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un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

ギュンター・フィガール「遂行の意味と事実性」

 [以下は Günter Figal „Vollzugssinn und Faktizität (in ders, Der Sinn des Verstehens, Stuttgart:Reclam, 1996.)  の試訳]

 

 

1.

 了解は実際どのようにしてなされ得るのかという問いに、ハンス・ゲオルク・ガダマーの哲学的解釈学はびっくりするほど簡素な解答を与えている。すなわち「問題となっている事柄を外部から対象のように観察するのではなく、そうした事柄に関わりあっていかなければならない。了解とはその根本において、こうしたこと以外の何ものでもない」。以前、ガダマーは、芸術了解という卓越した場合と関連づけつつ、〈それゆえ芸術は「その遂行において」(GW.8,391)存在するのであって、何かが思考されなければならない自立した作品としてではなく、生きることや遊ぶことや聴くことを表に出してゆくこと、自らを参与させる観察者を表に出してゆくことのうちに存在する〉と語っている。まさに作品がそのように受け取られることで、作品は正当に評価される。作品は、程度の差こそあれ、そのうちに身を置き、精神の意図を跡づける試みがなされねばならないような精神の謎めいた産物として眺められることはない。かくしてガダマーによる遂行の意味の思想は、感情移入と予言の解釈学に対するシュライアーマッハーの弁護への強力な異議となっている。

 とはいえ、シュライアーマッハーを越えてゆく歩みは迂回路を経ることでようやく成功した。作品やテクストの真理が「遂行の真理」として経験されることは、人間の現存在の遂行の意味一般が明らかとなった後でようやく見えるようになった。了解するには事柄とそのまま関わりあわねばならないというびっくりするほど簡素な解釈学的解答は、ハイデガーが現存在の体勢として練り上げたように、「事実性の解釈学」のうちに基づいている。「了解とは、現存在が有意味なものと出会う際に折りよくなす何かでななく、現存在を現存在として定義するものである。人間は了解しようとする者であり、自分自身を了解せざるを得ない者である」(GW.10,366)。ガダマーはこのようにハイデガーによる企図の決定的な点をまとめている。

 ガダマー解釈学にとってハイデガーという先行者がいることを参照したところで、それ自体は特別どうという程のことではない。これに関して、ここでの影響史はその多くがあまりに有名すぎる。しかしながら、「了解とは常に他者了解Anders-Verstehenである」(GW.10,141)と言われる。[ここでは]先の了解とコンテクストがずれており、人が関わる事柄が、異なるアスペクトの下で、恐らくはまったく違ったものとしても、登場している。こうした変更は事実性の解釈学というハイデガーの構想と一緒に現われたものであり、このことは、その解釈学の構想が著作やテクストに再び定位する解釈学の意味で理解されるところで決定的ですらある。こうしたことはガダマーにおいてそうであり、さらに鋭く力点がおかれ根本的なところで捉えられている。これによって、遡って話をしなければならないハイデガー的思考の修正版の出発点が得られる。このテーマは、ここで議論されるべき問いを超えてゆくだろう。

 

 

2.

 したがってまず、ハイデガーの「事実性の解釈学」について語らなければならない。一九二三年夏学期の講義においてハイデガーが語っているように、「事実性」とは「〈われわれ〉の〈固有〉の現存在の存在性格の指標Beziehnung(GA63, 7)として意味され、また「解釈学」は現存在の「解釈Auslegung」であり、それゆえこのことは、現存在において「自己自身にとって理解するものとなり、理解するものとして存在するという可能性」(GA63, 15)を形成することであるとされる。ここですでに明確なのは、事実性の解釈学という定式が二重の意味で読まれねばならないということである。すなわち、事実性の解釈は解釈学に属している。事実性の解釈が遂行されるところでは、その解釈はそれ自体で事実的なものという性格を有している。また同時に現存在それ自体の事実性が発揮されるのは、それが解釈される場合のみである。ハイデガーは曖昧で断定的な仕方で述べているが、現存在には「何らかの仕方で解釈されている状態にあること」(GA.63, 15)が属している。ともかくも、一方ががっちりと補足されている。解釈もしくは解釈学と事実性は、一方[解釈もしくは解釈学]が他方[事実性]を説明し、この説明が両者の統一を指示するような仕方で一体のものとなっている。現存在了解とは、自己了解する現存在のことであり、端的に現存在である。

 二〇年代初期においてハイデガーが幾度も考え続けてきたことは、自己了解する現存在の単一性を明示化することと、その下で[自己という]言葉の根強さをも修正することであった。このことは十分に再考されるべきである。すなわち、現存在において現存在が、つまり自己自身が了解されているということは、〈ここで自己との関係が、ないし自己との関連が存在するのではないか〉ということを意味するものではない。そうした語り方が許される場合、〈自己との関連や自己との親密さや、その他どのように表現されるにせよ、そうしたものは「前反省的」なものである〉と断言しようとも、すなわち「自己との」という定式によってそうしたことの確証が言葉にされたり、独自に修正されたりしても、そんなことはほとんどどうでもいいことである。

 だが、ハイデガーが自己了解する現存在の単一性を強調する場合、彼は反省の可能性について何か言い争おうとしているのではない。彼にとり、反省は可能であると同時に問題的なものでもある。反省において、自己を対象化しようとする現存在の傾向が現われてくる。しかしそうなってくると、現存在に固有の存在の仕方が隠蔽され、ここから哲学にとって中心的な課題が生じてくる。すなわち、ハイデガーが考えているように、哲学として問題化されなければならないのは、現存在における対象化傾向に抗して作業してゆき、実際の損なわれていない自己了解にいたることである。もしそうなれば、哲学とは事実性の解釈学以外の何ものでもない。事実性の解釈学は哲学のもっとも一貫した特徴を有しているのだが、それは、この解釈学が、現に存在するとはどういうことかを先の対象化によることなく、現存在のうちで概念的に把握するからである。

 現存在のうちに存する誤解の可能性を押しのけて自らを貫かねばならない哲学というハイデガーの構想は、一九一九年の最初の戦時下講義にすでに誤解の余地のない情熱を与えている。そこでは非常に印象深い仕方で、また独特の表現であると同時に事柄の厳密さを強調する哲学のスタイルで、現存在が自己を対象化してゆく様が捉えられている。そうした対象化は「体験」とは逆向きの「脱体験Entleben」であり、思考を「理論」と特徴づけることと同じである。これによってハイデガーは、自らの大きな主題の一つを基礎づけた。すなわち、その主題とは〈哲学はいかにして理論の手を借りずに可能であるか〉という問いである。この問いから、「放下」された思想のあり方についての考察や、「存在史」や「形而上学」についての考察がそのうち生まれ出てくる。

 これに対して、二〇年代初期の文脈では、問いはアリストテレスへの関心であることがわかってくる。ここでハイデガーは、理論哲学と実践哲学との区別や、それによって確実となる〈理論的なものに定位することはけっして自明なことではない〉という仮説のための基盤を見出しただけではない。ここでハイデガーはとりわけ、非理論的な理性態の練り上げられた規定をも見出したのであり、事実性の解釈学という自らの思想のために彼はそうした規定に定位することができた。フロネーシスの議論によって、アリストテレスハイデガーにとり現存在の最初の解釈者となるのである。

 アリストテレスに置かれたハイデガーの希望は、なるほど不当である訳ではない。アリストテレスが理解しているように、フロネーシスは単に行為の賢さだけでなく、本質的にみて、固有の生や善き生が問題となる先の理性態でもある。すなわちフロネーシスとは、いかに存在しようとするかという問いの観点で固有の存在の可能性を突き止めることであり、かくしてどんな明解な考察も固有の生によって規定され、その固有の生を規定する。これによってハイデガーはすでに一九二一年/二二年の冬学期講義において、〈ここでは「気遣いながらの照明Erhellen」が問題となっている〉という含蓄のある定式を見出している。しかしながらわけてもフロネーシスのうちで獲得された洞察は、なんといっても遂行真理である。実際、気遣いながらの照明という意味は、獲得された洞察を生きることが問題となっている限り、純粋な遂行意味である。つまりそうした洞察はただ生においてのみ効力を発揮するのであり、その際、その効力に応じて生はフロネーシスと名づけられた理性態の光のうちで完全にその姿をあらわし、気遣いながらの照明という遂行と共に何度も新たに姿をあらわすのである。ここにハイデガーは存在と了解との統一を見出しており、これを事実性の解釈学という定式で示そうとしていたのである。

 

 

3.

 さて、とは言うものの、アリストテレスのフロネーシス概念に関するハイデガーの諸解釈は、一九二四年から二五年の冬学期からのソフィステース講義の最初の部分で詳述されているように、多くのところ一面的である。そもそもハイデガーにとり、アリストテレスにとって本質的であったものは何らの役割も果たしていない。つまり、生の諸可能性の解明や「気遣いながらの照明」はある連関に属していて、[アリストテレスにおいて]そうした連関自体は遂行ではなく、アリストテレスが「エートス」と名づけ、倫理的な徳の議論のうちで差異化した態度の構造や生の刻印である。そうした生の刻印がただ熟慮され理性的に決断されるだけで効果を発揮するとしても、他方でその刻印はフロネーシスの遂行を初めて可能にする。

 ガダマーはすでに『実践知』(一九三〇年)という初期の仕事においてこのことに気づいていた。フロネーシスを倫理的な徳から分析的に分離することは確かに「単なる仮象」であるが、だからといって〈両者が一つである〉ということにはならない。むしろエートスは「分別の具体的な遂行にその対象」や方向を前もって与えてやるのであり、エートスは「本質からして真先に自らについての知によって規定されるのでなく、固有の生の行為や習慣によってまさに規定されるのである」(GW.5, 247)とガダマーはつけ加えている。エートスとフロネーシスは一つのものではなく、一体となっていて、両者に関する考察は結局ここに行き着くのである。このこととハイデガーの言わんとするところを関係づけるなら、じっくり読み込まれたアリストテレスを催促することにだけ関わっている訳ではけっしてない。ガダマーの考察はすでにここでは、ほとんどハイデガーの構想の変形でしかない。そうした考察は別の事実性の解釈学へと導く。

 しなしながら、実際このことは、ハイデガーの定式に対してガダマーが晩年に行った解説においてようやく登場してくる。かくしてガダマーは、事実性の概念で意味されていることを語るために、「思考以前に存在するものUnvordenkliches」についてのシェリングの教説をいったん思い出している。思考以前に存在するものとは「絶えず逃れ、まさにそれが故に常にそこにある」ものに他ならない。事実性によって経験されるのは、生が明白さや確実性にもたらされ得ないうちに「生がそれ自体で経験されるようになること」(GW.10, 64)である。事実性のうちにある生や現存在は、了解する者や意思疎通するものにとっては(それが「了解される」限り)答えざるを得ない、それ以上問うことのできぬ問題である。解釈deutenされ、解釈しながら分節化されるべき意味の諸可能性、すなわち把握されそのつどの生の遂行のうちで現実化されるべき意味の諸可能性はおのずと開かれる。ガダマーはそこから止揚一般を作り出すことなく、事実性の解釈学を対話的な関係へと解釈しなおして、当初以上に徹底的なものにすらしてしまったのである。「気遣いながらの照明」という思想から、単に自己対話の思想、アリストテレス的に解された〈とくと考えてみるMit-sich-zu-Rate-Gehen〉という思想になっただけではない。ここで問題となっていることは、生と生の了解との対話であり、事実性と了解しながらその事実性に答えることとの対話である。

 確かに後のハイデガーにとって、こうした解釈のしなおしは意に反するものではなかったに違いない。加えて、そうした再解釈のうちには多くのハイデガー的なモティーフが息づいている。かくしてガダマーは、『存在と時間』において初めて展開された事実性と実存との区別、被投性と企投との区別を事実性の解釈学のうちに読み込む限り、この解釈学の純粋な遂行意味を差異化してゆく。その際ハイデガーは、〈存在と思考(その他の読み方に従えば聞き取る能力)は「同一」である〉というパルメニデスの命題を癖があると同様に意味深でもある仕方で解釈して、存在と存在解釈とが「一体となっている」という思想を展開した。また結局、問われている存在と答えにおける規定されたその分節化との対話的関係は、フライブルク大学での就任講義から晩年の著作にいたる形而上学ハイデガー的構想において中心的な思想である。とはいえ、そうした対話的関係は類似のもの、親和的なものであって、これらのものにおいては本質的なもの[問われている存在]がいかに別のもの[存在解釈]となったかを欺くことなく見せてくれるのだろう。 

 これはすなわち、気遣いながらの照明の純粋な遂行意味を対話的な構造に細分化する場面ですら、ハイデガーは自らの当初の発想の本質的な動機を保持し続けているということである。ハイデガーが確信しているどの照明も、現存在において支配している、不鮮明なものや暗闇への傾向から無理に引き出されなければならない。真理とは現存在における非真理へと向けられた遂行であり、現存在における非真理を照らし出す生起である。たしかにこうした動機は、哲学一般が有する、断念できないものに属する。プラトンの『国家』の中頃に見られる教養と無知との教訓、いわゆる洞窟の比喩は哲学の権威的でかつ解消されることのないイメージである。しかしながら、ハイデガーにとり運動としてないし生起として考えられた照明は、彼の思考をずっと支配し続けるかたちとなる。そもそも彼にとり真理とは、自明なものと化し、それ故に頑迷な盲目さを思考の解放する力によって突破する場合にのみ、考えられ得るものである。つまり、ハイデガーが晩年思考し、とりわけ『哲学への寄与』のうちで展開したように、盲目さは真理の呼び求める促しEreignisのうちで中断され、かくして現存在においてあらたな始まりが生じる。このようにして、誤れる対象化作用と、イメージや概念や自己主張のうちで見失われる生の塵の山は片づけられ、存在の真理と現存在の真理とが直接現われてくる。細分化や改変がいろいろとあったにもかかわらず、遂行的真理に関するハイデガーの思考の根本モティーフは保持されたままであり、このことは、作用として強調された遂行から、人間を含める真理生起が現われる場面でも同様である。またハイデガーがこうした確信を放棄しないということからしても、隠蔽や対象化は何度も生じるのであり、彼にとって真理は断続的なものとなる。つまり真理は突然のもの、瞬間的なものであって、闇夜を一気に照らし出すが再び闇に落ち込ませる閃光なのである。こうしたことは、ハイデガーの思考に備わる、表現主義的でまさに終末論的な論調をなしている。

 ガダマーの場合にこれと同じことが欠けているとすれば、それはニュアンス上の理由だけでなく、最終的に何か他の気質の問題でもなく、好んで引かれる「都会化」(それはハイデガーの誤解された田舎根性より優れた別のものにみせる)とも何の関係もない。それはあたかも哲学者の服の選り好みがその思考と何か関係しているかのようであり、また技術時代の科学的な現代に対してそれを貶めるようなことを言おうとしている者が、農村地方を看過しないでいるかのようでもある。ハイデガーとガダマー両者の関係で決定的なのはむしろ、ガダマーが照明と暗闇、明解なものと明解でないものとの関係を、真理と非真理との関係とはまったく別物であると理解していることである。その際ガダマーの考察は、〈照明は単に明解でないものやその中断の呼び求めEreignisに対する闘争であるだけでなく、常に暗闇を生じさせ続けるものでなければならない(またそれは、人が単に次の照明を待っているようにして暗闇を生じさせるものですらない)〉という思想に集約する。明解化は常に可能ではあるが、それは、そのつどの明解化の遂行を認めながらもつねにその明解化を逃れてしまうような領域に限られる。ヘラクレイトスにとってはデルフォイの神がそうであったように、領域はまさに[人に対して]照明したり隠したりするのではなく、理解させるのである。〈言語的なものはすべて、言表されるものを越えて指し示す〉とガダマーはかつて語っている。これは『真理と方法』の綱領的な命題である「了解され得る存在は言語である」(GW.2, 334)の意味である。

 どんな言語表現も一時的なものであることを示唆すれば、恐らくすぐにわかりやすい。人が言うことは、いつもまた別の言い方で、恐らくはよりうまく言い直される。何かを規定的な仕方で強調するには、その他の側面を度外視しなければならない。どんな明解化の試みも自らの可能性のせいで限定される。どれだけ言葉をつくしても汲み尽し得ないからこそ、会話が存在し、表面的でありふれた見方をすればもはや周知の事柄でも、そのバリエーションを人それぞれに享受することができる。もしくはガダマーの言葉を借りるなら「言語化されたものは意図された意味によって単に固定化されるだけでなく、何かと関わり合い、誰かと関わり合おうとする絶えず変化する試み、絶えず繰り返される挑戦である」(GW.2, 335)。了解を目指す会話ならどんなものも、ガダマーが言語に認めたように、会話そのものからではなくその汲み尽し得なさから生じる豊かさによって生きている。

 とはいえ、ここで言語とは何だろうか。最初の答えとしては、アリストテレス倫理学に関するガダマーの考察が再度考えられるだろう。生を特徴づけるものとしてのエートスが行為の際立った解明をフロネーシスのうちで生じさせるように、「言語」とは、了解を目指す話に備わる[何かを]生じさせる連関である。このように言語として了解された存在は、生活形式の存在である。そうした生活形式とは了解能力の限られた開放性であって、もし人が他者と意思疎通しようとするならこれに関わらざるを得ず、またこの開放性がなければ他者の生活形式も了解されない。翻訳関係は[開放性である]生活形式どうしの間でのみ可能なのである。

 この種の生活形式は、歴史的に伝統として規定可能である。かくして生活形式は、それが実際に機能する際に生き生きとしたものになる。ということはつまり、特定の観点の下で何度もその生活形式の自明性が失われ、わかりやすい形での了解が求められるということである。自明ではないが本来的に異質となったものは、[われわれに]何かをほのめかしていて、結果的にそれはあらたに分節化され、自分固有の生活形式の可能性として了解され得るようになる。

 ガダマーが伝統に備わるこうした固有の作用を『真理と方法』のうちで影響作用史として記述する場合、それは彼の意味で言うところの事実性の解釈学への寄与である。なるほど、影響作用史の発想はまだ運動概念において考えられている。だが、純粋な遂行真理の位置には、伝承生起と実際の了解との対話的一体性が登場している。伝承されるものがもはや自明なものではなく、ほのめかされるところでは、現在の了解に備わる自分固有の地平は伝統の地平を捨て去っており、了解が成功した暁にその伝統の地平と再び「融合」することになる。伝統は自らの自明性を失って、[その伝統の]ある断片が主題化され、「対象化」されることによってまさに、伝統は自らを強化するのである。

 しかしながら、ほのめかされることになる事実性とそれに応答する了解との相違が初めて現実に現われるのは、言語という事実的な存在が形態をとり、生起に対して自立的な現前となる場合である。「卓越した」ものであるようなテクストの場合に、人が関わるのはまさにこの形態・現前である。『テクストと解釈』というこれに関連する著作においてガダマーが述べているように、卓越したテクストは「自己現前」によって特徴づけられる。解説される通り、卓越したテクストにおいて言葉は「言われたことを現前させるだけでなく、自分自身をもそこで現われる反響効果のうちに置く」(GW.2, 352)。テクストが卓越したものになるのは、単にテクストがその場限りの話を固定化することに役立つからだけでなく、「規範的な要求を掲げてあらゆる了解に立ちつくし、何を語らせるにせよ」その前途に横たわっているからである。つまりそうした仕方でテクストは、「いつも自らに立ち返ることによって初めて本来的なものとして存在する」(GW.2, 351)。こうしたことは例えば朗読や、テクストを黙ってじっくり読む読解において当てはまる。その際、読解や朗読は自らがその効果を現実化させるテクストの遊動空間のうちに絶えずとどまるが、そうした遊動空間はまたそれ固有の仕方で逃れ去りもする。つまり、そうした遊動空間の豊かさにおいては、いつか別の時には異なる線引きのうちで保持されることになる意味の諸可能性が埋蔵されているのである。

 ここでガダマーが卓越したテクストの「反響効果」を指しているとすれば、その際、明らかなのは、ガダマーがそこで詩作、もっと言えば叙事詩さえも考えているということである。それは納得のゆくことでもある。言語が発揮できる固有の存在感は、その音においてのみ現われる。またガダマーが言わんとするように、それゆえに詩作はその朗読においてのみ「本来的にそこに」存在しもする。反響効果や言語上の身振りが重要でなくなればなくなるほど、テクストは「中間物」となるか、単なる「意思疎通の生起における一段階」(GW.2, 341)となり、こうした中間物や一段階は、意思疎通を目指す会話の生き生きとした遂行意味のうちで取り戻そうとする場合にのみ、意識を集中させることができる。いずれにせよ、「それ自体としては言われたことの固定化された単純な意味内容を越えるコミュニケーション上の制約にテクスト理解が依存し続ける限り」(GW.2, 342)、ガダマーはこうした考察を取りまとめることが可能である。テクストの存在感という性格が弱くなるところでは、テクストは了解し意思疎通を図る読解に対してその事実性を目に見えて失ってゆく。

 

 

4.

 とはいえこれは本当だろうか。ニーチェの遺稿メモ、ウィトゲンシュタインのメモや、ソクラテス以前の思想家によってわれわれに残された断章のようなテクスト、また未だ編纂されておらず汚損したままのテクストも、やはり人がそうしたテクストに立ち戻らねばならず、「立ち戻ることではじめて本来的にそこにあり」得るような仕方で存在しており、それはテクストをそのつど汲み尽くしてしまうことなく関わり合うことができる思考の遊動空間として存在するのである。ここでは事実性は反響効果として現われていないが、〈答えねばならないものや読解と思考のうちでいつもすでに答えられてしまっている何かがほのめかされている〉という経験が、読み思考する中で行われている。

 もしこのことが説得的なら、さらに付け加えられるべきことは、〈テクストの固有の現前は文献として「自己現前」することでなるほど特に明解かつ印象的な仕方で実現するかもしれないが、そうした自己現前の仕方で存立するものであってはならないのではないか〉ということである。テクストは、意思疎通の生起をまず実現しそれを担ってゆく比喩表現や造語、その概念やイメージのうちにおいて現前し得る。これらは、その意思疎通の生起に自らの地平を与え、それゆえにけっしてその意思疎通の生起のうちには解消され得ない。またその際、事実性の解釈学の定式は、現前と遂行意味の共遊動へと目を向けることとして最終的に示されるだろう。そうした共遊動の下では、テクストの現前は、そこに属し、常にあらたに応答しまた時間のうちで遂行される了解による、ほのめかしの遊動空間であるだろう。事実性の解釈学において、存在の共属関係は現前と時間として働いている。分節化されたものはすべて違った風にも言われることができ、採られた方法はどれも一つの可能な方法に過ぎないという経験は、了解の下ではいつも遅れている。次回には、テクストは別様に読まれるだろうし、その了解はもはや今日のようには分節化されまい。いま既にそこにあるが、もはやテクストの朗読や「自己現前」の意味で現実に存在しているのでない何かが留保されている。「反響効果」を指摘することでガダマーは、事実性という思考以前に存在するものを再び遂行意味と同化させようとしがちである。

 他方でガダマーの「卓越したテクスト」に関する考察は、思考以前に存在する現前の復権のうちで考えられていた。すなわち、〈卓越したテクストは、いまや疑わしくなった形而上学的ドグマとしての現前思想に対する疑念が空虚化することを告げ知らせる前兆なのだ。文芸がとりわけ印象的に経験されるとしても、現前は手元にあるものの現在や客観化可能な現実をなんら意味するのではなく、むしろ「指し示し」を意味しているのだ〉と。言語と文献は「存在するのではなく、意味しているのであり、このことは意味されたものが表に現われている言葉以外のどこにも存在しない場合でも当てはまる」(GW.2, 356)とガダマーは語っている。ここで問題となっているのは(これは補完されねばならないように)、言葉の現われではなく、言葉がもつ開示し、了解可能性を開拓する性格である。了解され得る存在は言語であるところでは、この存在に適する現前はいつも事実性という性格をとる。つまり、そうした現前は「思考以前に存在するもの」である。そうした現前の現象諸形式を把握しようとする者は、それらを了解の遊動空間や誘因として捉えなければ、何も手元に残らない。