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un coin quelconque de ce qui est

ドイツ・フランスの解釈学・美学関連の論文を翻訳・紹介

ラインハルト・コゼレック「政治による死者礼拝」(1994)

 [以下は Reinhart Koselleck, Der Politische Totenkult. Kreigsdenkmäler in der Moderne (hrsg. von Reinhart Koselleck, Michael Jeismann, München 1994: Wilhelm Fink Verlag.) に収録されたコゼレックによる序論部分の試訳]

 

 

序論

 

 死者たちを偲ぶことは人間の文化に属することである。戦没者を偲ぶこと、暴力によって命を落とした人、戦闘、内乱や戦争で死んだ人々を偲ぶことは、政治的文化に属している。死闘、とりわけその勝利を記憶することは、以前の歴史を書きとめ、それを絵画のように持続させる最初の動機の一つである。標識や銘文を含めた記念碑は聖化された場であり、参事会とその子孫たちはこの場を記憶において死者たちを再び見出すのに役立てる。そのかぎりで政治による死者礼拝については、人類学によって名づけられるべき前提作業であって、その歴史が想像可能となることはない。

 政治と宗教が時代の流れのなかでお互いをどれほど様々な仕方で分類しようとも、暴力による死者たちをつねに必要に応じて正当化する点で、両者は一致している。多神教的、一神教的、理神論的、汎神論的もしくは無神論的に機能しようとも、暴力によってもたらされた死は、行動統一のために(それらが生き残ったかぎりで)その自己構成の宗教的要素を含んでいた。暴力による死、「犠牲者」は、生き残り、解放、勝利または救済の担保であった。そうした所見は様々な変形を経てなお、世紀を超えて保持されている。

 それゆえ、政治的な死碑の形態堆積や図像が歴史的出来事にかかわりなく、時代を貫いてわれわれの世紀に入るまで比較的安定しているということは疑いないことである。たしかに様式状況や図像的前提が違っていても、勝っている戦争、もしくは瀕死の戦争は何度でも起こり、救いの手を差し伸べる神や天使もしくは聖人があいかわらず呼び出され、そのようにして様々な役割を担った女性や十字架が設けられ、神話を背負った動物が象徴化もしくはアレゴリー化され、武器が永遠化され、ピラミッドからオベリスク、凱旋門にいたるまでの建築上の意図、つまり記念碑、礼拝堂や記念館が何度も姿を現わしてくる。旧約・新約聖書もしくは古典作家の苦痛を語る常套句や引用が世紀を超えて再び持ち出される。

 図像的記号は蓄積する。通時的に見るなら、まず異教的にのみ、次いでキリスト教的にのみ把握されるものは、近代以降になると別々に呼び出されるか、もしくは(かつてすでにそうであったように)互いに混ざり合っている。スパルタやアテネ、もしくはローマの民兵が呼び出されるし、また父の国のために亡くなった兵士への救済の約束が視覚化されたりもする。啓蒙主義以降に〈あらたな異教〉[近代の非キリスト教的な教義や無宗教的立場などの総称]があふれ出てくるにもかかわらず、古代キリスト教的に混合された政治的死碑は、驚くべきほどに不変であり続けている。

 近代の政治による死者礼拝はヨーロッパ共同体的な背景をもっており、そうした背景から国際的もしくはある集団に特有なかたちで多様なバリエーションや組み合わせが呼び出され、それらはその間に地球全体に拡大した。死碑の意図は国際的であり、その政治的意味設定はそのつどナショナルな仕方で現われてくる。政治による死者礼拝の逆説とは、〈その記号と機能は同一であるか類比的に読解可能であるが、逆にそのつどの行動統一に対するメッセージは限定性を要求する〉ということである。内と外、上と下との間は、部分的には明確に、いつもは暗示的に異なっている。敵もしくは敗者はフェードアウトするか、もしくはモニュメントに姿を現わすとしても、下もしくは外の方へと視覚的に退くよう促される。構造的な共通性は、ナショナルな個別性よりも広く認識することができる。

 このことから方法論的な帰結が生じる。一度見出されたどのような形式も、そうした形式が生じた、また生じざるを得なかった社会的で政治的な状況の上に示される。だが形式そのものは反復されたり、差し戻され、それに呼応するようにしてその当初のところを越えていくよう促す。別の言い方をするなら、記念碑の図像や美的形象は、全体としてその状況における成立条件には帰されない。そうした図像や形象はその独自の歴史をもっていて、これらを反復することは、出来事の経過(その結果は記念碑によって永遠に固定化されることになる)の時間的リズムとは別のリズムを含んでいる。問題設定に応じて、芸術史と社会史とは互いへと還元し合うが、そうであるのは両歴史が区別され異なっていなければならないからにすぎない。

 記念碑のどの自己表現も境界を設定しており、その境界の内部で自らの受容が開かれる。この限界は任意に拡大可能ではない。記念碑のメッセージは儀式によって反復されるか、もしくは記念碑は(ありうる話であるかぎり)転用されたり、崩落したり、忘却されたりする。記念碑が保持している記憶の感覚的な痕跡とその受容の途ゆきは、今後にわたってぶつかり合う。観察者が記念碑の内容を受け取る準備は、政治的に(また宗教的に)負荷がかかっているか、そうした負荷が消滅している状態にある。負荷が消滅している場合、記念碑は自らを強調できない。記念碑の自己表現に基づいてこの状態を元に戻すのは、その美的価値である。また周知の通り美的価値は、以前に前もって与えられた政治・社会的な自らの起源を持続させることができる。それゆえ、一度見出され、感覚的に形づくられた動機は引用可能であり続ける。当のガリア人はとっくの昔に死んでいるというのに、「瀕死のガリア人」は何度でも現われる。暴力によって死ぬ人はこれから何人も出てくるが、そうした人々を記憶する形式は限られている。

 本書は、近世Neuzeitの政治による死者礼拝にかかわる。フランス革命以降ようやく、啓蒙主義の著作によって準備されることで、戦争や内乱での暴力による個々の死を記憶するおびたたしい数の記念碑が存在するようになる。美学的な前提作業は比較的古く、そうした作業は歴史学的にのみ多様化されるのであって、革新は縞模様にのみ現われ、根底を揺るがすような変化は第二次大戦以降になってようやく認められる。明らかに革命期以前の時代へと遡及的に結びつけられるものが見出されるのは、オーストリアに関する寄稿論文においてであり、記念碑化という方法によって歴史的な過去完了を明示的に改訂解釈することは、スイス関する寄稿論文のうちに示される。こうしたたぐいの適応や変形はすべての論文において暗示的に扱われている。探究は通時的な仕方で数世紀にまで及んだり、ただ数十年のみを捉えたり、わずか数年にのみ集中していたりする。これに対応して一連の記念碑が探究されたり、いくつかのものだけが選別されたり、もしくはたった一つの記念碑だけが主題化されたりする。それゆえ選択された被写界深度[写真用語。ピントを合わせることができる距離]にしたがって別の問いが立てられたり、さらに方法も変更されたりする。

 方法上、把握の仕方は変わってくる。あるものはまず社会史的で、記念碑にその意味を設定しようとする社会的条件や政治的意図に集中する。また別の把握の仕方は意味論的であり、銘文や語りの表現力を分析する。さらに別の把握の仕方はまずもって芸術史的であり、全施設の図面世界や個々の記念碑を感覚的、美学的に囲い込むことになるはずの自己表現に着目する。しばしば明らかなことであるが、諸々の方法は同時に追及され、互いを補完し合う。議論の成果がそれぞれの論文に立ち入る場合であれ、どの寄稿論文も個々の作業を代表してそれを補っている。

 空間的にみて、たいていの作業はドイツとフランスに集中している。ドイツの諸地域、プロイセンオーストリアの記念碑が語られるが、またスイスの記念碑も語られる。フランスの記念碑やドイツ・フランス国境地帯の記念碑が語られる。こうしたヨーロッパ内のテーマは、アメリカ合衆国ソビエト社会主義人民共和国連邦のそれぞれ二つの探究によって擁護されたり、対照されたりする。残念ながらベルナルト・S・コーンは、議論されもしたインドとオーストラリアについての重要な寄稿論文を仕上げることができなかった。

 寄稿論文のすべては多層的に読まれ得るし、またそう読まれるべきであろう。そうすることによってのみ、共通性およびナショナルで階層に特有の個別性が見えてくるのである。そのためにも若干の示唆を与えておこう。

 ほとんどの記念碑にとっても、機能的に同価値なものが他国において見出される。そのさい、経験的な一回性にかかわりなく、構造的な同一性が明らかになる。ほとんどの記念碑も(一貫した)メルクマールをもっている。それは、戦争もしくは内乱においてであれ、暴力によって亡くなった人が自らの祖国(この祖国が共和国、国民国家、国家、故郷、帝国もしくはそれ以外と名づけられようとも)の統一のために命を投げ出したというメルクマールである。そのさい、身分的、宗派的、地域的な特殊性は、同じように強力で同じように根源的な動機作用を有しえる。こうした特殊性は、ドイツ、オーストリア、スイスやアメリカ合衆国におけるような、とりわけ連邦制国家においてさらに作用しているが、ソビエト連邦の従来の諸国ではほとんどそのようなことはない。

 銘文、とりわけ聖別文言の支配的意図は、それが誰を呼び出そうとも、連続性を保証もしくは設定し不和を避けるための統一である。近代の政治による死者礼拝の新しさは、〈行動統一を正当化するのが暴力による死である〉というところに成立している。後にナポレオンが撤去した、死亡した革命兵士のための最初のピラミッドによって最初の敵も確定していた。それは君主であり、君主制と共に聖ドニの時まで大切にされてきたような王朝的死者礼拝である。聖ドニのための墓は撤去されたが、その墓標は(今となっては美的なものとして価値があり、博物館の宝物であるが)共和国の庇護のもとに引き取られたのであった。政治による死者礼拝は、チュイルリー宮襲撃の際に死亡した革命家たちのために立てられた木製のオベリスクへと代わっていった。また数多くの他の礼拝所が革命の加速度化した変化のうちに追従していった。しかし政治による死者礼拝は、記念の地を変化させるのみならず、自分自身がその内実において変化し、あたらしいメッセージを定式化し、それによって革命[という出来事]を越えて長期にわたってあたらしい内容を確固なものとしたのである。

 王朝的な死者礼拝は侯国の持続を正当化するために、暴力による死を要求することはなかった。諸侯の相続開始[法律用語。被相続人の死亡した時から]によって、どれほど多くのそして血なまぐさい戦争を引き起こしたとしても、ヨーロッパすべての首都の儀礼において大切にされてきたような死者礼拝は、相続開始ではなく王位継承のために行なわれたのである。このことは、王朝の戦争における大量の死者を忘れないようにしている点で、イデオロギー批判的には相対化されるかもしれない。とはいえ、近代への展開はある構造的な変化をしるしづけている。死それ自体が王位継承の場合のように、あたらしい生を示すのみならず、いまや政治による行動統一を正当化するために担保として役に立つのが暴力による死なのである。総動員によって始まった一般兵役義務以来、死亡者一人一人の名前が記憶に値するものとなり、世界大戦以降は、女性や子供の名前がつけ加わる。全員が自らの命でもって国家や民族のことに責任を持たねばならず、そうした国家や民族の自己同一性は全員の命で保証されるのであり、記念碑のメッセージはこのように述べて、それが儀礼にのっとって大切にされるかぎり、そう経験されるのである。あらゆる政体を通じて、一七八九年以降、政体が誰に管理されていようとも、その他の(王政主義的、大衆主義的、民族主義的、帝国主義的な)確立作業が尽くされようとも、民主主義的な趨勢が進行する。死における同等性、つまり死ぬ準備を整え、これまでにも生がその命を捧げてきたこの同一の要件に責任をもつことが、生者によっても要求されるのである。こうした死者礼拝は、ヨーロッパにおいて支配王朝の死者礼拝にゆっくりと入り込み、まずはこれに付き添っていって最終的にはこれを完全に取り払ってしまうのである。

 一七九二年、プロイセン王は、勝利したヘッセン人たちのために、将校や兵士達の名を(やはり階級順に整理して)同等な仕方で記憶する記念碑を初めてフランクフルトに建設した。これまでは散在的にすぎず、中世の円熟期以降から始まるとされた都市市民の習慣がこれによって国有化されたのである。陸軍元帥がただ私的に建設したにすぎないものだが、これに呼応するような銘文が一八一二年にハプスブルクの記念碑において見出される。それは「オーストリア君主国の素晴らしき民族に捧げる」(マッシュ=ヴィヒト論文)という文句だが、ここにある「民族Völker」は当時の言語使用に基づいて軍隊に編入されていたのであった。これらは記念碑として機能している。アンドレアス・ホーファー[1809年のティロル解放戦争における農民解放軍の英雄]は、インスブリュックの宮廷附属教会において、ハプスブルクの統治者たちのとなりに自らの墓標を見出したが、このことはメッテルニヒの時代においてさえ忌避されることはなかった。一八三八年にはティロルの諸領邦によって、「感謝すべき祖国」を君主にではなく、解放戦争のうちに死亡した息子たちに捧げる記念碑がつけ加えられた。

 パリとブリュッセルで、崩壊ではなく勝利によって勝ち取った君主制の変更を記憶し、立憲国家のために戦って死亡した革命家たちを埋葬するあの円形記念碑が作られたのがこれと同時代である。同一の構造的な変化が、ドイツとイタリアの統一戦争の数多くの記念碑によって証言されている。そうした記念碑は、王室の諸侯に対抗するメッセージのなかで死亡者たちを記憶するべく共同体や同盟や団体によって建設されたのであって、一八一三年にはまだプロイセン王が命じていたようにもはや君主自身によって建設されたのではない。これによって君主主義者による銘文もその身分を変化させ、今日のイングランドにおいてはまだ数多くの記念碑が「王と祖国のために」捧げられているにもかかわらず「非民主主義的」にはならない仕方で、自ら「民族」の君主制であることを告げ知らせている。またドイツ帝国において、市民の設立者がますます活動的になり、世界大戦前後に民族戦争記念碑が雨でぬれた折に、皇帝は腹を立てつつも自制したのである。市民によって創設され演説者によって民族主義的な音調を与えられながら、モニュメントはその鈍く、威嚇的で、建設としては近代的な自己表現から、民族全体の死の準備を誓言する。このようにしてモニュメントはヴィルヘルム二世を想定してはいなかった(ホフマン論文)

 馬に乗る人の記念碑の社会的拡大も、これと同一の成り行きを示している。当初は君主にのみ保留されていたが、一九世紀の過程で将軍たちにも、市民出身の将軍ですら記念碑の馬に乗ることが許されている。一九一八年以後、記念碑の馬は兵卒の者にも用いられた。確かにそうした記念碑は散発的なものではあるが、それらは二〇世紀において完全に消滅してしまった決闘を記憶している。二つの世界大戦以降こうした記念碑の機能的等価物は、(無人のまま)記念碑の機能を果たしている勝利の戦車や国旗のうちに見出される。

 君主制の崩壊によっては、図像的または意味論的に以前から分節化されていたものが実現したにすぎなかった。最初は革命的な市民戦争において、次いで民族戦争において「民族Volk」は擬人化した君主にまで昇格し、その名の下で戦争が行なわれ、人が死んでいったのである。ウォロシロー[スターリン期の将軍]の発言に、「一般に言われるように、われわれにおいて事情は[資本主義諸国においてとは]別様であった。民族は好んで犠牲者をもたらすが、それは犠牲者とはちょうど民族のことだからである」。この発言は、一九二七年ソ連ボルシェヴィキの実りある戦いを組織していたトロツキーに対して向けられていた。トロツキーは、資本家の奴隷であると暴露されることになる。

 意味論的に同文のまま、ウォロシローの言葉は当時のあらゆる記念碑の上に、どの国家においても再発見される。どの付加的な規定もやはり、故郷のため、正義のため、人間性のため、自由のために死ぬと宣言したがること、つまり民族のため、国家のため、祖国のために死ぬという民主主義の根本規定は、すべてのメッセージに共通のことであった。このメッセージに呼応するのが、おびただしい数の機能的同一物である。これについて証言しているのは、メッツの国境地帯にあるドイツとフランスの類似した記念碑であるが(マース論文)、またこのことについては半世紀を要した大規模な建築物が証言してくれる。ライプチッヒ民族戦争記念碑の円形地下聖堂(ホフマン論文)や、スターリングラードの円形奉納館(アーノルト論文)は、西から突如現われた侵入者を消滅させたかの英雄のことを同じような仕方で記憶している。その英雄的な死の準備は、永遠化されることになった。ナショナルで、イデオロギー的で、社会的で美学的な相違がどれほどの数あったとしても、正当性の核心は民主主義的に様式化される。死者たちはドイツ民族の英雄であり、ソビエト民衆の英雄なのである。

 明らかにそれぞれの国の実際の体制は、美的に媒介された同一化要請に吸収されることはない。とはいうものの、上で述べたこれらの記念碑はそこに内在する内容を保持しており、それは余すところなくイデオロギー化され得るものではない。ここで考えられているのは死者であり、たとえ死者が政治的に感じ取られるか独占されることになろうとも、死んだ者として記念碑のイデオロギー化を妨害するのは死者である。「民族」のための死を、さらには「民族の支配」を正当化するべく意味論的かつ図像的に投入されるのは、死という越えることのできない最終審である。どの死も定義上、民族の一部である以上、[死と民族との]この問うべき等置はさまざまな仕掛けを伴いながらなされる。

 このことは、構造的共通性の第二点目に導く。たとえ共和国のため、帝国のため、「王と祖国」のためもしくは「皇帝と帝国」のため、国家のため、民族のため、フランスやドイツといった具体的に名前をつけられた国々のために死ぬのであれ、思い出のうちにしまっておかれることになるのは、個々人の死だけである。ここには世俗化の真正の場面がある。個々の魂をいわゆる彼岸において救済することへのキリスト教的願望は、個々の死んだ人の一人一人を記憶しようとする政治的共同体の手に委ねられる。彼岸願望は政治的行動共同体の未来願望へと移行し、永遠の約束が時間化される。ヨルク伯は、ナポレオンとの戦いにおいてどのような死者も無駄死になって欲しくないという希望を(おそらく初めて)表明した際に、多分このことに気づいていた。個々人の魂の幸・不幸を見分ける最後の審判は、政治的行動共同体が独自に思い通りにできるようになる。誰も無駄に死ぬことは許されず、個々人のことが記憶されねばならない。魂の幸せを与えたまえと望む教会のミサにかつて委ねられていたものは、政治による死者礼拝という現世の課題となったのである。個々人の暴力による死が民族全体の政治的息災を将来にわたって保証する限りで、そうした死のうちにはすでにその正当化が控えている。そしてそれゆえに、個々人の暴力による死のことが記憶されねばならないのである。

 こうした構造的変化は、自ら持続しつつ変化する政体形式を貫いて、すべての国家を捉えている。誰かが国家の未来に責任を持たねばならず、それゆえにその名をもって記念碑にも現われねばならないということは、フランス革命よってある時生じた最低限の合意である。この合意の主要な特徴は、政治的日常用語における特徴づけという揺らぐ市場価値とはかかわりなく、「共和国的」ないし「民主主義的」である。死亡者の名前は、まずやはり軍の命令で死亡したものの順に階層的に順序づけられ、第一次大戦以降(連隊記念碑は除外して)アルファベット順または死亡年月日に従ってそれぞれ同列に置かれるようになる。その何百万人もの死者を算定する行政執行上の不能があったにせよ、また実際の「英雄」のことだけを記憶する厳格なスターリン主義的選択基準があったにせよ、ただロシアないしソ連だけは完全にはこうしたやり方にしたがうことはなかった。

 固有名の権利に対して現われたのは、固有の墓の権利であった。固有名と固有の墓の双方を世話することは、まず対メキシコ戦争の際にアメリカ合衆国によって法制化され、一八七一年のフランクフルトの和議でもって国際規範となった。こうした固有名と固有の墓の世話は西欧ではあらゆる破局的状態を超えて遵守されたが、それに対して東欧では、ドイツ人によって引き起こされた全面的な戦争遂行の結果、実現不可能なままであった。何百万人ものロシア人がいまだ自分自身の墓に埋葬されていない。ドイツ人の遺体には受領書が与えられた。

 このことは、記念碑の構造的共通性の第三の観点に導く。まさに無名で、行方不明で、消息不明の兵士たちも記憶される。この記憶の要請も、「すべての者のために」自らの命をなげうった者は誰も忘却しまいとする民主主義による根本決定の帰結のうちにある。まさに「無名兵士」の名前が記念碑に見いだされねばならないということは、すでに一七九二年の時点でフランス共和国による要請である。この要請は平等が狙いである。どんな将軍であれ一兵士であり、どんな兵士であれ将軍である。兵士は匿名の大衆から浮かび上がってきて、義務と責任ある者にさえされるようになる。しかし国民軍(Volksheer)の拡大に伴って、戦争においては行方不明の者の数もまた増大した。死亡した兵士は、再び無名の者へと消滅していった。バイエルン王は、ロシアに駐留するおよそ三万人のバイエルン人(彼らは一八一三年以降優勢となったイデオロギー的基準にしたがって、誤った陣営の側で命を落としたにもかかわらず)に、彼らのための記念碑をまだ平気で設置することができたのだった。 

 足りない墓、消えた遺体は、最終的に生き残った者すべてに適切な記念の地を建設するよう要求し、そうした要求がなされればなされるほど、生き残った者は政治的行動統一(これのためにそこに帰属する者や友人や同胞が死ぬ)と同一化する。とりわけこのことは、アメリカの市民戦争において、行方不明のままになっている、うなぎ登りに跳ね上がった数の者たちに対して当てはまる。このような者たちのために、彼らの死者記念碑が建てられ、献辞と共にボルティモアにおけるような「南部連合の不明の死者」のことが、またアーリントンにおける無名の死者のように「殉教者の高貴な軍」のことが記憶されるのである。

 第一次大戦における技術を用いた大量殺戮以降、全滅してしまいもはや同定不可能もしくは完全に消滅してしまった遺体の数や、何とか自らの墓を見出すことのできたものの数が物量戦の多くの場面で超過するようになる。合葬墓、「同胞墓」(「兄弟墓」についてはケンパー論文を見よ)は独自の記念碑になった。そして完全に消滅してしまった者は、自分のために特別につくられた巨大モニュメントをもつことになり、いまやその上に自分の名前を記載することができる。これは、消滅してしまったそれぞれの者を個々に(統計で何十万もの)忘却からふりほどくための苦心の策である。実際、たとえばナヴァリンやティープヴァルの巨大記念碑は無名の大量の死者のための礼拝地となった。いまやその中央記念館はこうしたことを証言している。

 名もなく、同定不可能で、知られていない兵士は象徴的人物となり、そうした人物において国民全体の記憶が統合されるようになった。イングランドでは、「無名戦士」(こうした古色蒼然とした概念はすべての兵種を覆っていた)が自らの休息の場をウェストミンスター寺院に見出した。無名戦士は、これまで貴族、市民、よき社会の政治的、学問的、文学的、芸術的偉人たちが眠っているかの奉納館に踏み入ることができたのである。それは、同じように外と下からの民主主義化の作用であった。

 フランスにおける共和国陣営とカトリック陣営との間の激化した党派争いについては、アッカーマンが報告している。無名の兵士が共和国だけを代表しているのか、それともフランス全土を代表しているのかは「愛国的」に答えられた。兵士は教会の外に、つまり凱旋門の下に自らの場を見出したが、その一方でその火葬は、以前から右傾化した退役軍人協会により後になってようやくつけ加えて行なわれた。どのみち、民主主義的な最低限の合意はフランス国民に向けられていた。類比的な仕方で、海外と同様、ほとんどすべてのヨーロッパの主要都市では無名兵士の墓標が模倣され、政治による死者礼拝の中心地となったのである。

 フランスの同一化命令がその限界にぶつかるのは、アルザス・ロレーヌにおいてである。戦争がどのような仕方ではじまったにせよ、アルザス・ロレーヌの人々は勝利の側にあり続けた。しかしそれゆえに故郷をめぐる彼らの戦いは、独立派が説明するようにむなしいものであった。彼らは約5万人もの死亡者のために、一九三八年、大山に顕彰記念碑を建立し、これを「もっとも無名であった兵士たち」に捧げた。「もっとも無名であった」とは、どんな国民にも同化しようとしなかった者たちの悲痛な思いを表す最上級の形容詞である。これに対応して、彼らの共同記念碑は、キリスト教的象徴系へと退避していった。

 しかしドイツにおいても、国家民主主義的(もしくは民族的)な同一化命令はその限界にぶつかる。ドイツでは、イデオロギー的な保護主張をして無名兵士の墓標を建立することすらなかった。それは、そうした墓標が西欧的発明であるからといっても、実際のところは帝国の連邦制構造が多数の競合する記念地を認めていたからにすぎない。プロイセンの「シンケルの衛兵所」はヒトラーの下ではじめて帝国顕彰記念館となった。しかし儀礼上の同一化命令を問いに付すのは連邦制の前もっての決まりにすぎず、もし市民記念碑を建設するなら事態はもっと動揺することになる。これらの市民記念碑は党の勝利、勝者の党を格別に称賛しているが、他方で反対した側の死者は不法者の方へ移される。ナポレオンは、マドレーヌ寺院において自らの軍の死者礼拝を演出すべく、諸々の革命記念碑を除去した。ナポレオンはもはや敗北者をその死者礼拝には加えなかった。これと同じ経過は、通時的にみて後に生ずることではあるが、構造的に類比的な仕方でドイツ史において繰り返されている。

 兵士の記念碑が(たしかにそれらは相変わらず地域的もしくは宗派的に行なわれ限界づけられる)優勢となるが、シュペーアの企図に従って、大ドイツ軍の死亡者すべてを名前を挙げて取り込むはずだった巨大な半円筒ヴォールトはその完成前に消滅した。

 たしかに、すべての戦争記念碑は、 (かつての)敵に対して自ら境界線を引くものであるにせよ、まず外敵に基づいてつねに内政的な機能をも有している。国家、地方公共団体、地域のものであれ、軍もしくは他の協会のものであれ、そのつど設立者の意向にしたがってさまざまな選好が内政的統一もしくは社会的一体性を訴訟請求するべく設定される。勝利を得た市民派の記念碑が建設される場合、そうした設立者のプログラムはさらに困難なものとなる。この場合、内部からの排除基準が目指される。これによって設立者は以前にまして真性たることの証明圧力の下におかれるとはいえ、被征服者を排除すると同時に取り込まねばならない。だから聖十字架に付属するフランコの巨大施設[スペイン内乱の後にマドリード州に建設された「戦没者の谷」のこと]は、市民戦争における両陣営の戦死者(したがってすべての共和国派も)を国家教会によって記念すべきである。

 長い前史を示した後で、プロイセンの「国家戦争記念碑」が一八四八年に制圧された民主主義者たちの挑戦を一八五四年になってベルリンでどのようにして取り入れようとしたかをヘットリンクが示している。義務を意識した軍隊という国のこの中核を経由してのみ、市民は(兵士として)自らの国に統合されるのだ、と統一できると思い込んでいるメッセージは述べている。統一戦争の戦勝記念碑について言えば、プロイセンの国民戦争記念碑は一八四八年には忘れ去られ、一九四五年以降にようやく軍事的なものとして撤去されるのである。逆に、市民戦争の戦死者の墓地であり、これまで「消極的抵抗」のシンボルであったフリードリッヒの森は、過去に制圧された者にとっての中心的な記念の地に昇格したのであった。

 死亡したか殺されたりした市民戦争の敵が記念碑礼拝に取り込まれるのに先立って、常に求められるのは政治的な情勢変化である。フィンランドで「赤軍派」は、一九四五年以降になってはじめて記念碑に祭られるようになったし、スイスでは[内乱より]半世紀後になってようやく、スペイン内乱において共和国陣営側で死亡した義勇兵のために記念碑を建設することが許された(スライス論文)。しかし、一八四八年に大量に虐殺された革命家たちの数がドイツにおける犠牲者の数をはるかに上回ったフランスにおいては、そもそも記念の地など成立することはなかった。ナポレオン二世と同様に第二共和国は、そうした記念の地をつくらせなかったのである。また一八七一年を生き延びたパリ・コミューンの参加者のために、ペール=ラシューズ墓地の外壁にレリーフを刻み込むことが可能になったのは、ようやく一九世紀から二〇世紀への変わり目になって以降のことであった。それは大量処刑を、見たところ注意深くまた穏やかに、だがそれだけ効果的に記憶するレリーフであった。

 アメリカ合衆国において、南部連合派に認められる以前に、国家退役軍人の墓地であるアーリントンでもそれ独自の記念碑を建立するのには同じく一世代というタイムスパンを要した。南北戦争以降に広まった死者礼拝がアメリカ的な二大政党制によってどのようにして相対的に囲い込まれることができたのかを、ジーデンハウスが示している。しかし、かつての南北戦争の両陣営を死者礼拝において引き合わせることは、一八九八年にスペインに対して共同で勝利して以降ようやく可能となったのである。

 ベトナム戦争の死亡者を記憶する黒き嘆きの壁が建立される以前に、アメリカ合衆国で類比的な問題が提起された。ベトナムをめぐってアメリカの国民が分裂したのである。それゆえ、退役軍人たちというこの控えめな英雄的兵士集団が戦争反対記念碑も建ててよいとした後で、まったく英雄を扱わない壁がはじめて同意を得ることができた。こうした譲歩は高度な政治的文化について証言している。意図の点と美的な点で互いに矛盾するものであるにもかかわらず、ここで議論されている壁が結果として押し切るようにして受け入れられたのである。この壁を前にして、死者への嘆きが儀式化された(ヴァーグナー・パツィフィチィとシュヴァルツ論文)

 このように反記念碑は内政的な攻撃姿勢のますます先鋭化させ、かつての内政上の敵の記憶を消す代わりにあたらしい答えを模索するよう見る者に呼びかけることができる。こうしたことは、第一次大戦時の第七六連隊のかび臭い英雄的な塊を第二次大戦の視点からあらたに見るよう要求する、ハンブルクにあるアルフレート・フルドリチカ[1928-2009. オーストリアの彫刻家]の反記念碑にも当てはまる。このように市民戦争記念碑や内政的な葛藤から生じた反記念碑ですら、たとえそれらが特定のナショナル・ヒストリーによってのみ説明可能であるにすぎないにしても、構造的な類似点を証言しているのである。

 このことは、純粋に外側からより速くより容易に指摘可能であるナショナルな相違にわれわれを導いてくれる。大量虐殺地帯にあるドイツとフランスの兵士記念碑が、一八七〇年以降、どれだけ似てきて、同じような儀式すらをも可能にしたのかを、アネッテ・マースが示している。死亡者のための葬儀記念碑は勝者と敗者との間でほとんど異なることはなかった。しかし、世代が下がってくるにつれ、どのようにしてフランスにおいて報復主義的な記念碑が増えてくるようになったかを、これらの葬儀記念碑は同様に示してくれる。構造的な共通性は双方の敵意において、つまり暗示された敵のイメージがイコン上で増大することにおいてますます示される。ヤイスマンとヴェストハイダーはこうした比較を、およそ二世紀にわたって完遂してみせた。ドイツ・フランス領国にはあらゆる対応一致関係があるにもかかわらず、両国は(少なくとも第一次大戦の記念碑について)〈フランスにおいては市民よりもむしろ兵士が、ドイツにおいては兵士よりもむしろ市民が記憶されている〉という対照関係にある。もしくは別の言い方をすれば、〈フランスの戦争記念碑は(これについてはアネッテ・ベッカーが報告している)国民の自己同一性の産物であるが、逆にドイツの戦争記念碑がそうした自己同一性を見出すための手段であった〉のである。また、政治に関する大国の位置関係がどれほど多く共同体記念碑のうちに再び見出されるか、地方公共団体によって多様化しているにすぎないのかを、クルーズがビーレフェルトの都市に関する通時的な研究によって示している。

 もしアメリカ合衆国と(かつての)ソビエト連邦とを比較するなら、両者の相違は増大する。統一国家において、政治による死者礼拝はまず社会によって担われ行なわれる。退役軍人たちは、100以上もの国民墓地でその近親者と共に埋葬されてもよいのである。普通に軍隊で行なわれているのと同じくらい厳格な葬儀が、民間の社会にいわば浸透している。国家としての党の前もっての命令が礼拝の形式を舵取りしているソ連では、事態は別である。ロシアの伝統がどこで作用しているか、また一九六五年以降、英雄を永遠化するための大衆礼拝がどのようにして抽象的な記念碑によっても組織化され、制度化されたかを、ケンパーが示している。

 またザビーネ・アーノルトが、スターリングラードにおける記念碑群についての自身の研究において、公的な礼拝がどれほど死者を自発的に悼むことから隔たっていたかを調査している。この公的な礼拝は、後に生まれた世代の情操操作や勤労意欲高揚のための道具とされた。しかし国有化された英雄礼拝は、すでに隠蔽されていながらその間に公然と広がってゆく矛盾を惹起した。いずれの場合でも、こうした国同士の比較によって示されるのは、自由民主主義のアメリカも全体主義のロシアも知りえないであろう、国家と社会とのヨーロッパ的断絶がこの二つの世界を区別する上で役立つことである。社会を優位に置くアメリカと国家を優位に置くロシアは、政治による死者礼拝のあらゆる形式をそのうちに含んでいる。[しかし]これによっては、関係者や生き残った者の個人的な悲しみについては、まだ何も語られていない。ここには記念碑を前にした公共的な儀式にのっとらないで、ただ民俗学的にのみ解決されえる類似点が存在するかもしれない。

 ここまでフランス革命以降に記念礼拝において示される構造的共通性の輪郭が描き出され、(どれも相互に依存しつつも)それぞれ独自の歴史にまで遡って示されるナショナルなバリエーションが粗描されたが、最後に、時代を通じて根本的に変化したのは何だったのかが問われる。

 戦争の全面化、すなわちまず機械によって、つぎに化学によって、最終的には核兵器によって殺人方法をたえず完璧化することによって、あらたな記念碑が、言葉なき記念碑が誕生し、ところによってはあらたな礼拝形式も成立した。ヴィルヘルム・レームブルック[1881-1919. ドイツの彫刻家]の「くずおれる男」は、その衣服をまとっていない姿において、自らがどの国民に属しているかを開いたままにしている。図像的に見て、[この彫像がもつ]短剣はやはり兵士が重要であることを知らせているが、イコンとしてこの短剣は、対照しつつ説明されるさまざまな見方を開いてくれる。つまりこの彫像は、負傷者、瀕死の状態にある者、もしくは悲しみにくれる者であり得ていて、これらすべての経験が「くずおれる男」には刻み込まれている。第一次大戦に成立した記念碑で問題となるのは、これまで普通に見られる記念碑のように意味をさらに設定するのでなく、そうした意味そのものへの問いを問う記念碑である。

 ケーテ・コルヴィッツ[1867-1945.ドイツの版画家・彫刻家]も、自らの死亡した息子とその消え去った遺体をもはや見ることができない両親の記念碑を制作し、孤独な悲しみのうちで生き残ってしまったことを問題にするその姿を石像化した。またオシップ・ザッキン[1890-1967. ベラルーシ出身のユダヤ系彫刻家]は、第二次大戦以降、死滅させられたあのユダヤの人々(彼らの死への疑いは死につつあるその瞬間に凝縮している)の像を制作した。こうした記念碑が果たすのは、反省状態(もしくは熟慮)の強制である。そうした強制は意味設定と同時に意味発見を拒否する。たしかに上記のようなことは個々の芸術家の特異=単一の記念碑ではあるが、これらはある(ありうべき)転回を示している。これらの記念碑はそれぞれの暴力による死をそれとして問いに付すという理由で、つまり政治的結論が(呼び出すことはしなくても)どのみち認めることを問いに付すという理由で直接的な政治的メッセージを越えている。

 マヤ・イン・リンのベトナム記念館も、この線上のうちに入る。切り開かれた地中に下ろされている花崗岩の石板は、やはり伝統的な仕方で死亡者と行方不明者(男も女も)のすべての名前を記載している。しかし、地面への切り込みは、上の場合と同様に、消え去ってしまった遺体を指しており、結果としてこの花崗岩板は、その前で何百万人もの人が自らの私的な哀悼を行なう嘆きの壁となっている。しかし同時にこの黒き嘆きの壁は見る者をおのれ自身に連れ戻す。それは、この壁がとてもすべらかに研磨されているために、死者がただもはや名前としてのみ記憶されているその場所で、生き残ったものの各々が鏡像のようにしておのれを再び見出すからである。その記念碑の主題は反省であって、メッセージではない。

 しかし、二〇世紀はさらなる徹底化を生じさせた。階級、つまりマルクス主義的な階級闘争図式に従って人々を分類することが、マルクス主義の継承国において何百万人という数多くの人々を行政が排除することにつながり、かくして彼らは二〇世紀から二一世紀の変わり目になってようやく、ロシアと東ヨーロッパの国々において(中国とその周辺の国々ではまだだが)記念碑に祀られるようになり、それによって公的に記憶に値するようになったのである。

 また人種基準に基づいて人々を擬似ダーウィニズム的、一見すると自然科学的に動物分類することによって、ユダヤ人やジプシーやスラヴ系民族その他の幅広い層の人々すべてはドイツ人によって「根絶やし」にされることになった。ガス室殺人にいたるまで殺害方法が増加してゆくなかに、ある歴史的な性質の源泉が含まれている。無理やり要求されるか、自由意志で引き受けられた死への準備や、祖国のための死はもはや行動を導かない。それは意志し、計画し、自覚して他者を死滅させることや、国家によって操作された殺人、敵であると公言された隣人や同国人や外国人の除去など、敵を人間ではないものとして格下げすることを導き出し、敵の抹消そのものが行動の正当化題目となる。古風で前国家的な振舞い方は省略され、技術もしくはイデオロギーによって凌駕される。これまで相互対立に基づいていた、戦闘における暴力による死ではなく、敵と思われるものの具現化である悪を根絶することが行為の格律となる。そうした根絶はもはやいかなる勝利も知ることなく、もはやただ「最後の勝利」――世俗の衣装をまとった終末論的見方を知るにすぎない。

 技術・官僚主義的な完璧化とイデオロギーの幻惑とがこのように混合することによって生じた実際の歴史は、破局へと行き着いた。この破局がしかるべき変更を加えてくり返されているという十分な徴候がある。こうした徴候と共に、記念碑のイコン的、図像的で図像学的な形態化も(つぎ足されるような仕方で)変化している。女や子供、文民、脱走兵、難民、行方不明者が記念碑に祀られるようになるなら(一体誰がこうした者たちのことなど記憶しようとするだろうか)、それはやはり経験に合致しており直接的に明らかである。もはや勝利が問われるのではなく、いまだ見出されないか拒否された救済だけが問われている。答えを提供することなく答えにいたるよう強要する抽象的な記念碑が作られている。非人格的で、脱身体化された警告記念碑が制作され、いままさに死につつあり、消滅しつつあるさまを視覚化するものが制作されている。四分五裂した円柱、もはや昔からあるような破壊された円柱ではないものが建立されている。くぼみの形が、消失した遺体をかたどっている。遺体自体が消滅してしまったことを主題とする記念碑は、反省においてのみ獲得可能な現実に接近するよう最終的に考案されている。およそ地球上に存在するすべてのホロコースト記念碑は、たとえナショナルな仕方で現われたとしても、言表を受け継ぐ仕方では断念されねばならない形式を模索している。

 人間に起こりうる死の名状し難さ、また近代以降、もはや数えることができないくらい何百万人もの個人を技術によって完膚なきまでに殺害もしたことの名状し難さは、言語を塞ぎ、無言もしくは沈黙へとつれてゆく。狭き脱出口は造形芸術にのみ開かれている。ただこうした造形芸術だけがもはや語りえぬものを感覚化することができるのである。ごくわずかの、名前を挙げて数え上げることができるくらいの芸術家が、われわれ自身の経験のこうした転回を視覚化してきた。態度変更に対する彼らの(ありうべき)寄与は、たとえ(歴史の常であるように)それがあまりに遅くなって理解されるとしても過小評価されてはならない。少なくとも記念碑礼拝において、こうした画期的展開の孤独な先駆者はロダンである。当初ロダンの『青銅時代』がよくある戦争記念碑となるはずであったように、シュモル=アイゼンヴェルト[1915-2010. ドイツの美術史家]は一八七〇~七一年の戦争の敗軍兵の像の制作をロダンに斡旋している。しかしロダンがその兵士の像から象徴的な槍と負傷兵であることをあからさまに示す包帯を取り去った後には、人知れず、どのみち情け容赦ない未来に出くわしてよろめくあの狼狽した若者[の像]が残された。ロダン[戦争を]支持することをやめ、彼がつくる戦士は脱軍事化され、脱ナショナリズム化されている。残ったものはあまねく斡旋される(そして宣伝される)敗者であり、敗者はまさに出発の担保である。ロダンがこれまでどこに向かったかはもうわかっている。敗者がいなくなり、またそれゆえに勝者がいなくなってはじめて、青銅時代が終わることになる。しかしそのような場面はユートピアである。残ったもの、それは殺された死者たちである。彼らを偲ぶことは最低限のことであり、そのことを長続きさせることは不可能なことではない。記念碑がこのことにとって有効かどうか、またそうだとすればどういった記念碑が有効なのかは、これまでのあらゆる経験に従って未決定の問いのままであり続ける。