈学において、この問題は本質的に類比的な用語で立てられている。真理に到達するとは根本的にロゴス/集団意識へと立ち戻ることを意味し、部分的にではあれ科学やテクノロジーの言説に、そして恐らくは社会の特定集団の言説にさえこのロゴス/集団意識を再結合することをも意味する。しかしその内実と共に、このロゴス/集団意識は決してそれ自体疑いにかけることはできない。恐らく共同体の実際の歴史的変化やその拡大に言及するならその限りではないが、真理が反省や帰結でしかないような力の純然たる遊戯としての歴史というイメージをわれわれが破棄しようとしなければ、こうした議論はここでもきわめて問題の残るものであるように思われる。哲学が自分自身に対してや西洋の伝統における思想一般に対してつねに要求してきた批判的性格という特定の見地からすれば、たんに<真理への道は、言葉の認知的で倫理的な意味での共通感覚の意識へと戻る「特定の」言説を導く道と同一である>と主張するだけで十分であろうか。ガダマーがその解釈学的な意味において哲学と理性を構成するものと考えた「プラトンによるソクラテスの諸ロゴスへの跳躍」は、もし原理的にそれがさまざまな学問の言説に関するしばしば教条的な要求に対する集団意識の権利を再主張することの内にあるなら、本当に跳躍であるだろうか。そうした仕方ではこの跳躍は、「既にあるものの弁明」にならないだろうか。どのような名目において、預言者や革命家や革新的な科学者たちによる大多数の意見のへ批判は正当なものとなりえるのか。

  ガダマーがロゴス/集団意識という彼の観念の問題性格を見るのは、そうした意識が実際に生じた際のその形式においてのみである。見かけとはまったく正反対に、集団意識、すなわち倫理的伝統の共同体は、われわれの学問社会やテクノロジー社会においていまなお成立しているだろうとガダマーは主張する。彼は権利それ自体の問いを考えているのではない。言い換えれば、彼はどのような特定の権利の名目において集団意識は個人に優先しこれに勝るかということを考えているのではない。

  恐らくこのことはガダマーがハイデガーの仕事を「都会風」にしたことの別の側面であって、それはこの場合「都会性」の過剰とでも呼び得るものである。本論の最初に記したのは、ガダマー本人の著作において形而上学存在論的差異の観念といったようなハイデガーの本質的な主題のいくつがが完全に消え去っているかに見えることであった。ガダマーがそのカロンとテオリアという観念によって描き出す解釈学的で修辞学的なパースペクティヴにおいて思想の批判的性格という問題が立てられる時に、この指摘は再び念頭に浮かんでくる。理由はどうあれ、確かなのは、存在忘却とテクノロジーのグローバルな支配の内で達成されてきた形而上学の世界に関するハイデガーの批判的パトスの大部分が、ガダマーの著作においては減衰するかもしくは完全に不在となっていることである。ガダマーにとって重要なのは、社会の合理性に荷担する科学やテクノロジーの教条的な要求を制限する能力であり、この合理性は西洋形而上学から大きく距離をとる必要性を見るよりはむしろ、自らを西洋形而上学との根本的連続性との関連の内に置くのである。これが、文献解釈の訓練がガダマーにとってもっている大きな重要性の他に、彼がハイデガーによる過去の哲学者や詩人の解釈から距離を置くやり方の所以である。それは、ハイデガーがもっとも預言者となるように見えまたもっとも「都会的」でなくなるように見えるのがこれらのテクストであるからであり、またハーバーマスのような読者にとってほとんどアピールするところがないのがこれらのテクストであるからである。しかしながら逆説的なことに、ハイデガーが既に存在しているものに関してもっとも忠実に批判的スタンスを取りつづけるのはまさにこれと同一のテクストなのであり、ガダマーの著作においてそうした批判的スタンスは完全に消尽点にまで縮小している。

  実際のところ、過去の詩人や哲学者を考古学的に読解する企図において、ハイデガーは存在の生起がより集中しより認知可能な仕方で響き渡る言語の「濃密」な地帯の探索に赴いてゆく。したがってまた、これらの地帯は、共通の言語が形而上学やテクノロジーに隷属してしまっていることへの批判にとって最大の力をもつ地点となる。[これに対して]ガダマーは共通の言語/意識という観点から技術主義や科学主義を批判し得ると考えており、彼にとってこの言語/意識は根本的に秩序あるもので、これに対し解釈学は真に批判的な機能を持つことはないが再構成し再組織化する機能は持っているのである。

  ハイデガーの思想が持っている独創的な批判の力は、どうすればガダマーの思想に対する可能なオルタナティヴとして今日再び獲得され得るだろうか。もしかしたらこれはハイデガーによる芸術や詩の反省、また一般的には言語の「濃密な地帯」の反省に戻ることによってなされるかもしれない。その際明らかになるかもしれないのは、ハイデガーとガダマーとが分岐する源泉に、(本来性や死への先駆的決意など)ハイデガー哲学のより「実存論的」な要素を支えるものがあること、また――これは両思想家にとって真理の生起という象徴的な場として機能しているのだが――芸術経験のさまざまな概念化さえもがあるということである。ガダマーがカロンについて記している『真理と方法』の最後のページは、光の形而上学への逆戻りによって、もっと一般的にはかたちの素晴らしさの形而上学への逆戻りによって完全に支配されている。ガダマーの言葉は、ハイデガーが『芸術作品の根源』という講演論文で提案する世界と大地とのあくなき闘争としての芸術作品の理念からわれわれを遠く引き離すかに思える。その仕事のもっとも率直に実存論的でもあるハイデガーの哲学のこうした「抑制された」要素を採り上げ反省することによってまさに、集団意識を単純に受け入れてしまうことを超えて、また既に存在するものへの弁明へと還元されてしまう危険を超えて解釈学を導くことが可能となるのではないだろうか。